【本文紹介】
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それまで、自分のまわりは明るく輝いていて、きれいな時を留めているだけだと思っていた。
正樹をはじめ、周囲にいる人は皆優しくて、その中にいられる自分を、乃絵美は幸せだと思って疑いもしなかった。
けれども、それが偽りだと気づいてしまったとき、その瞬間から、乃絵美は心に何か暗くて重いものを積まれてしまった。それは初めての感覚で、振り払おうとしても、存在を忘れてしまおうとしても、それはかなわなかった。無理に吐き出して、そうしたつもりになっても、不意に立ち止まったとき、心の間隙を入り込んできて、気がつけば、それはすでに心の中で回復してしまっている。
どうすればいいのか、わからなかった。どうしてそんなことになってしまったのか、それはわかっているというのに。
たとえば、夢から覚めて、カーテンの向こうから朝日が透けて照らす部屋を見回したとき。
そこに見える世界には、何かが欠けているような気がしてしまう。そんなことはないとうち消してみようとはするが、それは何であったのだろうかとおのずと思い出してしまって、また心に重いものを感じる。
たとえば、学校から帰ってきて、喫茶店「ロムレット」の手伝いをしているとき。
心から楽しそうな素振りと笑顔で接客しているのに、自分はいま嘘をついているんだよと囁いてくる別の自分がいる。本当は心に翳りを帯びているのに、それを存在しないものとして振る舞っている自分は、たしかに嘘をついているのだ。
それでも、首を横に振り、何も変わっていないふりをしながら、時を過ごしていかなければならない。
夜、カーテンを開けたままベッドに入って、窓の外に映る月を見ていると、いつのまにか涙をこぼしている自分がいる。
こうしてここにいる自分も偽りなのかもしれない。
乃絵美は小さな声で嗚咽を洩らして泣いた。
◇
その日も、乃絵美はロムレットの手伝いをしていた。閉店してから厨房の片づけをし、火を落とそうと思ったところで、ふと、兄である正樹のことを思い出した。
今日の正樹はいつもよりもずっと早く帰宅していた。本来ならば陸上部の活動があって、それが終わる夕方過ぎに帰宅するのに、今日は乃絵美の帰宅からすこし遅れるくらいであった。しかも、その時の正樹の表情は沈んでいた。とぼとぼと部屋へと上がっていって、そのままほとんど部屋にこもりきりのようだった。その様子がずっと気になっていた。
正樹のためにお茶をいれてあげよう。そう思って、乃絵美はロムレットの制服のまま家に入り、正樹の部屋へと向かった。
正樹の部屋の前に立つ。ドアの隙間から中の明かりがわずかに漏れている。正樹が起きていることを確信して、乃絵美はドアをノックした。
「お兄ちゃん」
「んー? 何だ、乃絵美?」
返ってきたのは、のんびりとしたいつもの口調の正樹の声だった。帰宅時の意気消沈とした雰囲気はすこしも感じられない。
ほっとして、乃絵美は続けた。
「ロムレットを閉めるんだけど、その前に、お兄ちゃんにお茶をいれようかなと思って」
「お茶か、それはうれしいな」
「何がいいかな?」
「うーんと、コーヒーにしよう。ロムレットに行けばいいか?」
「ううん、私がお兄ちゃんの部屋まで持ってくるよ」
「そうか、悪いな。じゃあ、待ってる」
「うん、急いで持ってくるね」
そう答えて、乃絵美はロムレットへと戻った。足取りは軽かった。正樹と話しをしたことで、何となく心が軽くなったような気がした。
カップの載った銀のトレイを手にして、まるでロムレットでの接客と同じように、乃絵美は正樹の部屋をふたたび訪れた。
正樹は机に向かっていた。机の上には本や筆記用具が載っていて、勉強をしている様子だった。乃絵美が部屋に入ると、手を頭にやって椅子によりかかって振り向いた。
「ありがとう。そこのテーブルの上に置いといてくれ」
うんと応えて、乃絵美は正樹の部屋の中央にある小さなテーブルの脇にひざまずいて座り、トレイを床に下ろした。カップを取り上げて静かにテーブルの上に置く。その隣りに砂糖とミルクの入っている皿を添える。
「ロムレットじゃないんだから、そんなにていねいに置かなくてもいいんだぞ」
正樹は苦笑混じりに言う。そうして椅子から立ち上がって、正樹はテーブルの脇に腰を下ろした。
「……飲み終わった頃に、また来るね」
準備を終え、乃絵美はトレイを持って立ち上がろうとした。すると、正樹がそれを止めた。
「そんなに時間はかからないから、ちょっと座って待っててくれないか」
「うん、そうするね」
乃絵美は微笑みながらうなずいて、窓際にある正樹のベッドに腰をかけた。
「ここでいいかな?」
「うん……ベッドの方がマシだろうな。床みたいにゴミはないはずだし」
ばつの悪そうな顔をして、正樹はコーヒーをすする。乃絵美はくすっと笑った。
「……でも、悪いな。わざわざお茶をいれてもらって」
「ううん、もう厨房の火を落とすところだったから……それ、余り物なの、ごめんね、お兄ちゃん」
「ああ、ぜんぜん問題ない。むしろ歓迎するよ。店で作ってる方のが、数倍うまいからな」
楽しそうに、また正樹はカップを口につける。
「お兄ちゃん、勉強してたの?」
「あ、うーん、勉強をしていたというか、させられていたというか……」
「させられていた?」
「ああ……実はな、この前の試験に失敗して、今度、追試をさせられることになったんだ」
正樹は弱り切った顔をする。
「追試まで陸上部の練習は禁止、追試に合格しないと次の大会に参加させないんだってさー」
そこで、ぐっとコーヒーを飲み干してカップをテーブルの上に置くと、正樹は伸びをしながら床の上に仰向けになった。
「これからしばらく数学漬けの日々だなんて、なんて悲しいんだ。ううう」
そうして、腕を顔にやって、泣き真似をはじめる。乃絵美は声を上げて笑った。一緒にいると、自分の心まで照らしてくれると思った。
だが、その時、不意に乃絵美は心に影が覆っていることを思い出した。正樹の明るさに、それはかえって鮮明に浮かび上がってしまった。屈託なく笑う正樹に相対して、乃絵美は心に重いものをもっている。その比較が劣等感となって、乃絵美の心により深い影を落としていた。
「……乃絵美?」
我に返ったのは、正樹の声を聞いたからだった。はっとして見返すと、正樹は心配そうな顔で乃絵美を見ていた。
「どうしたんだ、乃絵美、急に難しい顔をして?」
「ううん、なんでもないよ」
微笑みをつくって、首を左右に振る。それでも、正樹は納得した顔を見せなかった。
「まさか、俺の成績を案じてそんな顔をしたんじゃ……」
「違うよ」
「違うって言い切れるか?」
「……ちょっと自信ないかも」
「あはは、乃絵美は正直だな」
正樹は快活に笑う。
乃絵美も笑おうとした。けれども、どうしてだか、急に涙がこみ上げてきた。乃絵美は手で顔を覆った。
「乃絵美……!」
驚いて正樹は身体を起こす。
「ううん、なんでもないよ。なんでもないから……」
顔を伏せて表情を隠しながら、乃絵美はベッドから立ち上がった。泣き顔を見せてはいけない。この場から離れなければならない。逃げなければならない。それだけを乃絵美は考えていた。
だが、それはかなわなかった。
おさえが効かなくなって、涙がぽろぽろと頬をつたって落ちていく。
正樹が立ち上がって乃絵美の隣りに座り、うなだれている乃絵美の肩を抱いた。
「乃絵美、俺、何か悪いことでも言ったか」
「違うの、お兄ちゃんのせいじゃないの。私が悪いの」
「どうしたんだ、一体」
「なんでもないの、本当に、大丈夫だから……」
「大丈夫なわけないじゃないか」
そう強く言って、正樹は乃絵美の身体を起こした。
そして、真剣な表情で乃絵美と向かい合う。
「乃絵美がいきなり泣き出すなんて……放っておけるわけないだろ」
「お兄ちゃん……」
その言葉が胸に響いてこみあげてきて、乃絵美はぐずっとしゃくりあげると、そのまま正樹の胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。そうすることでどうなってしまうのか、そんなことは考えられなかった。ただ正樹に甘えてしまいたいという気持ちでいっぱいだった。抑えていた感情を剥き出しにしたいと思った。正樹の手が、乃絵美をいたわるように、髪を撫でる。それがさらに乃絵美の涙を煽った。
そうして、ひとしきり泣いてしまった後で、ようやく心の落ち着きを取り戻した。
「……ごめんなさい、お兄ちゃん」
「落ち着いたか?」
「うん」
「話してくれないか」
正樹の願いに、しばらく間をおいて、乃絵美はうなずいた。心にある重いものを正樹に話す。その決心をするのに、わずかな時間が必要だった。何をどのように話せばいいのかわからない。そもそも正樹は受け止めてくれるのだろうか。それは逆に不安なことですらあった。かえって重いものが心にのってしまうのかもしれないとすら思った。
だが、正樹は乃絵美を常に明るく照らしてくれる人だった。いつも自分は正樹を信じていたではないか。正樹を信じるしかない。乃絵美は口を開いた。
「お兄ちゃん、私……好きだった人がいたの。でもね、その人にふられちゃった」
そこで乃絵美は言葉を切った。胸に顔を埋めているせいで、正樹の表情はうかがい知ることができない。だが、乃絵美の肩を抱く手に、わずかに力がこもったように感じられた。
乃絵美は続けた。
「その人はすごくがんばり屋で、私はその姿を見ているのが好きだったの。でも、その人は変わってしまった。明るくて前向きな人ではなくなってしまった。それで、私は、その人を見るのをやめたの。だからね、ぜんぜん悲しくないんだよ、ふられても。でも……恐いの」
「恐い?」
「私は、その人が好きだったんじゃなくて、その人ががんばっているところが好きだったんだよ。人を好きになったんじゃない……私は、人を好きになれないのかもしれない。人は変わってしまうものだから。でも、私も変わってしまうから、私は誰からも好きになってもらえないのかもしれない。
お兄ちゃん、私は、もう、誰のことも好きになってはいけないのかな……」
そのまま、乃絵美は沈黙した。何も言葉を発することができなかった。感情に委ねて、乃絵美は自分をさらしてすべてを吐露した。それは乃絵美にとってはみずからのすべてを懸けた衝動そのものだった。けれども、正樹にとってはどうだったのか。私はお兄ちゃんにただ甘えただけなのかもしれない。その罪悪感が反射的に身体を包んで、乃絵美はかえって沈んだ気持ちになった。
「ごめんね、お兄ちゃん、変な話しして……」
そう言い残して、正樹の腕の中をすり抜けようとする。
だが、その時、正樹の腕が乃絵美の背中に回り込み、きつく力がこめられた。
何がどうしたのか、最初、乃絵美にはわからなかった。けれども、そのことにすぐに気づいた。
私はお兄ちゃんに抱きしめられている、と。
顔を上げると、真剣なまなざしで、正樹は乃絵美を見つめていた。
乃絵美もじっと正樹の瞳を見つめる。琥珀色を濃くした、澄んだ瞳だ。心が透かされていくようで、魅入られたような気持ちになる。
その瞳が近づいてくる。頬に正樹の手が触れて、誘うように乃絵美の唇の角度を変えた。抗わず、乃絵美は目を閉じた。目許から涙がこぼれたのと、唇に正樹を感じたのと、同時だった。
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