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さよならの準備
2002.08.11発行「everlasting」所収
text and edit by 成瀬尚登



 夕焼けを見ていた。

 もう、その色が、赤なのか黒なのか、私にはわからないというのに。

 でも、なぜか、それが夕焼けだということはわかっていた。

 私には、眼があった。

 たぶん、何でもわかってしまう眼が。



 だから、その日、目の前に現れた少年が、一体どういう顔をしているのかはわからなかったけれど……。

 けれど、たぶん、私に対して虚構の笑顔を見せているだろうことは、わかった。

 彼は、嘘つきだ。

 私は、そう認識した。



「雨が降るよ」

 降らない、雨なんか。夕焼けなのだから、美しい夕焼けなのだから、雨など降るはずはない。

 こんなに明るく晴れていて、私を包んでくれているのに。

 空には雲がぽっかり浮かび、朱色に染まって張りつめているのに。

 その時、ぽつんとひとつ、頬に滴が当たった。

 私は信じなかった。私はわかっていた。夕焼けが溶けて、私の頬に落ちてきただけなのだ。

「うわ、降ってきたぞ」

 降っていない、雨なんか、降っていない。それは真っ赤に燃え、美しく空を染める夕焼けのはずなのだから。

 私は空を見続けた。顔に夕焼けの滴が冷たく弾けていった。

 すると、私の手が、おのずと取られた。

「ほら、行くぞ。濡れたいのか」

 それは偽善だ。雨など降っていない。降っていないのだから、濡れるはずがない、濡れたとしても、それは……私の認識のせいだ。他人と言葉を交わす理由も、こうして手を引いてもらう理由も、まして、一緒に雨宿りをする理由すらもないはずだ。

「くそ、こんなところじゃ持たないぞ」

 彼は憎々しげに言った。

「ごめんなさい」

 私は謝った。

「君のせいじゃないぞ、雨が」

「ごめんなさい」

 それだけ言って、私は沈黙した。私は、あなたの……彼にとっての他人なのだから、憎まれているのは私だ。だから、私は謝った。

「走れるか?」

「走れます」

「走るか?」

「嫌です」

「そうか……」

 彼は溜息をついた。ひどく困り果てた溜息だ。私は走りたくない。雨に濡れるのなら、それは私にとっては決められた運命なのだから仕方ない。

 走りたくない。濡れてもいい。

 私がどうするべきなのかは、すでに決まっている。

「……手を引いてくれるなら」

「ん?」

 けれども、敢えてそれに反してみた。

「手を引いてくれるなら、私は走れます」

「よしっ」

 私の手が引かれた。

「走るぞ」

 彼は私の手を引いて駆けだした。

 それにひきずられるのも嫌なので、私はみずから足を繰り出した。

 ばしゃばしゃという音が、足元から。

 頬が、髪が、服が、雨にしっとりと濡れていく。

 ひどくうっとうしくて、ひどく快適だ。

 私は雨に捨てられる。

 捨てられる。そう、捨てられる。

 私は笑った。

「あはは、このまま、茶店にでもいくか」

 笑った私に、彼は楽しそうに笑い声をかけてきた。

 笑う、その奥の感情は、きっと、違う方角へ向いているというのに。

 私は笑った。3つの意味で、おかしくて、笑った。



 足が止まった。

 カランという音がして、私は建物の中に連れられた。

「ああ、空いて……あ、名雪」

「あれー、祐一」

 私不在の会話。まるで路傍の石だ。それでいい。

「き、奇遇だな」

「奇遇だね、それよりも……」

「あ、ああ」

 彼があわてているのがわかる。

「その子……」

「その子ちゃん?」

「……栞です」

 私は真実を告げた。もうすぐ無効になる名前だから、もったいつける必要はなかった。



 そうして、私たちは、名雪さんとは別のテーブルで向かい合った。

「自己紹介してなかったな。俺は相沢祐一。さっきのは、俺の従姉妹で名雪っていうんだ」

 ウェイターが氷水の入ったグラスを二つ持ってきた。

 その一つを、祐一は私の前に差し出した。

「はい、水、栞さん」

「栞でかまいません。さんも、くんも、ちゃんも、要りませんから」

「栞殿」

「そういうこと言う人、嫌いです」

「わかった、栞。これでいいんだろう」

 彼は笑った。からかう口調は、なぜかとても心地よく聞こえた。

「で、栞は何にする?」

「アイスクリーム」

「そうか……じゃあ、俺は……」

「寒いのに、なんでそんな冷たいものを頼むんだって、疑問に思いませんでしたか?」

 彼の『そうか』の後の間、私はそれを見逃さなかった。待っていたのだから。それは私にとっては日常の一部であって、それに答えるのもまた日常の一部なのだから。

 そして、彼は予想どおりの反応を見せるだろう。図星を突かれて困惑し、何故そんなことを聞くのかと苛立つだろう。私にはわかってしまう。

「思った。それもまた粋というやつだな。俺もアイスにしよっと。すいませーん……」

 だが、そこには別の光景があった。屈託なく彼はそう言って、ウェイターを呼んで注文してくれる。

 何故そんなことを聞いてしまったのか、苛立ったのは、そう、私の方だった。



 その後は、とりとめのない話を続けた。この街に来たのはつい最近だということ。従姉妹の家に居候していること。学校のこと、級友のこと。

 おそらく、当然に尋ねられる問い。ひどく陳腐で陰惨な設問。

「栞は、学校には行ってないのか?」

「行っていません。頭が悪いので」

「おいおい」

「性格も口も悪いので」

「はは、それは奇遇だな。実は俺もそうなんだ」

「は……?」

 意表を突かれて、私は思わず絶句してしまった。

「嘘だと思うなら、名雪に聞いてみようか。おい、名雪」

 振り返って、彼は名雪さんを呼びかける。

「俺は頭が悪くて、性格も悪くて、口も悪いよな」

「ぜんぶ、そのとおりだよ」

 こともなく名雪さんはそう答えた。一人でいたから、待ち合わせの人は、まだ来ていないようだ。

「な、言ったとおりだろ」

「はあ……」

 陳腐だとか陰惨だとか、そういう熟語はもう私にとってはどうでもよくなっていた。



 雨が上がってから、喫茶店を出ることにした。

「じゃ、名雪、ごちそうさま」

「ええ、ちょ、ちょっと困るよ、祐一……」

 彼は私たちの伝票を名雪さんのテーブルの上に置いて去ろうとしていた。

「すまん、持ち合わせがない。立て替えておいてくれ」

「私も手持ちがないんだよ。それに、今日は香里におごらないといけないし」

「うーん、それは弱ったな」

「……私が、出しますよ」

 伝票を取って、私はレジの方へ歩いた。レジはドアの脇にあって、ドアに背を向ける形になる。

「あ、それは……」

 追いかけてくる彼を無視し、有無を言わさず、伝票をレジの前に置いた。

 それと同時に喫茶店のドアが開いた。

「ごめんね、名雪。ちょっと委員会の方でごたごたが……」

 その人は私の背後を抜けて、まっすぐに名雪さんのテーブルへ向かった。

 支払いが終わったのと、その人が着席したのはほとんど同時だった。

 ありがとうございましたというウェイターの声を背にして、私と彼は店の外へ出た。

 雨はすっかり上がっていた。すっかり晴れて真っ黒になっていた。

「ごめんな。誘っておいて……」

「いいえ、こちらこそ、ありがとうございました」

 慇懃無礼に私はお辞儀をした。

 そして、次に出るであろう彼の言葉を先に封じた。

「返さなくて結構ですから」

「おいおい、そういうわけにも……」

「どうせ持っていけませんから」

「持っていくって……」

 彼の不審な顔に、私は偽りの微笑みで答えた。

「では、私は帰ります」

「送っていこうか」

「要りません」

「じゃあ、気をつけて」

 はいと答えて、私は彼に背を向けた。

 けれど、一言言い忘れたことを思い出して、もう一度、振り返った。

「さようなら」

「ああ、さようなら」

 彼は手を振って答えてくれた。





 夜に雪が降って、朝に光が溢れた。

 私は、かつてそこが私の舞台となるはずだった場所へ、歩いていた。

 それまでの道はぬかるんでいて、幾度となく転んでしまいそうだった。

 ガードレールにつかまり、壁に手をやり、電信柱にしがみつき。

 無様な格好だ。それは心から楽しかった。

 舞台は、季節の彩りを変え、そこに存在した。

 私は、そこを学校と呼んでいた。



 裏庭には一本の木があった。

 その周りは未踏のままで、雪が白く積もっていた。

 さくさくと、足跡をつけながら、私は木の根元へと歩いた。そこは、私だけの世界になった。

 囲むように校舎があって、その窓にはちらちらと生徒たちの姿が見えた。

 目を背けずにはいられなかった。見えないはずの未来が、そこには数限りなく見えたからだ。

 不意に、足音が聞こえた。

 振り返ると、そこには見覚えのある顔があった。

「あ、やっぱり栞か」

 彼だった。私ではないもう一つの足跡をつけながら、彼は白い私の世界へ入ってきた。

「どうしたんだ、こんなところで……」

「学校に来ました」

「それはそうだけど……」

「頭も性格も口も悪い私でも、学校に来れるんですね」

「おいおい……」

 彼は辟易した顔を見せた。二日越しでようやく望みの表情が見られたことに、私は嬉しくてくすくすと笑った。

「ここにいるってことは、栞もここの生徒なのか?」

「はい、生徒でした」

 彼は気づいていない。それは過去形だということに。過去の助動詞は、今の私にとって親愛なる友人なのだから。

「それで、祐一さんは、なぜ、ここに?」

「栞を見かけたから。せっかくだし、学食で一緒に何か食っていかないか」

「校舎には、入れません」

「どうして」

「制服を着てきませんでした」

「どうせ、ばれないって。この学校、いい加減だからさ」

 熱心な瞳が、私を見ていた。きらきらと輝いていて、一途で、優しかった。

 だから、私は、逃げるしかできなかった。価値も資格も、私の所有するものではなかった。

「……ごめんなさい」

「あ、いや。無理に誘って悪かった。明日は制服を着てきてくれると助かる」

「明日……明日は、わかりません」

「とりあえず待ってるから」

「できない約束をさせないでください。そんなこと言う人、嫌いです」

 そう言い放って彼に背を向け、私は急ぎ足でその場から立ち去った。

 不思議に苛ついていた。そういう感情の揺らぎはすべて捨て去ったはずだった。だから怒りもおぼえていた。

 その時、私は見てしまっていた。制服を着て、この場所で彼に会って、一緒に食堂へ行く光景を。そして、私は抱いてはいけない思いを抱いてしまった。

 来るかどうかわからない未来を、まるで到来して当然といったように期待してしまった。

 私は、夢を、見てしまった。

 だから、私は、恐かったのだ。





 見慣れた窓が、見慣れた赤の色に染まる時間になった。

 薄暗い部屋の真ん中で、床に座り込んでいた私は、いつものように机へ手を伸ばし、引き出しを開けてカッターを取り出した。

 鉛色の刃をいっぱいに出して、窓から射し込む光にかざした。

 それは夕陽に濡れてきらめき、艶やかな飴色をたたえた光を放った。

 そこにかすかに私の歪んだ顔が映った。

 私は、じっと刃を見つめた。

 赤色とは不思議と仲良くなれそうな気がしていた。

 舌を出して、カッターの刃の背を舐めた。鉄の味がした。この鉄の味を、この刃ももうすぐ吸うことになる。

 カッターをひとまず床に置いて、左腕をまくり上げた。

 血の気が薄く青白い皮膚に、青い血管が浮かんでいる。

 左手首は、いつもどおりだ。

 そして、あらためてカッターを右手で持ち直して、その刃を左の手首にあてがった。

 これを後ろへ引くか、前へ押すか。どちらにしても、その瞬間から、私の終焉がはじまる。

 息を吐いて、私はその瞬間を、待った。

 この私の右手が動くのを、私と、私の左手首は、待っていた。

 背後から迫る赤い色が、私のことをじっと見守っている。

 緊張しながら、私は、右手の観察を続けた。

 その時、ふらっと身体から力が抜けた。

 肩の力が抜けた反動で左手首からカッターが離れ、私の身体は床に寝転がるように倒れてしまった。

 窓の外は、もう真っ暗だった。

 溜息をついた。赤色は呆れて去っていた。

 不意に、公園が頭に浮かんできた。

 もしかしたら、彼は、公園のあそこで、また待っているかもしれない。

 起きあがって、ストールを巻いて、鏡を見て、そこに置いてあった銀のフルートを持って、私は部屋を出た。



 街頭がわずかに灯るだけで、そこへ行く道には悪意が満ちていたようだった。

 ひどく焦っていた。無様な自分を許せなくなっていた。できるだけ急がなくてはいけないと思い、私は駆けていた。

 公園の噴水が見えてきた。

 安堵に私は足を止め、そして、驚きにまた足を止めた。

 人影がふたつ見えた。ひとつは彼だ。もうひとつは、私のよく知るあの人だった。

「……知らないわよ」

 その人は、怒りにまかせて、そう言った。

「私に妹なんていないわ」

 続けて、私の聞こえる距離で、はっきりとそう言った。

「おい、美坂……っ!」

 彼が呼び止めるのを無視して、その人は向こうへ去っていった。彼もまた怒っていた。

「……くっ!」

 地面を蹴り上げ、続けて彼は噴水の縁に座り込んだ。

 拳で自分の太ももを叩き、必死に何かを堪えているように見えた。

 それ以上、私の眼は鮮明な映像を映さなかった。

 滴で歪んでぼやけてしまったから。

 瞬きをした。その滴がこぼれて落ちていった。

 そうして、私はそのまま後ろを向いて、私の家へ駆けだした。

 私はすべてを捨てたはずだった。それは嘘だった。捨てられるものしか、捨てていなかった。

 奪われるだけだ。私ははじめてそのことに気づいた。



 その人は、ドアの向こうにいる。

「栞、夕飯、冷めちゃうわよ。出てきなさい」

 ドアを叩いて、私から何かを奪おうとしている。

 枕を抱いて、私はベッドの上でじっとしていた。

「もう、寝ちゃったのかしら……」

 去っていく気配がした。

 試みに、私は呼んでみた。

「お姉ちゃん……」

「何?」

 足を止めて、問い返してくる。

「私は……お姉ちゃんの、妹だよね」

 たぶん、ドアの向こうの人は、一瞬びくっとしたと思う。

 すこしの間を置いて、その人は答えた。

「もちろんよ。栞は私の妹よ」

 その瞬間、私は枕をドアへ投げつけていた。

 けれど、枕は届かずに、部屋の中央で力無く落ちた。

 毛布をかぶる。うつぶせになって、すべてを拒絶する。

 そして、ベッドに突っ伏して、私は声を上げて、泣いた。





 次の日。

 次の日という時間が私に残されていたことを感謝して、学校へ向かった。

 制服は着ているけれど、校舎の中へ入るのはためらわれたから、校舎の裏を回って、あの木の生えた裏庭へ行く。

 今日も快晴だった。雪はだいぶ溶けてしまっていて、そのせいで地面がぬかるんで、かえって歩きにくくなっていた。

 その角を回り込んで、裏庭が見えた。

 そこには、すでに彼が待っていた。

 私は足を踏み出そうとした。

 その時、校舎から、よく知っている人が姿を現した。

「相沢君」

「美坂か。どうした?」

「昨日のこと。謝るのと、話があるのと、両方」

「そうか」

 その人は彼に近寄っていき、そして、木に手をついた。

「昨日はごめんなさい。気が動転してたわ」

「いいよ。で、話っていうのは?」

「たぶん、予想どおりよ。栞のこと」

「栞、ああ……やっぱり美坂の妹なんだろ」

 その瞬間、私の鼓動ははやくなった。その言葉を聞いてしまった恐怖がよみがえってきた。

 その人の口が動いた。

「ええ、私の妹よ……紛れもなく、大好きな妹」

 あっ……と、私は思わず声を上げてしまった。

「……で、その大好きな妹を、妹でないと言ってしまった、お姉さんの言い訳を聞きたいな」

 彼の視線は、皮肉と少しの敵意を持って、私の姉に向けられていた。

 その気配に怒りで返そうと表情が険しくなったが、すぐにそれは消え、姉は思案と困惑に固められてしばらく動かなかった。

 私にはわかっていた。たぶん、姉は、あのことを、言おうかどうか迷っているのだろう。

「……栞は、病気なの。いつ倒れるか、いつ死ぬか、わからない身体なの」

 彼から顔をそらし、まるで空へ向かって伸びている木に向かって語りかけるように、姉は告白した。

「小さい頃から、私は栞が好きだった。栞のためだったら何でもできたし、栞の望むことなら何でもしてあげようと思った。でも、どうしてもかなえられないことが……去年よ、栞、いきなり血を吐いて倒れたの。私のことを呼ぶから、苦しそうに呼ぶから、口に血が溢れているから、それを口で吸い出してあげて、それでも苦しそうで……。入院して検査したら、いつ死ぬかわからないって言われて……」

 姉は力任せに幹を殴った。

「あの子、何のために生きてきたのよっ……! 生きるってことは、ただの徒労なの、ねえ!」

 もう一度、拳を幹に叩き付ける。

 そして、振り返った。微笑んでいた。瞳には涙が浮かび、熱情に灼け切れそうな感情を抑えて、私の姉は微笑していた。

「私は、それから逃げたかっただけよ。笑ってくれていいわよ、ただのエゴよ。私は、ただのエゴイスト、それだけよ」

 そう言って、姉は校舎へ戻っていった。胸を張って、堂々として、落ち着いて、気高くて、ただしく私の姉だった。

 私も家に帰ることにした。彼に会うことは、姉を冒涜するような気がしたからだ。

 姉は、私にとって、そういう姉なのだ。





 夕焼けの中、私は笛を持って公園へ歩いた。雪はほとんど溶けてしまって、足取りは軽かった。

 確かめるように、噴水の前をのぞいてみる。人影はひとつ。彼のものだった。

 服と髪を整えて、その側へ近づいていった。

「祐一さん」

「あ、栞……」

 その表情は初めて会ったときのよりも硬かった。

 私は微笑んだ。

「隣り、いいですか」

「もちろん」

 並んで腰をかけ、空を見上げた。

「今日もきれいな夕焼けで、よかったですね」

「ああ……」

 彼も空を見上げる。

「私、赤い色って、嫌いなんです」

「どうして?」

「血の色じゃないですか、赤って」

「まあ、それは……」

「……夕焼けの中で、自殺しようと思ってました」

「え……っ」

 驚いたように、彼はこちらを見る。私は空を見たままで答えた。

「そんなことで驚いていたら、だめです。あとでもっと驚くことを言うつもりですから」

「そうか……じゃなくて、なんで、そんなことを……」

「私のことは、お姉ちゃんから聞きましたよね」

 答えはなかった。たぶん、動揺しているのだと思う。

「いつ死ぬのも同じだからって、はやく決着をつけたかったんです。毎日毎日、もう明日はないかもしれないと思って生きていくのって、気が狂いそうになります」

「だからって……」

「それには、生きたいって思うことを捨てなければならない。だから、私は何のために生きているんだろうと考えて、色々なものを捨ててきました。嬉しいと思うこと、楽しいと思うこと、悲しいと思うこと。そういうものを、私はすべて捨てました。でも、実際は、捨ててないものが多かったんですよ」

「……お姉さん?」

「お姉ちゃんは……捨てられるわけ、ありません」

「よかった……」

 安堵の溜息が聞こえてきた。

「結局、ぜんぶ無駄だったんですよ。無駄というか、嘘なんですよ。捨てられるはずがないんです。世界にさよならって言う準備なんか、本当はできるわけはないんです」

 そこまで言って、私はくすっと笑って彼を見た。

「祐一さん」

「ん?」

「もう一つ、あなたを驚かせることがあります。私、気づいたことがあります」

「何?」

 彼は屈託なく問い返してきた。

 その時になって、急に私は緊張してきて、それを落ち着かせようと息を飲み込んで、一呼吸を置いて、そして、決意してその言葉を、言った。

「……祐一さん、あなたも、私と同じ人なんじゃないですか?」

 その瞬間、かすかに彼の口許が動いた。だが、そのまま身体を反らせて、天を仰いだ。自分の感情がおのずと表れてしまう顔、それをすべて隠すように、上を向いた。

 そのまま短い沈黙があって、彼の声がその後に聞こえてきた。

「……気づいたのは、いつ?」

「私に近づいたときから」

「怒るぞ。それは、自分が死を呼ぶ人間という意味で言っているんだろう」

「ごめんなさい……いつからかは、わかりません。でも、なんとなく、私にはわかりました」

「そうか……そのとおり。俺は、死ぬ」

 反動をつけて彼は元の姿勢に戻り、にっこりと笑った。

 私はうつむいた。腕が、足が、肩が、震えてしまって、どうしようもなかった。

「そんなはずはないって、その答えを待っていたんです。でも……」

 すると、私の肩に、彼の腕がかかってきた。そのまま抱き寄せられて、私は顔を彼の胸の中におしつけた。

「仕方ない。真実なんだから」

「そんな真実は、聞きたくなかった……祐一さんが現れて……さよならの準備なんか嘘なんだって、気づけたのに。私は、生きようと思ったのに……」

 私は泣いた。はばからず、嗚咽を洩らして、彼の胸の中で泣いた。



「祐一さん。また明日、ここで会いたいです」

 恐怖を笑顔でうち消しながら、私は言った。

 明日という言葉が、私以外の人のために恐いと思ったのは、初めてだった。

「もちろん」

 彼は屈託ない笑顔で答えた。

「明日は、聞かせたいものがあるんです」

 私は銀のフルートを差し出した。

「これ。そうだ、さっきから気になってたんだ」

「今日はもう遅いですから、明日にします」

「そうだな。楽しみにしてる。あ、送っていこうか?」

「お姉ちゃんにからかわれますから、ひとりで帰ります」

「そうか。残念だな。じゃあ……」

 そう言って、彼は背を向けた。

「あ、祐一さん」

 私は呼び止めた。

「ん?」

「あ、あの……」

 たぶん、私の顔は真っ赤だろう。いざ言おうとすると、緊張で心の門が閉まって、それをこじ開けるのがまた大変で……準備が必要なのは、むしろこういう瞬間にこそかもしれない。

「あの……お願いがあります」

「ん、なに?」

 誰もいない公園を見回して、そして、彼のそばに寄って、小声でささやいた。

「キス……してくれませんか」

「き……あ、ああ」

 彼も赤面した。

「栞、目を閉じて」

 あとは委ねて、私は目を閉じた。彼の冷たい手が、私の左の頬に添えられた。

 息づかいが、近くなってきた。

 その瞬間、私の唇は熱が伝わり、心には温かさが伝わってきた。

 急に感情がこみ上げてきて、涙が溢れてきた。

 すこしして、彼の唇が離れた。そして、それに気づいて、あわてた顔になった。

「あ、ごめん……」

「ちがいます。嬉しいんですよ」

 私は彼から離れた。引き際が肝心だ。

「じゃあ、明日。祐一さん。おやすみなさい」

 それだけ言い残して、私は唖然とした彼を置いて、駆けだした。

 嬉しいのか何なのか、なぜだか駆けだしたくてしょうがなかった。

 涙はまだ溢れてきて止まらなかった。

 けれど、もうその時には、涙の質は変わってきた。

 あの時の涙は、彼を獲得した喜び。でも、獲得した彼は……その後の言葉はつなげない。絶対につなげない。

 そのまま家に帰って部屋に入り、ベッドに突っ伏して、私は、昨日と同じように、声を上げて、泣いた。





 星空が綺麗だった。そのまま落ちてきそうなくらいに近くにあって、私は手を伸ばした。

 彼は笑いながら、私をたしなめた。

「お姉ちゃんのことを、話したいんです」

「うん、聞くよ」

「私は身体が小さくて、幼稚園や学校でよくいじめられそうになっていました。そんなときに、お姉ちゃんは必ず現れてくれて、私を助けてくれました。おやつもよく分けてくれました。一緒にお風呂に入ったり、一緒に買い物をしたり。でも、私が死ぬかもしれないとわかってから、私はお姉ちゃんと距離を感じました。私が死ぬことでお姉ちゃんが不幸になるのなら……私は、最初からいなかったものになりたいって、そう思ったんです……私、だめな妹です。お姉ちゃんはずっと私のことを好きでいてくれました。だから、やっぱり、私は、お姉ちゃんを誇りに思います」

「その言葉を聞けて、俺は嬉しいよ。それだけで、栞に会った甲斐があったというものだ」

「祐一さん、大げさです」

「まあ……栞、俺は思うんだけど」

「はい」

「人は、必ず、死ぬ。例外はない。だから、生きている過程に価値がある。俺は、そう思う」

「私も、わかる気がします」

「それがわかれば、それで充分だ」

「はい」

 たぶん、私は、生まれてきて、一番きれいな笑顔を見せたと思う。

 彼に……私の行き先を見せてくれた人に。

「私の肩に、寄りかかりませんか?」

「ああ、そうさせてもらうかな」

 彼の頭が、私の左の肩に乗った。

「でも、これだと、吹きにくくないか?」

「運指は右手ですから、大丈夫ですよ。でも、ちょっと揺れるかもしれません」

「いい揺りかごだな」

 私はこくんとうなずいて、銀のフルートを構えた。

「吹きますよ」

 わずかに私の肩が揺れた。

 それを確かめて、私はフルートを吹いた。

 夜の花火……。

 律動に合わせて、かすかに左の肩が揺れる。

 その揺れが、だんだんと小さくなっていく。

 私は笛を吹いた。闇に響くように、何かを鎮めるかのように。

 演奏が終わった。

 笛を脇に置く。

 そして、左腕を回して、冷たくなった彼の頭を、胸の中に抱いた。

「さようなら……」



「さよならの準備」終劇


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