メイドマニア批判序説

氷神 龍彬


 機動戦艦ナデシコ艦長ミスマル・ユリカのキャラクターとしての本質は何か。それは、おそらく脳天気なまでの明るさや、戦闘指揮時の凛々しい姿と日常の大ボケぶりとのギャップなどでは、ない。蓋し、「ただひたすら自分(=視聴者の感情移入対象としてのテンカワ・アキト)のことを大好きと云ってくれる/信じ切ってくれる存在」である。

 美女にモテモテのうらやましすぎる境遇に置かれたテンカワ・アキトは、作品を通じてあいまいな態度をとり続け、ようやく最終話に「自分の気持ち」に気づく。幼なじみへの回帰。ラブコメの王道である。

 だがアキトは最終話でさえ、自分から積極的に「告白」しない。エステバリスのコクピットの中、ユリカに云い寄られ、なかばしぶしぶと白状させられるような形をとる。アカツキ・ナガレがアキトに張ったレッテル一一「恋愛下手」一一なアニメおたくである限り、自分から女性に積極的にアタックする強さを表現しきれず、さらにかかる女性キャラクターに振り回されるような位置こそが、アキトーユリカ関係に感情移入する視聴者の理想ということにもなる。

 云うまでもなく、自分から告白できないのは弱い人間だ。脆弱で臆病な魂。振られて傷つきたくないから告白しない/出来ないだけなのである。ATフィールドでもろい自我を守っていた安っぽい魂と、それは等しい。渚カヲルは、その魂の持ち主を「ガラスのように繊細」で「好意に値する」と云ったが、これも告白の言葉でありかつ積極的なモーションでもあった。主人公格の人間が「云い寄られるだけ」という楽なポジションにいることは同じであった。

 現実世界では、努力を払わない人間はモテることはない。またいかに努力を払ったとて、天賦の才/美貌をもつ人間のほうがモテる冷厳な事実も確認しておかなければならないだろう。

 そういう現実からの逃避が間違っているなどと短絡されては困る。妄想も煩悩も結構。 ただその逃避先からある種の精神の歪みを読みとれるとするならば、一度きっちりと言語化し批判しておくべきだろう。それは、他人の趣味に文句を付けるな、という類の反論で切り返されて終いという程度のものではなく、また自己を相対化して客観視する視点をもっているから大丈夫だ、という「大きなお友達」らしい言説で安堵できる程度のものではない。

 本稿の考察対象であるいわゆるメイドマニア、な人々の精神の歪み(病理、とは云い切れない)が、かかる自我の問題とも密接に絡んでいることを示そうと云うのが、この試論の目的である。


 メイドマニア批判の冒頭にユリカをもってきたのは、「ユリカはメイド向きの性格だ」という成瀬氏の発言を聞いてのことである。白状すれば私には不明だ。

 だが推察は出来る。あの明るさも、結構仕事が出来る(と云っても、ナデシコでは指揮、雪谷食堂では注文取りであって家事ではないが)ところも、家事労働の従事者としての美徳ではあろう。だがいわゆるメイドマニアは、「家事をしてくれる」ことにメイドという存在の魅力を感じているわけではないだろう。ただ家事をするだけなら普通の女の子でもいいはずだ。ついでに云えば、家事のひとつもできない人間が、何が好きだの嫌いだのと偉そうなことを云うな、とのフェミニストの批判も現実世界では男は深刻に受け止めなければならない時代だが。

 では、ユリカのみならず「メイド向き」な存在たることの構成要素とは何か。それにはメイドという存在の本質を直観する作業が必要となろう。それは、いるかいないかわからぬが、あの「メイド服」そのものに魅力を感じている服装フェチを抜きにして、根本的に「自分の云うことを嫌がらずに聞き入れてくれる存在」であろう。

 メイドマニアで、自分を雇用主たる「(若)旦那様」に擬して感情移入しない人間はいないと思われる。つまり自分は雇用主、雇われメイドに対して圧倒的な権力者である。視線は水平ではない。

 仮に、読者が、主人公として傲慢で強欲で醜悪で助平な中年エロジジイなどよりも、優しく穏やかな(でもやることはやる)青年紳士のほうに感情移入しやすい傾向があると推定しても、それによっては権力関係における支配ー被支配構造は揺らがない。民主化された日本において「メイド→家政婦」となり、「家」に雇われると云うより会社から派遣される形式に移行した現実をなぞることなく、「お屋敷」にあまた雇用されている、眼鏡っ子から勘違い系、ボーイッシュまで各種取りそろえられた、しかも若い娘ばかりという非現実的な妄想の暴走は、かかる差別構造を前提としてこそ花開く。その構造なくして妄想は生まれ得ない。

 と云って、それが若い坊ちゃんと美しいメイドの身分を越えた愛、などという三流ソープ・オペラでもやらないようなテーマを抱えているわけでも、無論ない。差別構造は作者/読者の無意識の中に潜み、メイド本の中でシリアスな形であからさまに触れられることはない。

 いわゆるSM的な類のものを除けば、権力者たる自分が無理矢理欲望を貫いてメイドの肉体を蹂躙する、という筋立ては少なかろうと推察される。そうした鬼畜な性的倒錯者ものは、その倒錯を描くことにこそ欲望の吐き捨て場としての存在意義があるのであって、「メイド本」として特筆されるジャンル・フィクションとはカテゴリーを別にすべきである。「メイド本」の世界にはそれなりの独自性があるはずだ。

 このジャンルにおいては、上述したように不均等な権力関係がテーマたることは難しい。それは最終的な「安心材料」であって、SMものではないにせよ、かかる権力関係を前提にした性的交渉の強要という展開には即繋がらないと見てよいだろう。然るに、云うまでもなく、そうした構造を背負っていなくては発情しない/女性とコミュニケーションをとることが出来ない、弱々しくいびつな人間性は、嘲笑の対象となりうる。人の趣味に文句を垂れるべきではないと云う倫理は根強いが、いびつな弱虫を嘲笑し、はやしたてる権利は誰しももっている。弱虫と呼ばれたくなければ強くなればよく、いびつという文言に抵抗感があるのであれば、発言者に向かって自らの正当性を主張すればよいだけのことであるからだ。それが出来ないと云うのは、単なる弱虫である。


 直観として、メイドマニアは強姦形式を好まないのではないかということがある。根拠は余りなく、あくまでSMのお約束の範囲内で行われるもの以外となると和姦形式しか思い浮かばない、という程度である。それは、自分=主がメイドに対して権力者であることを示さなくてもよい展開をたどることになるだろう。

 つまり、自分が何も云わなくても、メイドのほうから好きだと云われる展開である一一それはテンカワ・アキトがミスマル・ユリカに「大大だーい好きっ!!」と迫られるのと、かなり類似している。

 ただ、強姦形式を好まないと云ってもメイドマニアが性的に慎み深いわけでは無論ない。求められる性的交渉に至るシーンは、必然的に主としてメイドの側から描かれることになる。エロマンガを求める男のおたくが、作者/読者ともに「男」を描きたがらないという傾向とも相俟って、展開の大部分はメイドを中心とする。

 アプリオリに「ご主人様」への好意/敬意・憧憬の念を抱くメイドが、深い悩みなど抱えずに主と性的交渉をもつ、というイージーなものが最もオーソドックスな展開であろう。主が手練手管を尽くしてメイドを墜としたり、恋愛感情に悶々とするシーンなどは想定しがたい。それは、一般的に女のおたく一一ヤオイスト含む一一が、性行為描写そのものよりも精神的な交歓をより重視する傾向がある(村上真紀とか神崎春子とかは別)のと対比される男のおたくの即物性にもよるだろう。つまり、かかる手合いは使えるエロが読めればいいのであって、物語性だの、主=自分への恋愛感情を述べる以上の心理描写だのは不要と感じていると思われる。さらに、冒頭に述べたように男の側の努力なく、ただただメイドに好かれるというご都合主義の設定からくる心地よさを求める心理もあろう。

 いや、自分は彼女にメイドの恰好をさせたりしない、メイドマニアな自分は、厳重に隠蔽しているおたくである幼稚な自分の性欲のはけ口である、それがいびつであることは充分承知しているなどとご立派な自己相対化を述べてみても、またSMやロリータ・コンプレックスなどと異なり変態的な性的指向に絡むものではないと強弁してみても、自分の弱さこそがメイドという特殊な職業の娘を好む原因であるという事実に変わりはない。不均衡な権力関係という構造を背景に、しかも一方的に惚れられているという安逸極まりない物語設定を踏まえていなければ女性と相対できない弱さ。西村寿行は、かつて「男は女が盲従してくれないと不安になる」と云った。その不安に耐えられない弱い自分をどうにかしようとは、メイドマニアは考えない。

 上述したが、現実逃避がいけないわけではない。逃げられるだけ逃げればいい。他人に迷惑をかけるより、自分の中に引きこもっているほうがまだましである。

 だが……これはメイドマニアに限らないが……いよいよ切羽詰まった状況に至ったとき、無理矢理自分の中からサルベージされたときに、弱い人間はキレるのである。攻撃衝動全解放、ナイフをもっていれば刺しまくるようになる。

 メイド本という装置が持つ機能とは、俗流SMの如き「他人を傷つけるような」行為により性的快楽を得るのではないという根拠があるが故に、臆病な自分から目をそむけさせ続けるという効果である。SMよりはひどくない、異常でない、まともに近い、などという云い訳が自分の中に限ったとしても通用してしまうところに、このジャンルが抱える歪み再生産機能があるのである。