さよならの準備 | ||
2002.08.11発行「everlasting」所収 | ||
text and edit by 成瀬尚登 | ||
1 夕焼けを見ていた。 もう、その色が、赤なのか黒なのか、私にはわからないというのに。 でも、なぜか、それが夕焼けだということはわかっていた。 私には、眼があった。 たぶん、何でもわかってしまう眼が。
だから、その日、目の前に現れた少年が、一体どういう顔をしているのかはわからなかったけれど……。 けれど、たぶん、私に対して虚構の笑顔を見せているだろうことは、わかった。 彼は、嘘つきだ。 私は、そう認識した。
「雨が降るよ」 降らない、雨なんか。夕焼けなのだから、美しい夕焼けなのだから、雨など降るはずはない。 こんなに明るく晴れていて、私を包んでくれているのに。 空には雲がぽっかり浮かび、朱色に染まって張りつめているのに。 その時、ぽつんとひとつ、頬に滴が当たった。 私は信じなかった。私はわかっていた。夕焼けが溶けて、私の頬に落ちてきただけなのだ。 「うわ、降ってきたぞ」 降っていない、雨なんか、降っていない。それは真っ赤に燃え、美しく空を染める夕焼けのはずなのだから。 私は空を見続けた。顔に夕焼けの滴が冷たく弾けていった。 すると、私の手が、おのずと取られた。 「ほら、行くぞ。濡れたいのか」 それは偽善だ。雨など降っていない。降っていないのだから、濡れるはずがない、濡れたとしても、それは……私の認識のせいだ。他人と言葉を交わす理由も、こうして手を引いてもらう理由も、まして、一緒に雨宿りをする理由すらもないはずだ。 「くそ、こんなところじゃ持たないぞ」 彼は憎々しげに言った。 「ごめんなさい」 私は謝った。 「君のせいじゃないぞ、雨が」 「ごめんなさい」 それだけ言って、私は沈黙した。私は、あなたの……彼にとっての他人なのだから、憎まれているのは私だ。だから、私は謝った。 「走れるか?」 「走れます」 「走るか?」 「嫌です」 「そうか……」 彼は溜息をついた。ひどく困り果てた溜息だ。私は走りたくない。雨に濡れるのなら、それは私にとっては決められた運命なのだから仕方ない。 走りたくない。濡れてもいい。 私がどうするべきなのかは、すでに決まっている。 「……手を引いてくれるなら」 「ん?」 けれども、敢えてそれに反してみた。 「手を引いてくれるなら、私は走れます」 「よしっ」 私の手が引かれた。 「走るぞ」 彼は私の手を引いて駆けだした。 それにひきずられるのも嫌なので、私はみずから足を繰り出した。 ばしゃばしゃという音が、足元から。 頬が、髪が、服が、雨にしっとりと濡れていく。 ひどくうっとうしくて、ひどく快適だ。 私は雨に捨てられる。 捨てられる。そう、捨てられる。 私は笑った。 「あはは、このまま、茶店にでもいくか」 笑った私に、彼は楽しそうに笑い声をかけてきた。 笑う、その奥の感情は、きっと、違う方角へ向いているというのに。 私は笑った。3つの意味で、おかしくて、笑った。
足が止まった。 カランという音がして、私は建物の中に連れられた。 「ああ、空いて……あ、名雪」 「あれー、祐一」 私不在の会話。まるで路傍の石だ。それでいい。 「き、奇遇だな」 「奇遇だね、それよりも……」 「あ、ああ」 彼があわてているのがわかる。 「その子……」 「その子ちゃん?」 「……栞です」 私は真実を告げた。もうすぐ無効になる名前だから、もったいつける必要はなかった。
そうして、私たちは、名雪さんとは別のテーブルで向かい合った。 「自己紹介してなかったな。俺は相沢祐一。さっきのは、俺の従姉妹で名雪っていうんだ」 ウェイターが氷水の入ったグラスを二つ持ってきた。 その一つを、祐一は私の前に差し出した。 「はい、水、栞さん」 「栞でかまいません。さんも、くんも、ちゃんも、要りませんから」 「栞殿」 「そういうこと言う人、嫌いです」 「わかった、栞。これでいいんだろう」 彼は笑った。からかう口調は、なぜかとても心地よく聞こえた。 「で、栞は何にする?」 「アイスクリーム」 「そうか……じゃあ、俺は……」 「寒いのに、なんでそんな冷たいものを頼むんだって、疑問に思いませんでしたか?」 彼の『そうか』の後の間、私はそれを見逃さなかった。待っていたのだから。それは私にとっては日常の一部であって、それに答えるのもまた日常の一部なのだから。 そして、彼は予想どおりの反応を見せるだろう。図星を突かれて困惑し、何故そんなことを聞くのかと苛立つだろう。私にはわかってしまう。 「思った。それもまた粋というやつだな。俺もアイスにしよっと。すいませーん……」 だが、そこには別の光景があった。屈託なく彼はそう言って、ウェイターを呼んで注文してくれる。 何故そんなことを聞いてしまったのか、苛立ったのは、そう、私の方だった。
その後は、とりとめのない話を続けた。この街に来たのはつい最近だということ。従姉妹の家に居候していること。学校のこと、級友のこと。 おそらく、当然に尋ねられる問い。ひどく陳腐で陰惨な設問。 「栞は、学校には行ってないのか?」 「行っていません。頭が悪いので」 「おいおい」 「性格も口も悪いので」 「はは、それは奇遇だな。実は俺もそうなんだ」 「は……?」 意表を突かれて、私は思わず絶句してしまった。 「嘘だと思うなら、名雪に聞いてみようか。おい、名雪」 振り返って、彼は名雪さんを呼びかける。 「俺は頭が悪くて、性格も悪くて、口も悪いよな」 「ぜんぶ、そのとおりだよ」 こともなく名雪さんはそう答えた。一人でいたから、待ち合わせの人は、まだ来ていないようだ。 「な、言ったとおりだろ」 「はあ……」 陳腐だとか陰惨だとか、そういう熟語はもう私にとってはどうでもよくなっていた。
雨が上がってから、喫茶店を出ることにした。 「じゃ、名雪、ごちそうさま」 「ええ、ちょ、ちょっと困るよ、祐一……」 彼は私たちの伝票を名雪さんのテーブルの上に置いて去ろうとしていた。 「すまん、持ち合わせがない。立て替えておいてくれ」 「私も手持ちがないんだよ。それに、今日は香里におごらないといけないし」 「うーん、それは弱ったな」 「……私が、出しますよ」 伝票を取って、私はレジの方へ歩いた。レジはドアの脇にあって、ドアに背を向ける形になる。 「あ、それは……」 追いかけてくる彼を無視し、有無を言わさず、伝票をレジの前に置いた。 それと同時に喫茶店のドアが開いた。 「ごめんね、名雪。ちょっと委員会の方でごたごたが……」 その人は私の背後を抜けて、まっすぐに名雪さんのテーブルへ向かった。 支払いが終わったのと、その人が着席したのはほとんど同時だった。 ありがとうございましたというウェイターの声を背にして、私と彼は店の外へ出た。 雨はすっかり上がっていた。すっかり晴れて真っ黒になっていた。 「ごめんな。誘っておいて……」 「いいえ、こちらこそ、ありがとうございました」 慇懃無礼に私はお辞儀をした。 そして、次に出るであろう彼の言葉を先に封じた。 「返さなくて結構ですから」 「おいおい、そういうわけにも……」 「どうせ持っていけませんから」 「持っていくって……」 彼の不審な顔に、私は偽りの微笑みで答えた。 「では、私は帰ります」 「送っていこうか」 「要りません」 「じゃあ、気をつけて」 はいと答えて、私は彼に背を向けた。 けれど、一言言い忘れたことを思い出して、もう一度、振り返った。 「さようなら」 「ああ、さようなら」 彼は手を振って答えてくれた。
2
夜に雪が降って、朝に光が溢れた。 私は、かつてそこが私の舞台となるはずだった場所へ、歩いていた。 それまでの道はぬかるんでいて、幾度となく転んでしまいそうだった。 ガードレールにつかまり、壁に手をやり、電信柱にしがみつき。 無様な格好だ。それは心から楽しかった。 舞台は、季節の彩りを変え、そこに存在した。 私は、そこを学校と呼んでいた。
裏庭には一本の木があった。 その周りは未踏のままで、雪が白く積もっていた。 さくさくと、足跡をつけながら、私は木の根元へと歩いた。そこは、私だけの世界になった。 囲むように校舎があって、その窓にはちらちらと生徒たちの姿が見えた。 目を背けずにはいられなかった。見えないはずの未来が、そこには数限りなく見えたからだ。 不意に、足音が聞こえた。 振り返ると、そこには見覚えのある顔があった。 「あ、やっぱり栞か」 彼だった。私ではないもう一つの足跡をつけながら、彼は白い私の世界へ入ってきた。 「どうしたんだ、こんなところで……」 「学校に来ました」 「それはそうだけど……」 「頭も性格も口も悪い私でも、学校に来れるんですね」 「おいおい……」 彼は辟易した顔を見せた。二日越しでようやく望みの表情が見られたことに、私は嬉しくてくすくすと笑った。 「ここにいるってことは、栞もここの生徒なのか?」 「はい、生徒でした」 彼は気づいていない。それは過去形だということに。過去の助動詞は、今の私にとって親愛なる友人なのだから。 「それで、祐一さんは、なぜ、ここに?」 「栞を見かけたから。せっかくだし、学食で一緒に何か食っていかないか」 「校舎には、入れません」 「どうして」 「制服を着てきませんでした」 「どうせ、ばれないって。この学校、いい加減だからさ」 熱心な瞳が、私を見ていた。きらきらと輝いていて、一途で、優しかった。 だから、私は、逃げるしかできなかった。価値も資格も、私の所有するものではなかった。 「……ごめんなさい」 「あ、いや。無理に誘って悪かった。明日は制服を着てきてくれると助かる」 「明日……明日は、わかりません」 「とりあえず待ってるから」 「できない約束をさせないでください。そんなこと言う人、嫌いです」 そう言い放って彼に背を向け、私は急ぎ足でその場から立ち去った。 不思議に苛ついていた。そういう感情の揺らぎはすべて捨て去ったはずだった。だから怒りもおぼえていた。 その時、私は見てしまっていた。制服を着て、この場所で彼に会って、一緒に食堂へ行く光景を。そして、私は抱いてはいけない思いを抱いてしまった。 来るかどうかわからない未来を、まるで到来して当然といったように期待してしまった。 私は、夢を、見てしまった。 だから、私は、恐かったのだ。
☆
見慣れた窓が、見慣れた赤の色に染まる時間になった。 薄暗い部屋の真ん中で、床に座り込んでいた私は、いつものように机へ手を伸ばし、引き出しを開けてカッターを取り出した。 鉛色の刃をいっぱいに出して、窓から射し込む光にかざした。 それは夕陽に濡れてきらめき、艶やかな飴色をたたえた光を放った。 そこにかすかに私の歪んだ顔が映った。 私は、じっと刃を見つめた。 赤色とは不思議と仲良くなれそうな気がしていた。 舌を出して、カッターの刃の背を舐めた。鉄の味がした。この鉄の味を、この刃ももうすぐ吸うことになる。 カッターをひとまず床に置いて、左腕をまくり上げた。 血の気が薄く青白い皮膚に、青い血管が浮かんでいる。 左手首は、いつもどおりだ。 そして、あらためてカッターを右手で持ち直して、その刃を左の手首にあてがった。 これを後ろへ引くか、前へ押すか。どちらにしても、その瞬間から、私の終焉がはじまる。 息を吐いて、私はその瞬間を、待った。 この私の右手が動くのを、私と、私の左手首は、待っていた。 背後から迫る赤い色が、私のことをじっと見守っている。 緊張しながら、私は、右手の観察を続けた。 その時、ふらっと身体から力が抜けた。 肩の力が抜けた反動で左手首からカッターが離れ、私の身体は床に寝転がるように倒れてしまった。 窓の外は、もう真っ暗だった。 溜息をついた。赤色は呆れて去っていた。 不意に、公園が頭に浮かんできた。 もしかしたら、彼は、公園のあそこで、また待っているかもしれない。 起きあがって、ストールを巻いて、鏡を見て、そこに置いてあった銀のフルートを持って、私は部屋を出た。
街頭がわずかに灯るだけで、そこへ行く道には悪意が満ちていたようだった。 ひどく焦っていた。無様な自分を許せなくなっていた。できるだけ急がなくてはいけないと思い、私は駆けていた。 公園の噴水が見えてきた。 安堵に私は足を止め、そして、驚きにまた足を止めた。 人影がふたつ見えた。ひとつは彼だ。もうひとつは、私のよく知るあの人だった。 「……知らないわよ」 その人は、怒りにまかせて、そう言った。 「私に妹なんていないわ」 続けて、私の聞こえる距離で、はっきりとそう言った。 「おい、美坂……っ!」 彼が呼び止めるのを無視して、その人は向こうへ去っていった。彼もまた怒っていた。 「……くっ!」 地面を蹴り上げ、続けて彼は噴水の縁に座り込んだ。 拳で自分の太ももを叩き、必死に何かを堪えているように見えた。 それ以上、私の眼は鮮明な映像を映さなかった。 滴で歪んでぼやけてしまったから。 瞬きをした。その滴がこぼれて落ちていった。 そうして、私はそのまま後ろを向いて、私の家へ駆けだした。 私はすべてを捨てたはずだった。それは嘘だった。捨てられるものしか、捨てていなかった。 奪われるだけだ。私ははじめてそのことに気づいた。
その人は、ドアの向こうにいる。 「栞、夕飯、冷めちゃうわよ。出てきなさい」 ドアを叩いて、私から何かを奪おうとしている。 枕を抱いて、私はベッドの上でじっとしていた。 「もう、寝ちゃったのかしら……」 去っていく気配がした。 試みに、私は呼んでみた。 「お姉ちゃん……」 「何?」 足を止めて、問い返してくる。 「私は……お姉ちゃんの、妹だよね」 たぶん、ドアの向こうの人は、一瞬びくっとしたと思う。 すこしの間を置いて、その人は答えた。 「もちろんよ。栞は私の妹よ」 その瞬間、私は枕をドアへ投げつけていた。 けれど、枕は届かずに、部屋の中央で力無く落ちた。 毛布をかぶる。うつぶせになって、すべてを拒絶する。 そして、ベッドに突っ伏して、私は声を上げて、泣いた。
3
次の日。 次の日という時間が私に残されていたことを感謝して、学校へ向かった。 制服は着ているけれど、校舎の中へ入るのはためらわれたから、校舎の裏を回って、あの木の生えた裏庭へ行く。 今日も快晴だった。雪はだいぶ溶けてしまっていて、そのせいで地面がぬかるんで、かえって歩きにくくなっていた。 その角を回り込んで、裏庭が見えた。 そこには、すでに彼が待っていた。 私は足を踏み出そうとした。 その時、校舎から、よく知っている人が姿を現した。 「相沢君」 「美坂か。どうした?」 「昨日のこと。謝るのと、話があるのと、両方」 「そうか」 その人は彼に近寄っていき、そして、木に手をついた。 「昨日はごめんなさい。気が動転してたわ」 「いいよ。で、話っていうのは?」 「たぶん、予想どおりよ。栞のこと」 「栞、ああ……やっぱり美坂の妹なんだろ」 その瞬間、私の鼓動ははやくなった。その言葉を聞いてしまった恐怖がよみがえってきた。 その人の口が動いた。 「ええ、私の妹よ……紛れもなく、大好きな妹」 あっ……と、私は思わず声を上げてしまった。 「……で、その大好きな妹を、妹でないと言ってしまった、お姉さんの言い訳を聞きたいな」 彼の視線は、皮肉と少しの敵意を持って、私の姉に向けられていた。 その気配に怒りで返そうと表情が険しくなったが、すぐにそれは消え、姉は思案と困惑に固められてしばらく動かなかった。 私にはわかっていた。たぶん、姉は、あのことを、言おうかどうか迷っているのだろう。 「……栞は、病気なの。いつ倒れるか、いつ死ぬか、わからない身体なの」 彼から顔をそらし、まるで空へ向かって伸びている木に向かって語りかけるように、姉は告白した。 「小さい頃から、私は栞が好きだった。栞のためだったら何でもできたし、栞の望むことなら何でもしてあげようと思った。でも、どうしてもかなえられないことが……去年よ、栞、いきなり血を吐いて倒れたの。私のことを呼ぶから、苦しそうに呼ぶから、口に血が溢れているから、それを口で吸い出してあげて、それでも苦しそうで……。入院して検査したら、いつ死ぬかわからないって言われて……」 姉は力任せに幹を殴った。 「あの子、何のために生きてきたのよっ……! 生きるってことは、ただの徒労なの、ねえ!」 もう一度、拳を幹に叩き付ける。 そして、振り返った。微笑んでいた。瞳には涙が浮かび、熱情に灼け切れそうな感情を抑えて、私の姉は微笑していた。 「私は、それから逃げたかっただけよ。笑ってくれていいわよ、ただのエゴよ。私は、ただのエゴイスト、それだけよ」 そう言って、姉は校舎へ戻っていった。胸を張って、堂々として、落ち着いて、気高くて、ただしく私の姉だった。 私も家に帰ることにした。彼に会うことは、姉を冒涜するような気がしたからだ。 姉は、私にとって、そういう姉なのだ。
☆
夕焼けの中、私は笛を持って公園へ歩いた。雪はほとんど溶けてしまって、足取りは軽かった。 確かめるように、噴水の前をのぞいてみる。人影はひとつ。彼のものだった。 服と髪を整えて、その側へ近づいていった。 「祐一さん」 「あ、栞……」 その表情は初めて会ったときのよりも硬かった。 私は微笑んだ。 「隣り、いいですか」 「もちろん」 並んで腰をかけ、空を見上げた。 「今日もきれいな夕焼けで、よかったですね」 「ああ……」 彼も空を見上げる。 「私、赤い色って、嫌いなんです」 「どうして?」 「血の色じゃないですか、赤って」 「まあ、それは……」 「……夕焼けの中で、自殺しようと思ってました」 「え……っ」 驚いたように、彼はこちらを見る。私は空を見たままで答えた。 「そんなことで驚いていたら、だめです。あとでもっと驚くことを言うつもりですから」 「そうか……じゃなくて、なんで、そんなことを……」 「私のことは、お姉ちゃんから聞きましたよね」 答えはなかった。たぶん、動揺しているのだと思う。 「いつ死ぬのも同じだからって、はやく決着をつけたかったんです。毎日毎日、もう明日はないかもしれないと思って生きていくのって、気が狂いそうになります」 「だからって……」 「それには、生きたいって思うことを捨てなければならない。だから、私は何のために生きているんだろうと考えて、色々なものを捨ててきました。嬉しいと思うこと、楽しいと思うこと、悲しいと思うこと。そういうものを、私はすべて捨てました。でも、実際は、捨ててないものが多かったんですよ」 「……お姉さん?」 「お姉ちゃんは……捨てられるわけ、ありません」 「よかった……」 安堵の溜息が聞こえてきた。 「結局、ぜんぶ無駄だったんですよ。無駄というか、嘘なんですよ。捨てられるはずがないんです。世界にさよならって言う準備なんか、本当はできるわけはないんです」 そこまで言って、私はくすっと笑って彼を見た。 「祐一さん」 「ん?」 「もう一つ、あなたを驚かせることがあります。私、気づいたことがあります」 「何?」 彼は屈託なく問い返してきた。 その時になって、急に私は緊張してきて、それを落ち着かせようと息を飲み込んで、一呼吸を置いて、そして、決意してその言葉を、言った。 「……祐一さん、あなたも、私と同じ人なんじゃないですか?」 その瞬間、かすかに彼の口許が動いた。だが、そのまま身体を反らせて、天を仰いだ。自分の感情がおのずと表れてしまう顔、それをすべて隠すように、上を向いた。 そのまま短い沈黙があって、彼の声がその後に聞こえてきた。 「……気づいたのは、いつ?」 「私に近づいたときから」 「怒るぞ。それは、自分が死を呼ぶ人間という意味で言っているんだろう」 「ごめんなさい……いつからかは、わかりません。でも、なんとなく、私にはわかりました」 「そうか……そのとおり。俺は、死ぬ」 反動をつけて彼は元の姿勢に戻り、にっこりと笑った。 私はうつむいた。腕が、足が、肩が、震えてしまって、どうしようもなかった。 「そんなはずはないって、その答えを待っていたんです。でも……」 すると、私の肩に、彼の腕がかかってきた。そのまま抱き寄せられて、私は顔を彼の胸の中におしつけた。 「仕方ない。真実なんだから」 「そんな真実は、聞きたくなかった……祐一さんが現れて……さよならの準備なんか嘘なんだって、気づけたのに。私は、生きようと思ったのに……」 私は泣いた。はばからず、嗚咽を洩らして、彼の胸の中で泣いた。
「祐一さん。また明日、ここで会いたいです」 恐怖を笑顔でうち消しながら、私は言った。 明日という言葉が、私以外の人のために恐いと思ったのは、初めてだった。 「もちろん」 彼は屈託ない笑顔で答えた。 「明日は、聞かせたいものがあるんです」 私は銀のフルートを差し出した。 「これ。そうだ、さっきから気になってたんだ」 「今日はもう遅いですから、明日にします」 「そうだな。楽しみにしてる。あ、送っていこうか?」 「お姉ちゃんにからかわれますから、ひとりで帰ります」 「そうか。残念だな。じゃあ……」 そう言って、彼は背を向けた。 「あ、祐一さん」 私は呼び止めた。 「ん?」 「あ、あの……」 たぶん、私の顔は真っ赤だろう。いざ言おうとすると、緊張で心の門が閉まって、それをこじ開けるのがまた大変で……準備が必要なのは、むしろこういう瞬間にこそかもしれない。 「あの……お願いがあります」 「ん、なに?」 誰もいない公園を見回して、そして、彼のそばに寄って、小声でささやいた。 「キス……してくれませんか」 「き……あ、ああ」 彼も赤面した。 「栞、目を閉じて」 あとは委ねて、私は目を閉じた。彼の冷たい手が、私の左の頬に添えられた。 息づかいが、近くなってきた。 その瞬間、私の唇は熱が伝わり、心には温かさが伝わってきた。 急に感情がこみ上げてきて、涙が溢れてきた。 すこしして、彼の唇が離れた。そして、それに気づいて、あわてた顔になった。 「あ、ごめん……」 「ちがいます。嬉しいんですよ」 私は彼から離れた。引き際が肝心だ。 「じゃあ、明日。祐一さん。おやすみなさい」 それだけ言い残して、私は唖然とした彼を置いて、駆けだした。 嬉しいのか何なのか、なぜだか駆けだしたくてしょうがなかった。 涙はまだ溢れてきて止まらなかった。 けれど、もうその時には、涙の質は変わってきた。 あの時の涙は、彼を獲得した喜び。でも、獲得した彼は……その後の言葉はつなげない。絶対につなげない。 そのまま家に帰って部屋に入り、ベッドに突っ伏して、私は、昨日と同じように、声を上げて、泣いた。
4
星空が綺麗だった。そのまま落ちてきそうなくらいに近くにあって、私は手を伸ばした。 彼は笑いながら、私をたしなめた。 「お姉ちゃんのことを、話したいんです」 「うん、聞くよ」 「私は身体が小さくて、幼稚園や学校でよくいじめられそうになっていました。そんなときに、お姉ちゃんは必ず現れてくれて、私を助けてくれました。おやつもよく分けてくれました。一緒にお風呂に入ったり、一緒に買い物をしたり。でも、私が死ぬかもしれないとわかってから、私はお姉ちゃんと距離を感じました。私が死ぬことでお姉ちゃんが不幸になるのなら……私は、最初からいなかったものになりたいって、そう思ったんです……私、だめな妹です。お姉ちゃんはずっと私のことを好きでいてくれました。だから、やっぱり、私は、お姉ちゃんを誇りに思います」 「その言葉を聞けて、俺は嬉しいよ。それだけで、栞に会った甲斐があったというものだ」 「祐一さん、大げさです」 「まあ……栞、俺は思うんだけど」 「はい」 「人は、必ず、死ぬ。例外はない。だから、生きている過程に価値がある。俺は、そう思う」 「私も、わかる気がします」 「それがわかれば、それで充分だ」 「はい」 たぶん、私は、生まれてきて、一番きれいな笑顔を見せたと思う。 彼に……私の行き先を見せてくれた人に。 「私の肩に、寄りかかりませんか?」 「ああ、そうさせてもらうかな」 彼の頭が、私の左の肩に乗った。 「でも、これだと、吹きにくくないか?」 「運指は右手ですから、大丈夫ですよ。でも、ちょっと揺れるかもしれません」 「いい揺りかごだな」 私はこくんとうなずいて、銀のフルートを構えた。 「吹きますよ」 わずかに私の肩が揺れた。 それを確かめて、私はフルートを吹いた。 夜の花火……。 律動に合わせて、かすかに左の肩が揺れる。 その揺れが、だんだんと小さくなっていく。 私は笛を吹いた。闇に響くように、何かを鎮めるかのように。 演奏が終わった。 笛を脇に置く。 そして、左腕を回して、冷たくなった彼の頭を、胸の中に抱いた。 「さようなら……」
「さよならの準備」終劇 |