「 か が み の こ こ ろ 」


「 か が み の こ こ ろ 」 
A5(いつもと判型が違います)/54ページ/挿絵4ページ カラー表紙/本文スミ
 「With You(F&C)」 伊藤乃絵美の小説
 text and edit by 成瀬 なおと / illustration by 小倉脩一
 即売会価格 500円

[履歴]

 2004年12月30日(Comic Market 67)発行


【本文紹介】





「……おかえりなさい、お兄ちゃん」
 自宅兼喫茶店である「l'omellet(ロムレット)」のドアを開けると、乃絵美が正樹へ振り返って微笑んだ。
 ロムレットのウェイトレス服を着て、銀色のトレイを持っている。
「ただいま、乃絵美」
 正樹はいつものようにあいさつを返した……はずだったが、何かに気づいて乃絵美はちょっとバツの悪そうな顔を見せたかと思うと、そのまま逃げるように背を向けて客席へ入っていった。
 きょとんとして正樹は乃絵美の背を追ったが、ふと客席の中から視線を感じてその方向を見やる。
 そこには見慣れた顔があった。氷川菜織だった。
「おかえりなさい、お兄ちゃん」
「おまえに『お兄ちゃん』なんて呼ばれる覚えはないぞ」
 からかうような表情の菜織に、正樹はむっとした。
「なんで、そんなところにいるんだ?」
 ぶしつけに正樹は菜織にたずねる。
「あらあら失礼ね。今日はお客さまとしてここにいるのよ」
「……違うよ、お兄ちゃん」
 通りすがりに乃絵美が割り込んでくる。
「私……倒れて保健室で休んでいたから、菜織ちゃんに送ってもらったんだよ」
「えっ!」
 驚いて正樹は菜織を見返す。その顔には責めるような色があったのかもしれない。菜織は正樹に苦笑を返した。
「だって、あんたに教えたら、ぜったいあわてると思ったから」
「そりゃ、あわてるに決まってるだろ。それじゃあ、乃絵美は、今日は倒れたっていうのに…」
 正樹は乃絵美を見た。意識して見れば、たしかに乃絵美の貌にはかすかに疲労の色がある。
「手伝わないと……」
 くすくすと菜織が笑う。
「シスコンね」
「悪いか」
「ううん、ぜんぜん」
 憮然とする正樹に対し、悪びれずに菜織は答えた。
 正樹は急ぎ足で店の奥へ向かい、家に上がる。
 階段を上がり、二階にある自分の部屋に入ろうとしたとき、階下から足音が聞こえてきた。
 乃絵美の姿が階段の下にあった。
 正樹はその場で立ち止まって乃絵美を待つ。
 乃絵美はスカートの端をつまんで階段を駆け上がると、そのままの勢いで正樹の胸の中へ飛び込んできた。
 正樹は乃絵美の身体を受け止め、少しの間抱きしめる。
 指を組み合わせ、たがいに見つめ合う。
 乃絵美は顔を上げ、瞼を閉じて正樹を待った。
「……んっ」
 唇を軽く重ね合って、そっと離した。
「ただいま、乃絵美」
「おかえりなさい、お兄ちゃん」
「ごめんな、体調悪いっていうのに、店の手伝いさせちゃって」
「ううん、大丈夫……たぶん、いまのキスで、治ったと思うから……」
 そう言って、恥ずかしそうに乃絵美は視線を落として、正樹の胸の中に顔を埋める。
「俺も、すぐに手伝いに行くから」
「ありがとう……」
 胸の中で乃絵美がうなずき、そうしてそのままじっと動かなかった。
「……ほら、そろそろ行かないと。菜織が怪しむぞ」
「……そうだね」
 しばらくの間を置いて応え、乃絵美は正樹から離れた。
「じゃあ、待ってるね、お兄ちゃん」
 急ぎ足で乃絵美が階段を下りていく。
 その姿を見送り、その姿が見えなくなってから、正樹は自室に入った。
……それは、二人にとって、儀式だった。





 いくつかのソファーを運び終えたところで、正樹はまだ片づけられずにあったソファーに腰掛けた。
 腰から脚にかけて張るような感覚がやわらぐ。おもわず、ふうとため息をついてしまい、正樹は自分に対して憮然としてしまった。
 陸上部の地区大会を間近に控え、部全体で最近の練習に一段と力を入れている。正樹にとっても、県大会へとつながるこの大会では、どうしても結果を出したいものだった。
 走りの動きを身体になじませなければならない。フィジカル面が同程度なら、あとはその習得度で決まる。その考えを元に、正樹は志願して他の部員よりも多く練習をこなしている。
 頑張りすぎだという声もあるが、明確な目標があり、それへ向けて無我夢中に打ち込んでしまうのが正樹の性格であったし、それは正樹の美点として考えられている。
 そして、帰宅後は、自宅兼喫茶店ロムレットの手伝いをしている。普段なら妹の乃絵美がもっぱらウェイトレスとして手伝いをしているのだが、最近、身体の調子を崩しがちなため、自分も手伝いに入っているのだ。
 別に大変なことだとは思わない。自分のやるべきことがやれる。それは好ましいことに違いない。まして、乃絵美が辛い思いをしてしまうのなら、それは自分が解決してやらなければいけないことだと思う。乃絵美の苦しみは、自分にとっても苦しみであって……。
「……ちゃん、お兄ちゃん」
 揺り動かされて、正樹は意識を取り戻した。
 目を開けると、そこには心配そうにのぞき込んでいる乃絵美の顔があった。
 目を開ける……?
「……俺、寝ちゃってたか?」
 乃絵美はこくんとうなずく。
「大丈夫、お兄ちゃん?」
「ああ。ちょっと……油断しただけ……」
 自らをかえりみると、ソファーに全身を預け、まるで軟体動物のようにだらけた姿勢をしている。姿勢を整えて立ち上がろうとすると、それを制するように、乃絵美は言った。
「ちょっと待っててね。いま、お茶を淹れてくるから」
 乃絵美は厨房へと向かった。
 見回すと、店の片づけは終わっていて、わずかに自分の呆けていたテーブルのみがそのままだった。おそらく、眠っている正樹を起こさないように気をつけながら、乃絵美がすべて片づけてくれたに違いない。
 正樹は自分の不始末に顔をしかめた。


 珈琲と今日の残りのケーキを前にして、乃絵美とお茶を飲んでいる。
「お兄ちゃんと、こんなにゆっくりと話をするのは、久しぶりだね」
 心なしか乃絵美は嬉しそうに見えた。その笑顔は正樹にとって悪くない。
「お兄ちゃん、終わったらすぐに部屋に戻っちゃうから」
「うん……」
「……部活、大変?」
「大したことないさ。今日は……特別だ」
 ごまかすように正樹は軽口で応える。
 くすっと乃絵美は笑った。
「お兄ちゃん、優しい」
「なっ……」
「だって、私のこと、心配させないようにって。わかるよ」
 ああ……と、とりあえず返答してカップをあおる。
 疲れたなどといった否定的な言葉を言えば、乃絵美に心配をかける。だから型どおりの答えをしてきたのだったが、それらはすべて乃絵美に見透かされていたのだった。
「先に言っておくけど、乃絵美が悪いわけじゃないからな。店の手伝いなんて、あたりまえのことなんだし」
「……ありがとう、お兄ちゃん」
 乃絵美は微笑んだ。背中がくすぐったい気持ちになって、正樹はごまかすように、またカップをあおった。
「……本当のことを言うとね、お兄ちゃんがお手伝いしてくれて、嬉しいの」
 急に視線を伏せ、乃絵美はぽつりと言った。
「別に楽ができるからじゃないよ。お兄ちゃんと一緒にお手伝いをできるのが……」
「ん……?」
「あっ……私、何を言っているんだろう」
 乃絵美は恥ずかしそうに視線をカップに落とし、とりとめもなくティースプーンでカップの中を掻き回していた。



 次の日、乃絵美のことが気になって、帰宅するとすぐに、着替えもせずにロムレットの店内へ入った。
 乃絵美はいつもと変わりなく接客をしている。
 その様子に安堵しかけたが、よく見ると頬が火照っているようにも見えた。
「乃絵美、乃絵美……」
 それとなくわかるように、店の奥から乃絵美を手招きする。
「あ、おかえりなさい、お兄ちゃん……」
 いつものように微笑みかけてくる。けれども、その瞳はかすかに潤んでいて、身体全体に熱っぽさを感じずにはいられなかった。
「熱があるんじゃないのか?」
「熱……?」
 受け答えも、何となくのんびりとしている。
 正樹は乃絵美の頬に手のひらをあてた。
「あっ……」
 突然のことに驚いたのか、乃絵美はびくっとする。
「ああ、やっぱりな。熱っぽいな」
「そうかな……そんなこと、ないと思うよ……」
 すると、乃絵美は頬にあてられている正樹の手の甲に、自分の手を重ねてきた。
「お兄ちゃんの手が、あたたかいだけだよ」
 そう言いながら、乃絵美は正樹の手を撫でるように手を動かす。
「私は、大丈夫だから」
 乃絵美の健気でかたくなな瞳に、正樹はしぶしぶ乃絵美の頬から手を離した。
「すぐに手伝いに行くから。調子が悪かったら、すぐに休むんだぞ」
「大丈夫だよ。お兄ちゃんだって、部活で疲れてるんだから、休んでて」
「そうはいかないって……」
 不毛な問答を切り上げて、正樹は部屋へと急いだ。


「無理してるよな……」
 薄暗い部屋の天井をながめながら、正樹はつぶやいた。
 結局、乃絵美は閉店までウェイトレスを続けた。いつ倒れてしまわないかと、ひやひやしながら正樹は注意して乃絵美を見ていたのだが、その動きは普段とほとんど変わらなかった。わずかにのんびりとしているようにも見えたが、それは熱を出していることを知っている正樹だから気づいたことなのかもしれない。
 その後、片づけもすると乃絵美は言い張ったのだが、さすがにそれは許さずに部屋へ帰した。閉店の頃には、見てすぐに熱があるとわかるくらいに顔を赤くしていた……。
 正樹はため息をつく。
 体調が悪いのに、乃絵美はロムレットに出てきて手伝いをしている。少々のことは自分の内にしまってしまうのは乃絵美の性格ではあったが、今日のはそれを逸脱しているように思えた。
 もしかしたら、ここ最近も体調が悪いのをおして、ロムレットの手伝いをしていたのかもしれない。そう思うと、それに気づけなかった自分が情けない。
 しかし……何がそんなに乃絵美を駆り立てているのだろう。
 ロムレットで手伝いをすることに、身体を壊してまでするほどの価値を見出しているのだろうか。
 たとえば、正樹にとっての、陸上部の練習。走れないほどの怪我を負ってしまえば別だが、熱を出しても正樹はやはり部活動に参加してしまうだろう。それは、部活動自体とそれにともなう結果を望んでのことだ。
 それは何なのだろうか。帰宅後、正樹も一緒に店の手伝いをしていたが、労働の喜びといった一般的なことを除いて、別に特別な価値を発見することはなかった。
 乃絵美自身にしかわからないものがあるのかもしれない。正樹はそう理解して、それ以上考えるのをやめた。
「……寝よっと」
 とりあえず、目先のことを考える。乃絵美を止めるのが難しいのなら、その負担を軽くするしかない。しばらくは、部活動が終わった後に、ロムレットで手伝いに入るしかないと結論づけた。



 翌日、正樹は乃絵美を背負って家路に就いた。
 体調を崩して保健室へ運ばれるというのはよくあることだったが、昨日の乃絵美の体調を考えれば充分に予想のつくことではあった。
 放課後、乃絵美を家に連れて帰るため、部活動を休もうかどうしようか、正樹は迷った。
 だが、部活動が終わるまでここで寝ているから、と保健室で乃絵美に言われ、正樹は練習をしてから、あらためて保健室で乃絵美を迎えたのだった。
 保健室のベッドで、乃絵美は起こすのが気の毒なくらい清らかな寝顔をしていた。それで、そのまま眠っていられるように、正樹は乃絵美を背中におぶっているのだ。
 乃絵美の寝息が、正樹の耳元をくすぐる。すっかり安心しきって、正樹にすべてを委ねているのがわかった。
 やがて、ロムレットが見えてくる。
「んん……」
 乃絵美が目を覚ましたようだ。
「あっ……ごめんなさい、お兄ちゃん」
 とろんとしてのんびりとした口調だ。
「いいんだ。もう少しで家だからな」
「うん……お兄ちゃん、部活、した?」
「ああ。乃絵美がああ言ってくれたおかげで、今日もしっかり練習できた」
「よかった……」
 そう言って、乃絵美は顔を突き出してくる。
「……お兄ちゃん、汗の匂いがするよ」
「あ、ごめん。もう少しだから、我慢してくれ」
「違うの。安心できるから、これでいいの。これで……」
 そうして、また乃絵美の吐息が聞こえてきた。


 夜、閉店後のロムレットの厨房で、正樹は洗い物をしていた。
 部活動をし、乃絵美を背負って帰宅し、それから店の手伝いをし、閉店の片づけをしている。さすがに疲労が身体全体に浸潤している。
 あれから乃絵美は部屋で眠っているようだった。
 乃絵美を背負ったまま部屋へ連れていき、ベッドに腰掛けさせる。
 いま起こされたばかりという表情をしている。そのままベッドに倒れ込んで眠ってしまいそうな感じだ。
「ちゃんと着替えて、ベッドで寝るんだぞ」
「うん……ありがとう、お兄ちゃん……」
 その後、乃絵美の姿を見ていない。体調を崩したのは良くないことだが、ようやく乃絵美にとって休息をとる時間ができたのは喜ばしいことだった。
「おっと……」
 白地に金の幾何学模様の入った皿が、洗剤のせいで正樹の手から滑り、水の入ったプラスチックの器の中に落ちた。拾い上げて確かめたが、幸い、ヒビや欠けたところもなかった。それでも、正樹自身の注意力が散漫になっているのは否めなかった。そもそも、皿を落としたときに緊張感や焦りがなかったのが、それをよく表している。
「俺も疲れてるんだろうな……はは」
 苦笑して、正樹は皿をゆすぐと、次の皿に手を伸ばした。
 その時、家の奥から足音が聞こえてきた。
「お兄ちゃん……」
「のえ……」
 そこに現れたのは乃絵美だった。その服は、正樹が連れ帰ったときと同じ、制服のままだった。
「着替えてなかったのか?」
「お兄ちゃんが行った後、着替えようと思っていたんだけど……身体がついていかなかったみたい。ベッドに倒れ込んじゃった」
 そう言って、乃絵美は正樹のいる厨房へ入ってくる。
「手伝うよ」
 微笑んではいるが、まだ熱っぽさがありありと見て取れる。
「いいって。まだ休んでろって」
「本当に大丈夫だよ。すこし寝たらすっかり良くなったから……」
 急に身体の力が抜けたようになって、乃絵美は正樹の許へ倒れ込んできた。
 とっさに腕を出して乃絵美の身体を抱く。
 乃絵美の髪がふわりと舞い、髪の香りが正樹を包んだ。寝起きの生の匂いだ。
「乃絵美……!」
「大丈夫……大丈夫だから……」
「大丈夫なわけないだろ。ほら、部屋に戻ろう」
 正樹はそう言って、乃絵美に離れることを促す。けれども、乃絵美は正樹に抱かれたまま、動こうとはしなかった。
「……お兄ちゃん……私、お兄ちゃんのそばにいていいの?」
「えっ……?」
「そばにいたいだけなのに……どうしようもなく、そばにいたいだけなのに……」
 意外な言葉に、正樹は返す言葉がない。
「言いたいことがあって。言わないと、たぶん、私、壊れちゃいそうで……でも、言えなくて……たまらなくなって……」
 乃絵美は顔を上げた。
 瞳は涙に濡れて、いまにもこぼれ落ちそうなくらいにきらきらと輝いている。
「自分でも……わからないの……」
 ひとつ瞬きをする。ついっと乃絵美の頬に涙が伝っていく。
「ごめんなさい……」
 そして……乃絵美は目を閉じて、正樹の唇に唇を重ねた。
「ごめんなさい……っ!」
……乃絵美の駆けていく足音が向こうへ消えていく。
 正樹は呆然として、その場に立ちつくした。



 次の日、乃絵美は学校を休んだ。
 出かけに母からそう聞かされただけで、正樹自身は乃絵美と会っていない。
 正直に言えば、正樹はほっとした。乃絵美と顔を合わせていたら、自分はどういう反応をすればよいのか、それが怖かったのだ。
 昨夜の乃絵美を思い出すと、動悸が早くなってしまう。熱を出して錯乱していたのだろうか。それでも、乃絵美と口吻をかわしたのは事実なのだから、そういうものとして安易に片づけてしまってよいものなのだろうか。
 たぶん、気の迷いなのだろう……お互いに。
 乃絵美の気持ちがぐらついているのなら、それを包み込むような強さを見せつけてやらなければならないのだ。
 振り払うために、放課後、いつも以上に陸上部の練習に没頭しようとした。
 周囲に悟られないように、身体を動かす。
 だが、神経を集中した瞬間、昨夜の乃絵美が脳裏を過ぎる。
 とまどい、熱っぽく、それでいて、意志を感じる瞳。その瞳はまっすぐ正樹へ向けられていた。そして、唇が触れ合って、熱いものが伝わってきた。
 乃絵美が求めていたものは……ロムレットで手伝うことではなく、ロムレットにいる自分を……。
 自然な動きをしている。ひざを上げ、よどみなく脚を前に出し、地面に脚をつけ、そのまま蹴り上げる。
 散文で表現できる動き……だが、肉体言語ではなく、文章語として理解した時点で、正樹の動きが変わってしまった。
 着地したはずの右足の端が空を踏んだかのように軽く……。
 突然、正樹の視界が、走者としてはあり得ない角度で、右に傾いていった。


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