【本文紹介】
1
瞼の向こうで、淡い桃色の雪が目の前をちらちらと落ちていった。
それは何の錯覚なのだろうと、淡雪に腕を伸ばして手のひらですくってみる。冷たくもなかったし、溶けもしなかった。丸くて端がきゅっとつぼまっていて、貝殻のような形をしている。淡雪のように見えたそれは、桜の花びらだった。
見上げれば、空には無数の桜の花が咲き誇り、それを背景にして自分を心から愛してくれる人の姿がそこにあった。その人のひざに頭をのせ、自分は眠っていたことに気づいた。ひざまくらをしてくれている人は、いまもすうすうと小さな寝息を立てて眠っている。その姿に神々しさを感じながら、そのままじっと牧歌的な絵を眺めていた。
風がわたって、桜の枝が騒ぐ。また、無数の淡雪が散る。
そうだ、私たちはいま、桜の木の下でこうして安らいでいたのだなと思い出して、もういちど午睡の園へと帰ることにした。
◇
川澄舞は、動き出した自分の時間を、倉田佐祐理と一緒に過ごしていた。
相沢祐一とのあらためての邂逅によって、舞にとっての凍った時は結了した。またふたたび時が動き出す。それは、主観的な意味での「時」だけではなく、客観的な意味での「時間」が、舞以外のすべてについて平等に存在し、平等に経過することを意味していた。
佐祐理は、ここを離れ、都会の大学へ進学することを決めた。それは、少なからず、彼女の周囲には驚きをもって受け止められた。すでに推薦によって地元の大学への進学は決まっていて、あとは入学手続を残すのみと理解されていたからだった。
しかし、舞は漠然と予感を抱いていた。佐祐理は自身の知らないところで流れていく運命に無抵抗に流されることを甘受するような人間ではないと思っていた。だから、佐祐理の決定に驚くことはなく、それを心から喜んだ。と同時に、それは舞にとってもひとつの指針となった。舞は佐祐理と共にここを離れることにした。
こうして、舞は佐祐理と一緒に暮らすことになった。
初めてふたりで訪れた日のことが、あざやかな印象とともに記憶に残っている。
この地に来て最初に知ったのは、街が桜に包まれていたことだった。
桜並木が道に沿って続いていき、その枝についている桜の花はすでに開いてあざやかに街を飾っていた。
舞と佐祐理の住むアパルトマンに到着すると、まず窓を開けて外を見下ろしてみた。アパルトマンのある敷地と大通りをはさんだ向こうには、大きな公園があった。旧華族の庭園だったらしいが、現在では造園されて桜の名所と呼ばれるようになっているという。
見るなり、息をのんだ。
淡い桃色をほこる桜は、まるで空に浮かぶ雲のようにふわりと花の塊となって、敷地をうずめていた。
部屋の片づけをして夕食をとってから、佐祐理と公園の散歩をすることにした。
すっかり日は暮れていて、空は闇色に落ちている。
敷地を入って、すこし奥へ行く。すると、小道のわきに桜の木々が堂々と並び、花をつけた枝がその道の上に張り出して、まるで桜でふかれたトンネルのようになって続いていた。
数歩あるいて、その中に入っていく。そうして上を見上げると、そこは桜の花で埋め尽くされていた。桜という空間の中にあって、夜の闇が恐縮しながらその場所を間借りしているようなそんな世界だった。
桜の園、という言葉が不意に頭に浮かんできた。
歩きながらも、つい桜を見上げてしまう。何かに幻惑されてしまったかのように、それを追い求めて進んでいく。
「……足元に気をつけてね、舞」
急に佐祐理の言葉が背後から聞こえてきて、そこでようやく舞は足を止めた。振り返ると佐祐理の姿は離れた後方にあった。自分が佐祐理をおいてきぼりにしてしまったことに気づいて、舞は佐祐理の許へ急いだ。
それから互いの生活がはじまった。朝、目覚めれば、隣のベッドにいたはずの佐祐理の姿はすでになく、ダイニングに行くと、佐祐理が朝食の用意をしている。夜、夕食を一緒に食べ、くつろいだ時間を送り、寝室に並んでいる二つのベッドでそれぞれ眠る。初めての連続であわただしい日々が続いたが、ふたりで一緒に過ごす時間はゆるやかに過ぎていく。
そうしてむかえる最初の休日の午後、ふたりはまた公園に来ていたのだった。
◇
次に目を覚ますと、まぶしいほどの青さを見せていた空の色は赤く変わっていた。夕方になっていた。視界の中で、佐祐理は遠くを見つめていたが、舞が起きたことに気づいたのか、こちらを向いて微笑んだ。
春になっても宵の風はまだまだ冷たさが残っている。昼間の暖かさから半袖のブラウスを着てきた舞は、吹き抜ける風に寒さを覚えて腕をさすった。
桜の花びらが、風の稜線を形づくるように舞っている。
すると、無数の白い小片が目の前をちらちらと降りてきた。
「わーっ……」
佐祐理は足を止めて、顔を上げた。腕を伸ばし、落ちてくる花びらの一つをすくう。舞もそれに倣った。手のひらに載ったそれはうすい桃色をたたえ、末から端に向けて紅い筋が走っている。
「きれいだねーっ、舞」
視線を佐祐理に移す。佐祐理は心から楽しそうにはしゃいでいる。
不意に、舞の心の中に、涙が出そうなくらいの歓喜を感じた。
何も畏怖するものもなく、不条理な渇望もなく、いまここには、こんなあたたかい時しか存在せず、そして、それはこれからも続いていくのだ。
憂い、という言葉、感覚。そうだ、そんなものはもともと存在しないものだったのかもしれないと、舞は思った。
|