「everlasting」

 B5/48ページ 表紙 カラー/本文 スミ1色
 「ONE 輝く季節へ(Tactics)」上月 澪の小説
 text and edit by 成瀬 尚登 / illustration by 不知火 菱
 即売会価格 500円/一般向

[履歴]

 2002年 8月11日(Comic Market62) 発行


【本文紹介】

    1

 いつから赤いのか、どこまで赤いのか、それを確かめたくて、夕焼けに手を伸ばしたことがある。
 その日は目に痛いほど空が赤くて、手に届きそうなくらいに近く感じた。
 手を伸ばして無をつかんで、はじめてそれはつかめないものだと知った。
 空に近づきたかった。そこには何もなかったから、かえってそれを熱望した。
 幼年期の憧憬だ。
 折原浩平は、自嘲気味に笑って夕空を見上げた。
 そんなことを思い出させるくらいに、今日の空は赤かった。
 すべての景色が赤みを帯び、長く黒い影に寄り添うように、また赤い影が並んで映っている。
 不意に、浩平は公園へ足を向けた。
 空の近くに行こうと、それはまるで幼い時の自分をからかうことを目的とした、他愛ないただの気まぐれだった。
 公園は街からすこし離れたところにあって、夕陽を背にして歩かなければならない。
 その距離は苦にならないが、公園の高台に上るためには石段を登らなければならなかった。
 だが、もしこの高台に上らなければ、ここに来たことが無意味になってしまう。
 浩平は石段を登りはじめた。
 この上の高台には、いわゆる憩いの場があって、日よけや観賞のために植林がなされ、ベンチが備わり、その中央には噴水があった。けれども、冬になって、木々は春に備えて枝につぼみをつけるだけの裸木状態で、噴水は凍結防止のために水が止められている。なにより、この寒空の中でベンチに座る人も来ないはずだ。
 そういう枯れた風景が、浩平のあまのじゃく的な嗜好によく合った。
 高台に上ると、そこには予想したとおりの風景があった。
 風に枝を揺らす木々、空虚なベンチ。
 その世界が自分だけのものになることを嬉しく思って、中央にある噴水へ足を向けようとした。
 そこで浩平は足を止めた。
 先客がいたのだった。
 浩平と同じ学校の制服を着ている少女だった。短めの髪に大きなリボンを揺らせている。
 目を引いたのは、その少女の奇妙な動きだった。
 両手を胸の前で組んで立っている。顔を上げて、そこをじっと見ながら、口をぱくぱくさせている。にっこり笑い、すぐにあわてて早歩きをして、くるりと回って、またにっこり笑う。
 踊っているようにも見えたが、それにしては動きに律動が見られない。まるでそれは日常の動きのままだった。その口は動いているものの、声は発せられていない。無声映画を思い出したが、それよりも動きが大げさでなく、コミカルでもない。
 直感的に浩平は脇に隠れた。
 少女はもう一度同じ位置に戻り、同じ動作を最初から繰り返しはじめた。
 奇妙に感じながらも、それを見ているうちに、浩平は、ふと、少女の目の前に誰かが立っているような錯覚をおぼえた。
 目の前にいる誰かに、手を組んで優しく微笑んでいる。
 目の前にいる誰かが歩くのに合わせてついていき、前に回り込んでいる。
 そう考えると少女の動きに納得がいった。それと同時に、興味が湧いてきた。
 少女は噴水の縁に腰掛けた。脇には2冊の本と細長い袋状のものが置いてあった。
 そのうちの一冊を取り上げて開いた。わら半紙を綴じただけの貧相な本だった。表紙には赤い丸と文字が書かれていたが、それが何であるかは、この距離からではわからなかった。
 その本をめくり、じっとそこを凝視する。
 やがて、合点がいった表情でひとつうなずくと、本をまたもとの場所に置いた。その下には水色のスケッチブックが置かれていた。
 立ち上がって数歩あるき、噴水に振り返る。
 そこからまた演技がはじまった。横にいる誰かに支えられながらゆっくりと噴水へ向けて歩き、縁に腰掛けた。そのまま寄りかかって、じっとしていた。
 すこしして、少女は腕を伸ばした。そこには黒く細長い袋があって、取り上げて中からそれを出した。
 浩平ははっとした。それは銀色のフルートだった。街灯に反射してきらきらと光って見えた。
 少女はそれを唇を寄せた。
 そのまま吹くかと思われた瞬間、少女の表情が緩んだ。それまでの可憐な顔立ちが急にかわいらしいそれになったかと思うと、きょろきょろとあたりを見回した。
 誰もいないのを確認している。浩平には気づいていないようだ。
 そうして、もう一度、少女はフルートに唇を寄せた。
 すー。
 意表をつくかすれた音に、浩平はよろめいた。
 少女は焦りの表情で、繰り返し繰り返し息を吹き込むが、それは嘲笑の音しか出さなかった。それはフルートではなく、銀色に輝く細長い筒でしかなかった。
 浩平は溜息をつき、つい無意識に足を前に踏み出そうとしたが、あわててそのことに気づいて、その場に踏みとどまった。
 招かれざる客だ。自分はただの傍観者に過ぎないのだ。
 フルートの吹き方を教えるのは、それを逸脱する行為なのだ。
 それが、浩平の気持ちの中で、ひとつの合図となった。
 背を向けて、もと来た石段を下りはじめた。
 心地よい満足感があった。
 夕焼けに呼ばれて見た光景は、やはりどこか憧憬を感じさせものだった。

    ☆

 次の日も浩平は高台の噴水へ向かった。
 すでに夕陽の彩りは消え、歪んだ青色に墨が溶け出していく過渡の空だった。
 もし誰かにその理由を尋ねられれば、笛の音を聞きに、と答えただろう。
 ただ、実際には、その確たる予定も確信もなかった。漠然としたただの予感に過ぎなかった。
 そして、その賭けに、浩平は勝った。
 昨日の少女はそこにいて、枯れた噴水の縁に腰掛けて本を読んでいた。
 不思議と笑みがこぼれてきた。気づかれないように、昨日と同じ場所に身を隠した。
 少女の読んでいる本は、フルートの本だった。本格的な教本というよりも、趣味ではじめるための本のようだった。脇には、昨日と同じく、本が2冊とフルートの入っている黒い袋が置かれている。
 本を読んだまま、少女は動かなかった。今日はフルートを吹くことに専念して、演技の練習はしないような気がした。
 不意に少女は本から顔を上げた。それを脇に置き、かわりにフルートを袋から取り出した。
 構えをとり、背をそらせ、そして、息を吸い込んで、唇を寄せた。
 聞こえてきたのは、確かに音だった。
 揺らぐ音。だが、それは確たる意志をもって空気を振るわせる、そんな音だった。
 硬い、と浩平は感じた。それでも、心の中では少女に拍手を送っていた。
 フルートを口から離して、少女は溜息をついた。とりあえず音が出たことに安堵したようだった。
 腕を伸ばして黒い袋を取り、フルートはその中へしまわれた。拍子抜けにも思えたが、音が出たことで満足しようと、自分のことでないのに浩平は納得した。
 フルートを脇に置いて、少女は立ち上がった。
 浩平は凝視する。
 少女の表情は変わっていた。
 かわいらしさの中に、すべてを慈しむような、そんな優しさに満ちた顔だった。
 優美にくるりと回って噴水の縁に座っている誰かに微笑みかけた。
 腕を天に掲げ、その手を胸にあてる。
 はかなげだ。それでいて、熱っぽさを感じる。
 浩平は息をのんだ。
 そして、いきなり、少女は縁へ向けてうつぶせに倒れ込み、そのまま動かなくなった。
「おい!」
 はっとして浩平は飛び出した。何事が起きたのかわからなかったが、とにかく身体が先に動いてしまった。
 だが、その時、倒れていた少女は急に目を覚まして振り返ったかと思うと、あわてて起きあがって、噴水の縁を背に後ずさりした。
 顔が驚きでひきつって見えた。恥ずかしさと驚きで恐慌状態に陥っているのは明らかだった。
 その反応に、浩平も唖然としてその場で足を止めた。
「だ、大丈夫か……?」
 日常的な平静を装って、浩平はつとめて自然に声をかけた。
 こくんこくんとうなずいて返す。
 だが、そのまま何を言っていいものか、浩平は立ちつくすしかなかった。
 すると、その隙をつくかのように、少女は脇に置いてあった本とフルートを抱えると、そのまま高台の向こうへと駆けていった。
 浩平は呆然として、しばらく動けなかった。行動は理解を超えていた。
 やがて、ひとつ、首を横に振った。
「……不思議なものを見たな」
 思わずそうつぶやいて、浩平も帰路についた。

    ☆

「……でね、その主人公、『ふっ……』なんて笑ったから、きっと最後に大逆転ーって手があるんだろうなって思ってたの。そうしたら……」
 混雑した食堂で、川名みさきが笑いながら、浩平に話しかけてくる。
 ひとつ上の先輩だ。きれいな黒髪の少女で、そのまま何もしないで座っていれば深窓の令嬢で通りそうな優雅な顔立ちをしている。
 その右手には底の大きなスプーンが握られ、その前にはすでに半分ほどなくなっているカツカレーの皿があり、みさきはそこにスプーンを刺す。今あるカツカレーの皿の隣りには、3皿ほどの空いた皿が積み上げられている。
「そのあと、その主人公は悩むんだよ。そこで、私はおかしいなあって思ったんだよ」
「なんでだ? 危機に陥った主人公だろ。普通に悩んだり苦しんだりする主人公の方が、俺は人間味があって、好きだぞ」
「うーん、ちょっと違うんだよ、私の言いたいのは」
 もったいつけて、みさきは言う。浩平も思わず身構える。
「それはね……『ふっ』だよ」
「ふっ?……先輩、ふっ、で違うのか?」
「ちがう、ちがう。あの、ふっ、は不敵な笑みの『ふっ』だよ」
 スプーンを左右に揺らせて、みさき自身が不敵な笑みを浮かべる。
 だが、浩平は理解できずに、返答できなかった。
 その空気を読んで、みさきはつまらなそうに溜息をついた。
「はぁ、浩平君にもわからないかあ……息づかいって、大事なんだよ。目は口ほどに、はよく聞くけど、ちょっとした呼吸で相手の気持ちがわかっちゃうこともあるんだよ」
「うんうん、先輩の言いたいことはよーくわかるって。俺が鈍感なだけ」
 みさきの力説に、浩平は自分なりの誠意を見せた答えを返したつもりだったが、みさきはかえって拗ねてみせる。
「うー……それに、最近のドラマって、怒り方がみんな同じに聞こえるから、その人がどれくらい怒っているのか、わかりづらいんだよ。つまらないことで怒鳴っちゃうから、聞いているこっちがびっくりしちゃうよ」
 浩平は微笑んだ。拗ねているみさきを見るのが、楽しかった。
「あー、誰にも理解されないって悲しいなあ。おなかが空いちゃうよ」
「たぶん、関係ないぞ、それ。先輩だけだ」
「そんなことないよ。失恋の悲しみに沈む女の子は、喫茶店で食欲を満たすものなんだよ」
「……みさき、それも関係ないと思うけどな、私」
 不意に別の少女の声が背後から聞こえてきた。
 浩平が振り返ると、そこには女子生徒が二人立っていた。一人は、知的な顔立ちで、ウェーブのかかった長い髪。そして、もう一人は短めの髪に大きなリボンを揺らせている。
 浩平は思わず声を上げそうになった。
 確かに、噴水の前にいた少女だった。
 思わず顔をまじまじと見てしまい、目が合ってしまう。すると、少女は人好きのする顔でにっこりと微笑んだ。気づいている気配はなさそうだった。
「でも、自然の摂理に逆らうのは、バチがあたるんだよ」
 みさきは、まるで今までそこにいたかのような口調で、普通に少女に話しかけた。
「あなたのは自然を超えているのよ、超自然的存在なの」
「うー、なんかひどいことを言われている気がする。浩平君はどう思う?」
「少なくとも、食い過ぎは健康には悪いな」
「食べ過ぎじゃないってば、普通なんだよ」
「……それは置いておいて。隣りに座っていい?」
「雪ちゃんはいじわるだからダメ。後ろにいる人は大歓迎だよ」
 ああ、と言いかけて、浩平は気づいた。みさきの背後には、おそらくみさきの友人であろう少女がいる。だが、その後ろにいる少女は一言も話してはいない。それなのに、みさきは、その存在に気づいている。
 みさきに指名された少女の方は、事情を知らずに、うんうんとうなずいた。その手にはトレイを持っていたが、脇には水色のスケッチブックを挟んでいた。
 浩平の隣りに、その少女は座った。
「こっちに来ればいいのに。誰も来ないんだから」
「みさき、いい加減にしないと餓死させるわよ」
 そう軽口を叩きながら、みさきの友人はみさきの隣りに座った。
「雪ちゃんが言うと、本気に聞こえるから恐いよ。浩平君、私がもしも餓死したときは、きっと仇を……」
「そのまま死んでなさい」
 冷たく言い放って、雪ちゃんと呼ばれた少女は食事をはじめた。
「あの、先輩、それで、こっちの人は?」
「あ、そうだ、紹介してなかったっけ。雪ちゃんだよ」
「……淡泊な紹介ね。ちゃんと本名も言ってくださらないかしら、川名さん……」
 抑揚のない口調で、つとめて冷静に、つとめて淡泊に言った。それはかえって怒りの強さを表していた。
「あはは、やだなあ、冗談だよ。私の同級生で、深山雪見ちゃん」
「ちゃんは余計」
「かわいいのに」
「まあまあ……」
 浩平は苦笑しながら割り込んだ。見ていて楽しいが、貴重な昼休みの時間が許さなかった。
「俺は折原浩平。2年生だから後輩だな。よろしく。で、この……」
 そう言って浩平は隣りの少女を見る。
「……上月澪さん、1年生よ」
 その紹介は、雪見の口からなされた。別段、奇異にも思わなかったから、浩平は澪に話しかけた。
「よろしくな。なんて呼べばいいんだ?」
 そのまま浩平は答えを待った。
 すると、澪はおもむろにスケッチブックを取り出して開いた。
 なぜ返事をしてくれないのか、よりも、何事が起こるのか、の興味の方が強かった。
 澪はフェルトペンで白い紙の上に字を書いた。
『みおでいいの』
「みお……」
 浩平はつぶやいた。名前を確認するためでなく、字をそのまま読んでしまった結果だ。
 不思議とその名前がすっと頭に入ってきて、そのまま、まるでくるくると頭の中で回っているかのように思った。それを整理しようとして思案するが、それが微妙な間となってしまって、澪の表情に翳りが浮かんだ。
「よろしく、澪ちゃん。私は川名みさきだよ」
 その空白を救ってくれたのは、みさきだった。その声に、澪もうんうんとうなずいた。
「雪ちゃん、澪ちゃんも演劇部なの?」
「そうよ、期待の新人」
 その言葉に、澪は顔を赤らめて照れた。
「澪ちゃんも、ってことは、深山さんも演劇部?」
「そうだよ。雪ちゃんは演劇部の部長なんだよ。たぶん、そうは見えないと思うけど」
「こらこら、あなたにそんなこと言われたくないわよ」
「演劇部か……」
 あらためて澪を見る。そして、確信を持つ。
 噴水の前での行動、あれは、やはり演劇の練習だったのだ。
 それでも疑問は残る。台詞は一切ない。それ以前に、澪の声を聞いた記憶がない。
 だが、何となく、浩平は事情を理解した。
「……そうそう、雪ちゃん、聞いてよ。昨日、ドラマを見ていたんだけど……」
 そうして、みさきは雪見に、浩平に話したことを、そのまままくしたてた。
 やがて話を聞き終わると、雪見は納得した顔でうなずいた。
「怒れって本に書いてあるから怒ったってことでしょう。たぶん、前後の流れは読んでないんじゃないかしら」
「それだと聞いている方はつらいんだよ」
「わかってるって。みさきの言うことの方が正しいわよ」
「うん、やっぱり雪ちゃんはわかってくれるよね」
「ううん、普通はわからないって。折原君も、気にしてないでしょう」
「ま、まあ。でも、わからないって言われるのも、あまりおもしろくないな」
「気にしないで。みさきにはこういう特技しかないから」
「『しか』って……ひどいことを言われているんだよ〜」
「俺は、正直、みさき先輩はすごいと思うけどな」
「そう思う?」
 すると雪見はふふっと微笑んだ。
「私もそう思うわよ。だから、ここに入学したときに演劇部に誘ったのに、入らなかったからね、みさきは」
 その言葉に、みさきはむくれる。
「嘘だよ、ちょっとだけいたよ」
「おなかが空くからって、2日で辞めたじゃない。あれは入ったとは言わない」
「おなかが空くなんて言ってないよ。別の理由がちゃんと……」
 まあまあ、と、浩平は仲裁に入る。まもなく、昼休み終了を知らせる予鈴のチャイムが鳴った。

「うー、餓死するよ。社会は豊かになったというのに、私は利益を享受できないんだよ」
「ただでさえ飽食なんだから、それで充分」
 みさきは沈んだ顔をしていた。あの後、結局おかわりをすることができずに時間切れとなっていた。
「飽食なんかじゃないよ。第一、食べることに飽きるなんて、絶対にありえないよ」
「すこしは飽きなさい」
「無理だよ……あ、ここで浩平君と澪ちゃんとはお別れだね」
 きっちり階段の前の廊下で、みさきは立ち止まった。
「じゃあ、上月さん。また放課後。それから、折原君」
「はい?」
「よかったら、放課後、あなたも演劇部を覗いてみない? 冷やかしでいいから」
 澪のことが頭をよぎった。それは悪くない提案だった。
「うーん……そうだな、冷やかしでよかれば」
「じゃあ、待ってるわ」
「雪ちゃん、私は誘ってくれないの?」
「はいはい、みさきもどう?」
「うん、行く行く」
 満面の笑みを見せるみさきに、呆れた顔の雪見。
 その時、くいくいと浩平の制服が引かれた。
 振り返ると、澪がスケッチブックを掲げていた。
『歓迎するの』
 ああ、とこたえて、浩平は澪の頭を撫でた。無意識に出た行為だった。初対面の人間にするべきではないと気づいてはっとしたが、澪はまんざらでもないという顔を見せていた。

    ☆

 放課後、約束どおり、浩平は演劇部の部室へ足を運んだ。
 校舎の端の方にあり、かつては教室だったところだ。
 礼儀としてドアをノックし、引き戸を開いた。
 中ではすでに稽古が行われていた。いきなり入ってきた見知らぬ人間に対し、視線を向けるものはいなかった。
 拍子抜けして、浩平は視線を巡らすと、後ろの方でかしこまって椅子に座っているみさきの姿を見つけた。
 音を立てないようにすっと動いて、みさきの横の椅子に座る。
 小声で話しかける。
「先輩」
「浩平君」
「早かったな」
「雪ちゃんに拉致されたんだよ」
「穏やかじゃないな」
「実は悪の手先なんだよ」
「まあまあ」
 苦笑して、浩平は視線を部室の中央へ移す。
 演劇の稽古の風景はテレビ番組で目にしたことがある。それと変わらない風景と緊張感がこの部屋にもあった。
 温厚に見えた雪見は、部屋の中央で怒れる役を演じている。理知的な顔はそのままに感情を表し、それがかえって怒りに真実味を与えている。
 その向かいにいる男子生徒は、雪見の攻撃にまるで動じた様子を見せない演技をしている。無反応で冷酷ということではなく、単に傍観者の演技をしているようだ。
 その二人の周りを数人の部員が囲み、その中に澪もいた。
 すこしも見逃すまいと、じっと雪見の動きを見ている。かわいらしい顔立ちの中に浮かぶ真剣さがあった。
「……あなたは何もわかってないわ。やめてちょうだい。あの子に悲しい思いをさせないで、お願いだから!」
 いくつかの句だけでは全体を理解できようはずもなく、浩平は客人として見学するしかない。
 ちらりとみさきを見る。時折、こくんとうなずいている。
 小声で話しかけた。
「先輩、どういう話、これ」
「うーんと、兄弟げんかの話みたいだよ。私もよくわからないな」
「この二人が姉弟?」
「ううん、この二人は違うみたいだよ。別に妹がいるんだって」
「よくわかるな」
「聞いていると、だいたいわかるよ」
「そうか……」
 浩平は突き放された気がして、前へ向き直った。
 雪見が少年に背を向けて、その場から立ち去るところだった。
 輪を抜けて、そこでまたくるりと振り返る。
 その顔は、知的で温和な、演劇部の部長のそれに変わっていた。
「はい、じゃあ、すこし休憩……と、その前に、紹介しておかないとね」
 すると、視線が一斉にこちらへ向かってくる。
「見学に来てくれた折原君と、他一名」
「ちゃんと紹介してよ〜」
「昼間の仕返し」
 勝ち誇った笑みを見せる雪見に対し、うーっと、みさきは拗ねた。

    ☆

 もしかしたらという思いから、浩平はまた高台へ足を運んだ。
 演劇部の見学が終わった後、澪は姿を消した。そのことを誰にも気づかせないくらいに、それは見事なわざだった。浩平ですら、公園の手前に来るまで、澪のことは記憶から抜けてしまっていたくらいだった。だから、そういう内面的な意味での償いも兼ねていた。
 既視感をおぼえるくらいに、噴水の縁に澪は腰掛けていた。
 浩平はまっすぐ澪の許へ向かった。
 澪も足音に顔を上げ、浩平に気づくとにっこりと笑い、律儀にぺこりとお辞儀した。
「よお」
 浩平にはもう隠れる理由はなかったから、気軽に挨拶をして、澪の隣りに腰掛けた。澪の脇にはいつものようにスケッチブックとわら半紙の本とフルートの入った黒い袋が置かれていた。
「熱心だな。一人で練習して」
 すると、澪はスケッチブックを取り上げて、そこにペンで字を書いた。
『下手だから練習するの』
 浩平は純粋に感心して、溜息をついた。
「それがわかっているだけ、澪はえらいって」
 嬉しそうに澪は笑顔でこたえた。
 ふと視線をわら半紙の本へ移した。澪がよく見ていたこの本が気になっていたのだ。
 それは台本だった。その中央にはタイトルが大きく書かれていた。
「『さよならの準備』……これが今やってる劇か?」
 こくんと澪はうなずいた。
「読んでいいか?」
 また、澪はうなずいた。
 手に取ってみる。読み込んでいることを思わせる折りが無数についている。中を開くと、活字で一通りの台詞や動きは書かれているのだが、それが鉛筆や赤のペンで消されていたり、脇に書き込みがあったり、丸がついていたり記号がついていたりしている。
「……で、澪は何の役だ?」
 すると、澪は身を乗り出してきて、表紙の次のページを指で開けた。
 登場人物が横書きで縦に並んでいる。その一番上の名前を指さした。
「……主役なのか?」
 うんうん、と澪は嬉しそうにうなずいた。
「主役か……だから、こんなに練習しているんだな」
 独り言のようにそうつぶやいて、浩平はページをぱらぱらとめくっていった。
 台本の終わりに、1枚だけ白い上質紙で印刷された五線譜が綴じられていた。
 浩平は納得した。澪の演奏したい曲は、おそらくこれなのだろう。
 その時、視線を感じて、浩平は顔を上げた。
 わずかに顔を曇らせて、澪がこちらをじっと見ていた。
「あ、ごめん。澪のことを忘れていたわけじゃないんだ……」
 そう言ってしまってから、余計なことを言ったと浩平は思った。この癖は子供のころから直らないものだった。
「そうそう、これ。これは劇の中で澪が演奏するのか?」
 取り繕ってそう尋ねる。すると、澪は急に不安げで泣きそうな表情になっていった。
 その理由がわかっていたから、浩平は動じなかった。
 そして、言えなかった言葉を、ようやく口にした。
「じゃあ、俺が教えてやろうか」
 浩平はつとめて微笑んだ。
 返ってきたのは、予想に反して、不安の抜けない澪の顔だった。
「大丈夫だって、俺は……軽音だからな、軽音楽部」
 そこまで言って、澪の顔がようやく明るくなった。
 澪はスケッチブックを出した。
『よろしくなの』
「ああ、よろしくな、澪」
 浩平はまた思わず澪の頭を撫でてしまった。澪はやっぱり嬉しいという顔をしていた。


ネタバレ防止のため、改変がされている箇所があります。
掲載されている分量は、全体の1/4です。
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