「自由の足枷」

 B5/78ページ 表紙 カラー/本文 スミ1色
 「Kanon (key)」川澄 舞の小説
 text and edit by 成瀬 尚登 / illustration by 不知火 菱
 即売会価格 500円/一般向

[履歴]

 2002年12月30日(Comic Market63) 発行


【本文紹介】


   プロローグ

 剣先を翻して、ためらいなく水平に引く。
 青い光がきらめいて闇に線を描き、空気がなびいて風のように揺れる。
 激烈な咆吼が、鼓膜を震わせる。それでも、突進は止まらない。巻き込まれないように後方へ跳び、すぐに背後へ向き直って剣を構えなおす。
 深い藍色の闇。雲に紛れた月光が窓から射し込み、リノリウムの廊下をぼんやりと照らしている。
 何もない。そこには何も見えない。
 だが、今にも破裂しそうな緊張感は残っている。
 たしかに手応えはあった。ずきっという手首の鈍痛がその証拠だ。
 それはすれ違いざまに表面をえぐられながらも、そのまま横を抜けていき、そして姿を消した。
 かすかな月光に剣を浸しながら、剣先に神経を渡らせ、気配を探っていく。
 すると、いきなり、肌が引き攣れるほどの強烈な存在を、廊下の奥で感じた。
 視線だけ、移す。
 腹部に一条の痕。
 腐った緑色の苔むした影をまとって、それは、ふたたび姿を現した。
 すさまじい殺気が、闇をこえて伝わってくる。
 静かに、それと対峙した。
 剣を持つ手首に力を込め、下段に構える。
 それが、合図となった。
 まっすぐこちらに駆けてくる、それの動き。
 合わせて宙に跳躍し、振りかぶって剣を叩きつける。
 寸前で交わされ、剣先はそれの表面をわずかにかすった。
 着地して反転し、間髪入れず跳びかかる。
 刹那、背後の窓から射し込む光が強くなり、澱んだ緑の輪郭が輝く。
 その輝きへ向けて、剣を振り下ろした。
 剣の軌跡は、それの躯の真芯を貫くように描かれていく。
 不気味な感触が手首に伝わる。
 だが、その瞬間、軌跡が歪んだ。
 左に逸れ、剣はそれの躯を深くえぐっただけだった。
 虚を突かれ、次の一撃への反応が遅れる。
 その隙をついて、それは窓へ向けて飛び上がった。
 破裂音が響き、ガラス窓にいびつな形の穴が開いた。
 それを追って窓のそばに駆け寄り、外を見やった。
 裏庭に屹立する木の白い影、厚く積もった雪は無垢なまま時を留めていた。
 荒涼とした冷たい風が頬に吹き付ける。吐く息が白く霧散していく。
 その時、右手首が疼いていることに気づいた。
 最初の一太刀で痛めた右手首がじんじんと痛み出してきた。それが仕留めそこなった理由だ。
 不意に、無力感が心に浮かんできた。
 今夜もまた無為な時を過ごしてしまった。
 終わるのか。
 いつまで続くのか。
 外からの風が急に強くなる。
 風切り音が、不可解な音階を奏ではじめる。
 そして、いきなり突風が吹き込んできた。
 その風で、ひびの入っていた部分が、風に押し込まれて砕け散った。
 とっさに腕で顔を隠す。
「……くっ」
 破片は頭や身体に降り懸かって、床に散乱した。
 身構えた。だが、気配はない。
 ひとつ深く息を吐いて、剣を下ろし、廊下を歩き出した。
 風は雲を呼び込み、月は輝きをその向こうに隠していた。
 闇がまた世界を満たす。
 わずかに右頬に痛みを感じた。
 左手の薬指を当て、そのまま目の前に掲げると、そこには血がにじんでいた。
「……困らせてしまうかな」
 窓から吹き込む不思議な音階は、やがて、丘陵の針葉樹のざわめきまでをも運んできていた。


   第1章

      1

 朝靄が陽光にきらめいていた。
 冬の空は明けたばかりで、端には赤みが残っている。そこから緩やかに極を描きながら、冴えた青へと、その色を変えていく。
 ころころと乾いた音をたて、川が流れている。水量は乏しいながらも、湧き上がる水蒸気の粒ひとつひとつが、やわらかい光に照らされて輝いている。
 その川縁の歩道を、今朝はひとりで歩いていた。いつもよりも早い時間だ。同じように川縁を歩いて学校へ向かう生徒たちの数もまだ少ない。
 冷たい風が頬を抜ける。右手を右の頬に寄せ、指で撫でた。
 小さな絆創膏が貼られている。
 女の子なんだから、顔の傷には気をつけないとだめだよ。
 そう言った彼女の言葉が思い出される。
 その時、とたとたという足音が背後から迫ってきた。
 その足音に、振り返らず、歩くペースだけを落とす。
 足音は、すぐ横で止まった。
「……ふう、追いついた」
 ちらりと横を向く。
 そこにはよく知っている少女がいて、目が合うと、にっこりと微笑みかけてきた。
 同じ学校の制服、同じ学年の胸のリボン。長い髪を両脇からまとめるように緩やかに束ね、チェックの幅広のリボンで結っている。
 そして、華やかな雰囲気を振りまく、晴れやかな笑み。
 鞄と、いつものように風呂敷包みを提げている。
「……ゆっくり来てもいいのに」
「おいていくなんて、ひどいよ」
 その右側に、彼女は寄り添うようについてくる。これで、いつもの日常に戻った。
「遅くなってごめんなさい」
「私が早いだけ……」
 すると、彼女はおのずと納得した顔をしてうなずいた。
 知っている。そう、彼女は知っている。どうして今日は早く家を出たのかを。すっかり見透かしているのに、それでいて、何も言わないでいる。すこしだけバツの悪さを感じた。
「間に合ってよかった。今日のお弁当はちょっと手間がかかるものだったから」
 そう言って、風呂敷包みを掲げる。
「喜んでもらえるといいな」
 彼女はまたにっこりと微笑む。
 喜ばないはずはない。
 だから、ひとつこくんとうなずいた。
 そうして、とりとめのない話しをしながら歩いていく。
 やがて、学校の正門が見えてきた。門の前には腕章をした生徒が立っている。
「……佐祐理、先に行ってて」
 そう言い残して、ひとり早足で先に行こうとする。
 その時、後ろから声がかけられた。
「早く濡れ衣が晴れるといいね」
 振り返ると、純粋で無垢な笑みがそこにあった。こくんとうなずいて、また足を進めた。

    †

 生徒会室を退出すると、廊下には佐祐理の姿があった。
「お疲れさま」
 晴れやかな笑顔で迎えてくれる。
 時間にして、授業のはじまるほんのすこし前だ。
「どう、濡れ衣は晴れた?」
 その問いに、首を縦にも横にも振れなかった。
 生徒会に召喚された理由、それは、旧校舎における昨夜のガラス破損についてだった。それも今回が初めてではない。
 旧校舎で夜更けに剣を振り回しているという事実は、伝聞による噂として校内に流布されていた。そのため、旧校舎の器物が毀損されるたびに生徒会に召喚されていた。今回も疑われて当然ではあった。だから、自分が原因ではなかったが、たぶん呼ばれるだろうという予感があって、それで早く家を出たのだった。
 しかし、今回のガラスの破片の飛び散り方は異常だった。廊下にガラスが散乱しているということは、何かが外から飛び込んできたことを意味するが、その何かは旧校舎に残っていない。
 結局、日頃の素行に対する戒告が、具体的な事件とは離れて、あくまで形式的になされただけだった。
 濡れ衣は晴れたという問いに、肯定も否定もできない。
 並んで廊下を歩き出した。
 歩いている最中も、隣りにいる佐祐理の表情を見られなかった。自分を心配してくれる佐祐理の顔を見るのが、ただ無性につらかった。
「ところで、今朝、説明し忘れていたことがあったの」
 視線を向ける。
「今日はウィンナーをたくさん茹でてきたから、たくさん食べてね。それで……」
 指を伸ばして、右の頬を撫でる。
 絆創膏の貼られたところだ。
「これも、お弁当のときに貼り替えようね」
「……うん」
 その時ばかりは、口に出して、そう答えた。


    2


 リノリウムの廊下に青い光が反射して、世界がにじんで見える。
 割れてしまったはずのガラス窓はすでに交換されていた。
 まるで昨夜の光景だ。それをふたたび見ているだけに過ぎないような錯覚があった。
 それの気配は、まだ感じられない。急所を外したとはいえ、手負いにはしている。現れれば、確実に仕留められるはずだ。
 剣を握る右手首に力を込めた。じゅくっという痛みが浸みる。追って、佐祐理に貼ってもらった湿布の熱さが広がっていく。
 佐祐理は頬の傷を見つけると、優しく絆創膏を貼ってくれた。ただ一言、女の子なのだから顔には気をつけないと、と。それだけではなく、手首の腫れにも気づいて、そこにも湿布を貼ってくれたのだった。
 右手首をじっと見つめ、そっと左手をそこに添えた。
 その時、いきなり、強烈な気配が総身を貫いた。
 うかつさに愕然としながらも、反射的に身を退いて、剣を構える。
 20メートルほど先、そこには同じくらいの年齢の少年の姿があった。
「や、やあ……」
 夢でも見ているかのような、まるで信じられないといった顔。
 なおも警戒を解かず、鋭い瞳を向ける。
 少年の顔が焦りに変わった。
「べ、別に怪しい者じゃないぞ。忘れ物を取りに来ただけだ」
 そう言って、手にしていたノートを大きく振る。
 気配を探っていく。一つだけ、この少年のものだけだ。
 どこか釈然としないものを感じながらも、構えを解いて視線を逸らせた。それは、この場を離れるよう、少年にうながそうとしてのことだった。
 しかし、少年の気配は去らなかった。
 視線を向けると、興味深く自分に向いている目があった。
「何か、待っているのか?」
 ぶしつけな問いかけだ。けれども、そこには冷ややかな侮蔑の色はない。
 純粋に何かを理解したいという気持ちが目にあらわれていた。
「こんな夜更けに、ひとりでいるなんて、何か理由があるんだろう」
 答える代わりに、少年に背を向けようとした。
 言葉にならない理由があるだけで、言葉にしてそれに答えられる術はないのだから。
 だが、次の瞬間、それを思いとどまって、剣を構えなおした。
 それは、醜い輝きをもって、少年の背後に密やかに浮かび上がりつつあった。
「逃げて……」
 とっさに口にして、駆け出す。
「うわっ!」
 剣先を向けられた形の少年は、避けるように廊下にへたりこむ。
 醜い輝きはリノリウムの廊下に完全にその影を映し出すと、床に座り込んだ少年をめがけて突進してきた。
「ぐぁっ!」
 側面からそれをまともに受け、少年は投げ出されて倒れ込んだ。
 醜い輝きをもつそれは、その衝撃で動きを鈍らせる。
 その隙を見逃さなかった。
 跳躍する。
 そして、体中の力を込め、剣を叩きつける。
 剣は垂直に体内に刻まれていき、一気に躯の深いところまでを裂いた。
 咆吼がとどろく。
 同時に、その反動のせいか、剣を繰り出した自分の脇腹にも痛みが走る。
 それをこらえ、さらに致命的な打撃を繰り出そうと、剣を力任せに引き抜いた。
 しかし、今度は逆にその隙をつかれた。わずかな間合いから、それは廊下の奥へと駆け出した。
 追おうとするも、脇腹に痛みが走り、足に力が入らない。
 廊下の闇の中へ消えていくのを、ただ憮然として見届けるしかなかった。
「……ッつう……」
 少年の声。壁に手をつきながら、よろよろと立ち上がった。
「なんだ、今のは」
「……魔物」
 観念して、そう答えた。
 醜い輝きを放ち、この場所を徘徊するそれを、いつからか魔物と呼んでいた。
 魔物は、自分だけにしか見えない。それを形容する適切な言葉を知らない。
 だから、決まって、魔物という言葉を聞いた者は、いぶかしげな顔、疑わしげで冷ややかな視線を向ける。
 もう、それにも慣れてしまっていた。
「魔物……?」
「私は……魔物を討つものだから」
 つぶやくようにそう言って、少年に背を向け、消えてしまった魔物の気配をふたたび探ってみる。
 昨夜に続いて、昨夜以上に傷を負わせた。今夜また出てくれば、初めて仕留めることができる絶好の好機となるはずだった。
 しばらくそうしてみて、やがて深く溜息をつき、肩の力を抜いた。
 消えたきり、魔物の気配は完全に消失してしまっていた。
 手負いであるからこそ、今日は姿を現すまい。魔物は愚かではない。
 そう結論づけて、振り返った。
 少年は、落としたノートを拾い上げていた。
 身体を起こし、こちらへ顔を向ける。
「がんばれよ」
 その顔は、さりげなくにこやかだった。
 そのまま背を向けて、廊下の向こうへと歩いていく。
 不思議な印象が残った。
 純粋な……そう、畏怖や侮蔑、それらをまったく感じさせない瞳が記憶に残った。
 少年の影がリノリウムの廊下の闇へ消えていくのを見送る。
 そして、虚空を一瞥し、自分もまた歩き出した。

    †

 朝靄が、川縁を飾っていた。
 雪の季節にはめずらしく、快晴が続いた。それでいて空気は冷たく、かすかな吐息ですら濃い乳白色に濁っていく。
 今日はいつもどおりの時刻に家を出た。隣りには佐祐理が歩いていて、いつもと同じく、晴れやかな笑みを浮かべていた。
「昨日はぐっと冷え込んだね。寒くなかった?」
 首を横に振る。昨日は家に戻ると、ベッドには毛布がもう一枚ほど用意されていた。
「これからもっと寒くなるから、欲しかったら、また言ってね」
「うん」
 その時、不意に、後ろから駆け足が聞こえてきた。それは、すぐ後ろで止まった。
「よお……」
 足を止め、振り返る。
「ああ、やっぱりそうだったか。見つけたぞ」
 同じ学校の制服を着た少年が、息を切らせながら、そこに立っていた。
 何の感動もなく、その表情をながめる。
 少年は急にむっとした顔を見せた。
「なんだ、もう忘れたのか」
 覚えている。昨夜、廊下で遭った少年だ。
 同じ気配、同じ声。そのことが当然というように、それらは確実に記憶されている。
 少年は憮然として、それ以上何も言おうとしない。
「あの、どなたでしょう?」
 すると、隣りにいた佐祐理が、晴れやかな笑顔を少年に向けた。
「あ……」
 いきなりの反応に、少年はたじろぐ。
「いや、その……」
 文字通り、どぎまぎした表情をする。
 佐祐理はこちらを向いた。
「舞のお友だち?」
「昨日会っただけ」
「なんだ、おぼえてるじゃないかっ」
 苛立ち混じりの少年の声に、佐祐理は苦笑した。
「舞のお知り合いなんですね。お名前は何というのでしょう」
「あ……祐……一。そう、相沢祐一」
「相沢祐一さんですね。はじめまして、倉田佐祐理と申します……ほら、舞も自己紹介しないと」
「……舞。川澄、舞」
 みずからを、そう名乗った。

    †

 午前の最後の授業が終わった。しばらく授業が延長され、チャイムが鳴ってから3分ほど経過していた。
 授業の道具を机にしまって立ち上がる。
「遅くなっちゃったね、舞」
 佐祐理が横に並び、教室を出た。
 すこし離れた廊下の壁に、祐一が寄りかかっていた。
「祐一さん、早いですねー」
「ああ。チャイムが鳴った瞬間に教室を出て、駆け出してきたから」
「ぴったりに授業が終わるなんて、うらやましいですね」
「いや……」
 祐一は苦笑した。
「授業が終わった瞬間……なんて、言ってない」
「あははーっ、だめですよ、祐一さん」

「では、お昼休みに、一緒にお弁当を食べましょう」
 佐祐理はいきなりそう言った。
 通学路で自己紹介をした後の台詞だ。
「祐一さん、だなんて。佐祐理さんの方が年上なんだから」
 苦笑混じりのその答えは、問いに対する答えになっていなかった。
「いいんですよ、呼び捨てにするなんて、佐祐理にはできません」
 そして、付け加える。
「佐祐理、でかまいませんから」
「それはちょっと馴れ馴れしすぎるような……佐祐理さん、で、どう?」
 佐祐理は微笑みながらうなずいた。
 祐一は、続いて舞のことを見る。
「舞でいい」
 舞はその機先を制した。
 自分は舞なのであって、それ以外のものではない。それ以外の呼ばれ方をすると、自分が自分ではなくなってしまうように思う。
「……わかった、そうする」
「では、午前の授業が終わりましたら、佐祐理たちの教室に来てください」

「明日から、祐一さんの分も作ってきますよ」
 屋上へと続く階段の手前の踊り場で、佐祐理と祐一とで昼食を囲んでいる。
 風呂敷包みが開かれ、重箱が3つ並べられていた。
 佐祐理と舞、二人以外がここにいることは、初めてのことだったと覚えている。
 いつも舞の対面には佐祐理がいて、佐祐理は対面の舞にお茶を淹れてくれたり、お弁当を取り分けてくれたりしてくれる。
 その佐祐理の視線が、いまは、祐一に向かっている。
 やわらかい、ハーブティの薫り。
「こちらこそ、喜んで。でも、このハーブティは青臭くなくていいなあ。おかわり、もらえないかな」
 手にしていたカップを佐祐理に差し出すと、佐祐理は嬉しそうにその中に浅黄色の液体を注ぐ。注ぎ終わると、祐一は嬉しそうにそれを引き寄せた。
「ハーブティって臭い感じがするから、ちょっと遠慮していたんだけど、これなら飲める」
「佐祐理は、慣れてますから」
「なんか、すごいや、佐祐理さん」
「そんなことはありませんよ。佐祐理はちょっと頭の悪い普通の女の子ですから」
 舞もコップを傾けて中を空けると、佐祐理の前に突き出した。
「はい」
 佐祐理がハーブティを注ぐ。
 その様子を、祐一は興味深げにながめていた。
「佐祐理さんと舞って、どういう関係なの?」
「え、どうしてですか?」
「お弁当を作ってあげたり、お茶を淹れてあげたり、一緒に学校に来たり」
 純粋に知りたいと望む瞳。昨夜のそれと同じだ。
「そうですねー」
 佐祐理は小首を傾げ、すこし考えてから、こう答えた。
「佐祐理は、舞のメイドさんなんですよ」
「メイド……?」
 そうつぶやきながら、助けを求めるかのように、祐一は舞へ視線を向けた。
「佐祐理は、私のお姉さん」
 舞は素直に答えた。
「お姉さん……」
「あははーっ、よけいにわからなくなっちゃってますね、祐一さん」
 困惑する祐一と、苦笑する佐祐理。
「だって……本当のことだから」
 それっきり、舞はふたたび自分の空腹を満たす行為に没頭した。

    †

 その夜も、舞は旧校舎の廊下に立って、気配を探っていた。
 剣を下段に構えながら、その表面を月の光に照らす。それはひとつの儀式だった。この剣は尖ってはいるけれど、刃は焼き込まれていない。だから、力任せに引きちぎることは別段、物を切ることはできない。だが、魔物を斬ることはできた。そして、それを月にかざして光を帯びさせることは、舞にとっては精神的な意味をもつ行為であった。無垢に輝く剣に青い光をまとわせる。そのことによって、不思議と神経が研ぎ澄まされ、舞はみずからを落ち着かせることができた。
 ひとつ失望の溜息をつく。今日は何の気配も感じられない。昨夜までに致命的な傷を負わせていたのだから、それが治るまでは姿を現すことはないだろう。今までもそうだった。あとすこしというところまで追い込みながら逃げられ、充分に傷が治ったところで魔物は姿を現すのだ。舞はまだ魔物を一つも斃したことはなかった。
 不意に魔物のものではない気配を感じて、廊下の奥を見た。
 祐一だった。
「あ、やっぱりいたんだな」
 舞と目が合って、しらじらしく驚いている。本当に驚いているのなら、やっぱりなどとは言わない。
 憮然として舞は祐一を見据えた。昨夜は祐一が現れた背後に魔物が出現した。それを警戒してのことだった。
「……どうして、ここに?」
「今日も忘れ物だ」
「……嘘」
「鋭いな」
「祐一は嘘つき」
「お互い様だ。今朝は知らんぷりされたからな」
「私は何も言ってない」
「沈黙も嘘のひとつだぞ。まあ、そんなことはどうでもいいや。それよりも……」
 急に祐一は真剣な顔を見せ、周囲に気を配りながら、小声で言った。
「今日は来てないのか、魔物」
「うん、いない」
 何の気なしにそう答えてから、舞は気づいた。
 自分はいま、この少年に、魔物のことについて、素直に答えてしまっていた。
「そうか……」
 そうつぶやいたきり、祐一もあたりを見回している。それは魔物を察知する行動としては無意味に近い行為だ。でも……それでも、この少年は、舞の行為に真摯に向き合ってくれている。
「……あのさ、舞」
 背中を見せたまま、祐一は尋ねてきた。
「なに?」
「俺、ここにいたら、足手まといか?」
 舞は首を横に振った。振った後でそれと気づいて、言い直した。
「ううん。でも、祐一に魔物は見えない」
「ああ、そうだな……囮でもやろうか?」
「おとり?」
 肩越しに視線を向ける。すこし思案して、答えた。
「……それなら、いてもかまわない」
「ありがとう。まあ、できれば楽な役がいいんだけどな」
 そう言って、祐一はいたずらっぽく笑った。
 舞は不思議な気持ちを抱いた。どうしてなのか、この少年はこの世界にいることを、嫌とは思わなかった。それをどう表していいのかわからず、困惑を無表情で塗り込めて、剣をじっと見つめたのだった。


掲載されている分量は、全体の1/8です。
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