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コウコウさんによるすばらしい挿し絵がついておりますので、完全に読み込みが終了してから読むことを強くお勧めします。


それいけ 美少女メイド ラピスラズリちゃん!
「よのなかにたえてさくらのなかりせば」

text and edit by 成瀬尚登( n2cafe@s27.xrea.com )


 

 

「旦那さま……」

 暗がりに向かい、小声で呼びかける。

 返事はない。だが、吐息が聞こえる。

 ラピスは旦那さまの眠っているベッドのそばに歩み寄った。

 かけ布団がラピスの旦那さまの姿をすっかり覆っている。

 ランプを灯し、布団に手をかける。

「旦那さま……?」

 かけ布団をそっとまくると、安らかな寝息をたてて眠っている旦那さまの姿がそこにあった。

 くすっと笑い、ラピスは彼の肩を揺すろうと腕を伸ばした。

 しかしその時、彼女の細い腕が、旦那さまの手につかまれた。

 そのまま身体ごと彼の方に引き寄せられる。

 きゃぁっと思わず声をあげてしまうラピス。

 気がつくと、その身体は愛する旦那さまの腕のぬくもりにおさめられていた。

「だ、旦那さま……」

 突然のことに胸がドキドキいっている。

 ラピスはためらいがちに顔を上げた。

 旦那さまは、優しい微笑みをたたえた寝顔を見せていた。

……いつもの時間に起き、いつものように庭の掃除をして、そして、いつものように心をこめて旦那さまのために朝食の準備をする。ただし、下ごしらえだけ。温かいものは温かいうちに召し上がっていただきたいという、メイドとしてのこだわりがそうさせる。特に、紅茶はお湯を入れてからは秒単位の闘いになるため、ティーサーバーとカップ、そしてミルクを温めておくだけである。

 そうして時が来るのを待つわけだが、今朝にかぎっては、ラピスの旦那さまが一向に現れない。

 ふと胸騒ぎがして、ラピスは彼の寝室へと向かった。

 ドアをノックするも、中からは何の反応もない。

 ますます不安が募り、無礼とは知りながらも寝室のドアを開けた。

 寝室には、電気がついていなかった。

 そして、ラピスは小声で呼びかけた……。

「……寝ぼけているだけだったんですね……」

 ふうっとため息をもらす。

 よく見ると、旦那さまの口許に、何か白いものがついていた。

 それに手を伸ばして取り、そのままラピスは自分の口に運ぶ。

 酸味が口の中に広がる。

「……酢飯?」

 ラピスは難しい顔をした。

 白いものはご飯つぶ。先ほどから微かに漂う酢のかおり。この酢飯のせいなのだろう。

 けれども、それはわかったが、なぜ旦那さまの口許についているのか、それに、どうして酢飯なのか、肝心のそれがわからない。昨夜、夜食をとられたのだろうか。だとすると、色々な意味で悲しい。昨夜の夕飯の量において旦那さまを満足させられなかったこと、夜食をラピスが作れなかったこと。寝ている自分を起こせないという旦那さまの優しさゆえだとは思うが、しかし……。

「ううん……」

 彼女の思考を妨げるかのように、旦那さまの腕に力が込められる。

 その華奢な身体は、その腕の中で、壊れそうなくらいに抱きしめられた。

 そういえば、とラピスは気づく。

 今日は午後まで旦那さまの時間は空いている。

 ここのところ、ネルガルの研究所への”おつとめ”が続き、旦那さまはお疲れのようだった。いや、お疲れというのは正確ではない、寝不足というべきか。朝、つらそうな顔で起きてくる旦那さまの顔に心を痛めずにはいられなかった。

 もちろん、メイドとしては旦那さまのご意志のままに振る舞いたいと思う。旦那さま、今日は寝ていてください。研究所へは私から連絡をいれておきますから、と何度いいかけたことか。しかし、一時(いっとき)の迷いで旦那さまの欲望を満たしては、結果的に旦那様の意に反してしまうことになる。

 しかし、今はまだ寝ていても大丈夫。

 ふふっと笑って、ラピスは愛する旦那さまの腕に頬を擦り寄せる。

 旦那さまが眠いのなら、寝かせておくのがいいかもしれない。

 それに……。

「……わかってるって。王子さまだよ……」

……ラピスは身体を起こして彼の腕からすり抜け、そして、彼の肩を揺すった。

「旦那さま、朝です。起きてください……」


 

 

 夕焼けに影がさす。

 茜色の光が窓からさしこむ廊下で、ラピスはじっと待っていた。

 ネルガルの研究所、その一室の前。部屋の中には、ラピスの旦那さまがいる。

 今日はラピスも研究所に用事があった。それは、ユーチャリスとの接続試験。もちろん何の問題もなくそれをこなし、ラピスは旦那さまを待っている。

 接続試験、それが意味するものをラピスは知っていた。

「……また、戦いに向かわれるのでしょうね……」

 旦那さまには戦って欲しくない、これがラピスの本心である。このままお屋敷で平穏に時を過ごせたらどんなに幸せだろうか。だが、戦うこと、それが旦那さまの意志であるなら、ラピスはそれにしたがう。旦那さまを縛るすべて、「助けたい人がいる」という時の旦那さまの切ない笑顔、それらをすべて断ち切ることができるのならば、この身を旦那さまに捧げたい。そして、命にかえても旦那さまをお守りしたい。

 だから、ラピスはユーチャリスに乗る。

  ☆

 帰り道のことだった。

 そろそろ桜の咲く頃だから、公園に寄って歩いて帰ろうよ、と旦那さまが言ったのは。

 ラピスは心から喜んでうなずく。

 屋敷へと向かうリムジンと停めてもらい、車を降りる。

 とたんに冷たい風が吹く。

 ラピスはぶるっと身体を震わせ、その身を抱いた。春とはいえ、まだ外套なしでは肌寒い。

 すると、ふわっと肩に何かがかけられた。それは、旦那さまの黒いコートのお裾分け。ラピスとラピスの旦那さまは一つのコートを一緒にまとって歩き出した。

 やがて、小高い丘の上にある公園に到着する。

 そこは桜並木、桜の園。

 薄橙色のぼんやりとした灯り、その光が幻想的に映った。

 桜の花は、残念ながらまだ5分咲き程度で、花見をするにはまだ幾分か早過ぎるという感じだった。

「早かったか……」

 歩きながら、残念そうに愛する旦那さまがつぶやく。

 だから、ラピスは明るく言った。

「また来ればいいんですよ」

「そうだな……」

 彼はラピスに笑いかける。

 そして、ある桜の木の前のベンチにならんで腰掛けた。

 旦那さまが空を見上げる。

 ラピスもそれにならう。

 薄桃色の花びらを無数につけた枝、そして、その向こうに星空がわずかにのぞいた。

「こんどは、お弁当でももって来たいな……」

「そうですね。満開のころ、また来ましょう」

 彼は首をもとにもどし、そして静かに言った。

「次は……もう一人隣にいるかもしれない」

 えっ、と思わずラピスは声を挙げて驚いた。

「旦那さま、それは……」

 ややうつむき加減で、彼は切ない笑顔を見せる。

「成功しそうなんだ。今度の作戦は……」

「いつですか?」

「明日。急だけど、奴らの裏をかくことになるから」

「旦那さま……」

 そのラピスの声は、期待の色を多分に含んでいたかもしれない。

 ラピスの旦那さまは頭をかいて、はにかみながら言った。

「ま、まあ、あんまりエリナさんとかアカツキは賛成してくれないけど。でも、俺は絶対に成功させたいんだよ、ラピス」

 ラピスはうなずいた。

「はい、旦那さま。かならず成功させましょう」

 旦那さまの手が、ラピスの頭を撫でる。

 それは、穏やかな日々のひとつのかけらだった。


 

 

 不意に言い得ぬ不安を感じることがある。

 この平穏な日々が、明日にはすべて壊れてしまいそうな、不安。

 今ここでこうして紅茶をいれている幸福。

 トレイに載せて、愛する旦那さまのところへおもちする幸福。

 それが……たとえば、ここで戯れにトレイを傾けたらどうなってしまうのか、という、何ら理由もない衝動によってカップが割れてしまうように、いつかこの幸せが不条理にも壊れてしまうかもしれない、という不安を感じる。

 それは一体なにか。

 旦那さまと共にあること、それが幸福。

 だから、旦那さまと離ればなれになること、それが不安。

 離ればなれ……。

「……どうした、ラピス?」

 はっとして、ラピスは顔を上げた。

 不思議そうに、そして好奇心がこもった瞳で、ラピスの旦那さまが言う。

「あ、いえ、なんでもありません」

 頬を赤く染め、笑顔でラピスは答えた。

 夕食後のくつろぎの時間。ただ、今日のそれは、やはりいつもとは違っていた。

 明日の出撃に際し、さすがにラピスの旦那さまも落ち着かないようで、紅茶を所望されたのだった。

「……俺に言えないこと?」

 ラピスの旦那さまはやや寂しそうな表情で、カップに口を付けた。

「い、いえ。そんな……」

「何か、悩み事でもありそうだったから……やっぱり頼りないか、俺?」

「そんなことありません! 実は……」

 ラピスは意を決して、自分の不安をうち明けた。

 そして、それを聞き終わると、ラピスの旦那さまは、静かに、だが力強い口調で答えた。

「そういうことは、あるよ」

「不安に感じること、ですか?」

「違う。……平穏な日々が、突然に壊れることが、さ」

 そのまま彼はラピスから目を背け、窓の外を見やった。

「旦那さま……」

 その時、屋敷のドアベルが鳴った。

 それは、愛する旦那さまへの来客だった。

 だから、ラピスは少し不機嫌。

 その名前は、アカツキナガレ……大切な旦那さまに戦いを強いる人。

 しかも、大事な話だからとアカツキに言われたため、ラピスは旦那さまから席を外すように言われた。

 台所のテーブルに両腕で頬杖をつき、そして頬を膨らませて、あさっての方角を向いている。

 もちろん、アカツキの顔を見ないですむことに越したことはない。

 しかし、旦那さまと離れているのは辛い。

 離れている……?

 ラピスは頬杖を解いた。

 寂しそうにうつむく。

 するとそこにコミュニケが開いた。

 お茶を2つ持ってくるように、というラピスの旦那さまの指示だった。

 てばやく、かつ完璧にお茶をいれ、トレイにポットとカップ二つを載せ、廊下を歩く。

 部屋のドアは開け放たれ、二つの人影が廊下に漏れる光の中にうつっていた。

”そんなことはわかってる! 何が言いたいんだ、アカツキ!”

 びくっとラピスはその場に固まった。

 激昂する旦那さまの叫び声が、部屋の中から聞こえてきた。

”艦長を助けるのは義務じゃないってことさ、テンカワくん”

 これはアカツキの声。旦那さまと諍(いさか)いをおこしているのだろうか……。

 ラピスは顔を強ばらせた。

”俺は、あいつを助けなきゃならないんだ!”

”別に助けなくてもいいんだよ。君は助かってこうしてここにいる。このまま平穏な生活をまっとうするのも悪くはないと思うがね”

”アカツキ……!”

 ばたんという物音、そしてガチャンというガラスの砕ける音がする。

 はっとして、ラピスは器用にトレイを支えながら、早足で部屋へ入った。

 部屋の中では、顔を緑色に光らせた旦那さまが、アカツキのスーツの胸ぐらをつかんで持ち上げていた。

 アカツキは、それでも不遜な表情をし、彼を見下ろしながら言った。

「……義務だなんて、そんな薄っぺらいことをいうのはやめたまえ。助けたいんだろう、艦長を。それは、テンカワくん、君の意志だ。この世で一番つよい意志、執念なんだろう。義務なんかじゃない」

「アカツキ……」

「だから、君は、自分のために、艦長を助けたまえ」

 数秒後、無造作にアカツキの身体が下ろされる。

 アカツキは数回咳払いをすると、ラピスの方を向いた。

「とんだところをお見せしたね、ラピスくん」

 その視線に気づいてか、旦那さまも彼女を見た。

「あ……ごめん、ラピス」

 バツの悪い顔をする。

「旦那さま、お茶が入りました」

 微笑みで返す。

「そうか、ありがとぅ……」

 だが、次の瞬間、彼の身体が膝から崩れ、そして床にうつぶせに倒れ込んだ。

「旦那さま!!」

 ラピスは思わずトレイを放って旦那さまのそばに走り寄った。

 ガシャンガシャンと陶器の砕ける音があとに響く。

「旦那さま、旦那さま……」

 ラピスは旦那さまの身体を仰向けにし、そして肩を揺すった。

「……ドクター、ドクター、僕だ、アカツキだ。テンカワくんが倒れた。すぐに来てくれ」

 腕の通信機でアカツキが連絡を取っているのが聞こえる。

「旦那さま、旦那さま……」

 涙目になりながら、何度も呼びかけ、身体を揺らす。

 だが、彼は苦しそうな顔のままで、少しも動く気配はない。

 それでも、ラピスは呼びつづけるのだった。

 不安を思い出さぬように、現実とならぬように。


 

 

 手ぬぐいを取り上げ、吹き出ている汗を拭う。

 それを脇の洗面器に浸して絞り、ふたたび額の上にそっと置く。

 旦那さまが穏やかな顔で眠っている。

 熱があるせいで、その頬は赤い。

 時折きこえてくる苦しげな吐息。

 ラピスはすがるように両手を組んでいた。

 思い悩んだ、切ない表情を見せながら。

  ☆

 イネス=フレサンジュ博士は、ほどなく屋敷に姿を見せた。

 博士の指示にしたがって、アカツキがラピスの旦那さまを抱え上げて寝室へ運ぶ。

 その後、帰宅するアカツキを玄関まで見送ると、ラピスは小走りで寝室へ向かった。

 診察は既に終わったようで、博士はベッドの脇で片づけをはじめていた。

 ラピスもベッドの傍に近寄る。

「旦那さま……」

 ぴくっと、彼の瞼が動いた。

 ゆっくりと開かれる。

「……あれ、ラピス……俺は……」

「旦那さま!」

 ラピスは寝ている旦那さまに抱きつく。

「おいおい……あれっ、イネスさん……?」

 彼がわずかに首を傾げて言う。

「わたしのことがわかるなら大丈夫ね、アキトくん」

 ラピスも彼の視線を追う。博士が苦笑しているのが見えた。頬を赤く染め、ラピスは彼の身体から離れた。

「そうか、俺、倒れたのか……」

 旦那さまが思い出すように遠い目をする。

「それで、旦那さまは……」

「大丈夫。ちょっとした過労よ。ブラックサレナからのフィードバックが神経系にかなり負担がかかっていたようね。それが蓄積されていたんだけど、自覚症状もなくて、それで、あんな風に突発的に倒れちゃったの。わかった?」

 まるで子供をあやすように、博士は微笑みながら応えた。心配を取り除こうという配慮からだろうか。

「まぁ、二、三日安静にして寝ていれば……」

「……ダメだ!」

 その声に割り込むように、旦那さまの叫び声がした。

「イネスさん、なんとかしてくれ。明日、俺は行きたいんだ」

 すると、博士はそれまでの柔和な顔を急にきつくした。

「無理ね。そんな身体で行ってもしょうがないわ。あきらめなさい」

「馬鹿なこと言うな! 明日がチャンスなんだ。お願いだ、イネスさん!」

「アキトくん、はっきり言うわ。あなた、そんな身体で出撃しても、犬死にするだけよ」

「犬死にじゃない。俺が囮になれば、あとはあいつらが……!」

「いい加減にしなさい! 学生と問答してるんじゃないの。医者として命じます。安静にしてなさい」

「イネスさん!」

 その声を無視して博士は鞄を取り上げて立ち上がった。

 ラピスの方を向く。

「ちょっとお話があるの。廊下に出ましょうか」

 そして、困惑するラピスの肩をとって、うながす。

「……イネスさん!」

……その声を遮断するようにドアが閉められる。

 廊下に出るなり、イネスはポケットから小瓶を取り出してラピスの前につきだした。

「これは、睡眠薬」

「睡眠薬……」

「そう……あのね、落ち着いて聞いてね。もし明日、アキトくんがブラックサレナに乗れば、彼、確実に死ぬわ」

……えっ、と言ったきり数秒間ラピスは呆然と立ちすくみ、そして、その言葉の意味を理解した途端、身体から力が抜け、思わずよろめいた。

「……神経系がガタガタで、これ以上負担をかけ続けたら焼き切れてしまうかもしれない……だから、絶対に安静にさせてないといけないの」

 博士は苦悩に満ちた厳しい顔をラピスに向けた。

「だから、その薬をつかってでも、絶対に寝かせておいて」

「……わかりました。必ず」

……博士を見送った後、ラピスは手ぬぐいと冷水の入った洗面器を携えて寝室に戻った。

 そこには、手を胸の上で組んでじっと天井を見ている旦那さまの姿があった。

 その頬はやや紅潮し、それは、彼が発熱していることを示していた。

 手ぬぐいを冷水に浸し、額に置く。

「……ラピス」

 その間も微動だにしなかった旦那さまが、不意に声をかけた。

「はい、旦那さま」

 ラピスはつとめて笑顔をつくった。

「イネスさん、なんて?」

「は、はい、特に心配はいらないとのことですが、やはり2,3日は絶対に安静に、とのことです」

 とまどいながら、そして「絶対に」という言葉にやや強勢をおく。

「明日、だめなのかな……」

 その問いかけに胸を締め付けられ、ラピスは目をそらした。

「……おやすみ」

 旦那さまは、あきらめたのか、そう言って目を閉じた。

 ラピスは、何も言えなかった。

 ☆

 ラピスは明るさに目をさました。

 目をさましたということは、いつの間にか眠ってしまっていたということだろう。

 顔をあげると、旦那さまが着替えをしていた。

 漆黒の戦闘服。

 その視線に気がついてか、ラピスの旦那さまがこちらを向く。

「あ、おはよう、ラピス。さっそくだけど、朝御飯、つくってくれないか……?」

 すがすがしい、いつもの笑顔。

 わかりました、と思わず言いそうになったその時、ようやくラピスは自分をとりもどした。

「いけません、旦那さま。お休みになっていてください」

 すると、ラピスの旦那さまの顔が一瞬こわばった。

 だが、すぐにもとの笑顔に戻る。

「大丈夫だ、ラピス。身体もすっかり軽くなってね。あはは」

「旦那さま……」

 すがるように大事な旦那さまを見つめるラピス。

 彼はゆっくりとベッドの傍に立つラピスに歩み寄る。

 そして、優しく頭を撫ではじめた。

「今日だよ、ようやく、ようや……」

 その言葉の語尾は言葉にならず、次の瞬間、旦那さまの身体がベッドへと崩れた。

「旦那さま!」

「あ、いや、大丈夫だ。あはは」

 軽く頭を振りながら笑顔を作り続け、なおも起きあがろうとする旦那さま。

 それを見て、ラピスはとっさに彼の身体の上に覆いかぶさり、力の限り、彼の身体を抑え込もうとした。

「いけません!」

 のがれようと、もがく旦那さま。だが、ラピスですら抑え込めるほどに、彼の力は弱っていた。

「ラピス、はなせ!」

「いやです!」

「命令だ、ラピス!」

「お許しを……」

 気取られないように、ポケットから小瓶を取り出し、中の液体を口に含む。

 そして、旦那さまのあごをつかんで、口にその唇を合わせた。

「……んぐっ……」

 口の中の液体を、無理に彼の喉に流し込む。

 唇を離し、目を見開いたままの旦那さまに向き合う。

「お許しを……」

 突然、目の前の光景の輪郭がぼやけ出した。口に含んだとき、少量、ラピスも薬を嚥下していた。

「ラピス……睡眠薬か……」

「はい……旦那さま……」

 身体の力が急速に抜けていく。そのまま態を彼に預ける。

 旦那さまの手がラピスのメイド服の肩をぎゅっとつかむ。

 力がこめられる。それは、渾身の力というべきか……。

「今日なら……今日なら会えると……ちきしょう……」

 そして、そのまま布を引き裂くような音がして、その腕がベッドに落ちる。

 お許しを、三度目のその言葉を言い終えぬまま、ラピスもまた眠りに墜ちた。


 

 

 茜色の空に明星が輝く。

 春の日暮れは早い。まもなく夜の帷(とばり)がおりる。

 ラピスは待っている。

 交差点で歩行者用信号が青になるのを待っている。

 黒い帽子をかぶっている。ひざまでの黒いフレアスカートに白いワンピース、黒の薄手のコート。

 そして、革のトランクひとつ携えて。

 ラピスは歩き出す。横断歩道を渡り、緩い坂を登っている。

 やがて、丘の上に到着する。

 桜の園、満開の桜の木々がラピスを迎えていた。

 ぼんやりとやわらかい灯りのもと、ラピスは再び歩き出し、そして、ある一本の桜の木の下のベンチに腰掛けた。

 トランクをその脇に置き、桜を見上げる。

「綺麗……」

 ふいにそよ風が吹く。

 はらりと花びらが風に揺れて落ちる。

 そのひらひらという動きを無邪気に目で追い、ラピスの視線は地面に落ちた。

 そして、つぶやいた。

 「これから、どこにいこう……」

……ラピスが目をさましたとき、旦那さまはまだ眠っていた。

 起こさないように起きあがり、自室へもどって荷造りをはじめる。

 もともと旦那さまに拾っていただいたようなものだから、荷物といっても大したものはない。服や小物など、せいぜいトランク一つに収まるぐらいだ。もちろん、メイド服と胸のブローチはお返しする。

 その後、台所に入る。レンジで温めればすぐに食べられるようなものを作り、置き手紙を添えて屋敷を出た。

 これで、いい。

 旦那さまのお身体は無事だった。

 だた、たとえ旦那さまのためとはいえ、その意志に逆らってしまった。

 だから、自分は屋敷を出る。

 一時(いっとき)の不興を買ったけれども、旦那さまをまもることはできた。

 これは、メイドとして嬉しいこと。

 これは、メイドとして本望なこと……。

「……どこへ行こう。どこへ……」

 ふと、ラピスの胸に去来する。

 平穏な日々が、こんなに簡単にこわれてしまうなんて……。

 メイドとして、ただしいことをしたのに。

 メイドとして、喜ばしいことをしたのに。

 それなのに、それなのに……。

 ついっと、頬に涙が伝わる。

 我慢しようとしても、こらえきれず、涙が次々とあふれてくる。

 ぽたぽたと手の甲に水滴が弾け……。

「……となり、いいかな」

 その声は突然に聞こえてきた。

 ラピスは視線を落としたまま、涙を手でぬぐってこたえた。

「はい、どうぞ」

「ありがとう……」

 彼はラピスの隣に座ると、風呂敷包みをひざの上に置いた。

 桜を見上げる。

「満開だね……」

「はい」

「……結構、さがした」

「……ありがとうございます」

「感謝されるようなことはしてないよ」

 そして、彼は視線をラピスに向けた。

「自分のために……ラピスがいてくれないと、困るから」

「旦那さま……」

 ラピスは顔を上げた。

 ラピスの旦那さまは、はにかむような顔でそこにいた。

「困るんだよ、ラピスがいないと。勝手なお願いだけど……許してくれないか」

 彼女はくすっと笑った。

「許すもなにも、私は、アキトさまのメイドですから」

 ラピスは彼をじっと見つめた。

 やがて彼は沈黙に耐えかねて、視線を包みに移す。

「……そうだ、これ」

 思い出したように、彼は風呂敷包みを解きはじめた。

 重箱が出てくる。

 それを開けると、中からちらし寿司がでてきた。

「これは……」

「作ってみたんだ。ちょっと量が多いけど」

「大丈夫です、私、こう見えても食が太いですから」

 ラピスは笑顔で言う。

「それはよかった」

 そしてラピスは箸をとり、ちらし寿司を口に運んだ。

 思わず口許がきつくしまる。

「すっぱい……」

 と言ってしまった後でラピスは口許を手で押さえ、おそるおそる旦那さまの顔を見た。

 苦笑いを見せている。

「やっぱり目分量じゃダメだったか。ごめん、ラピス。俺……」

「いいんです。また作ればいいんですから」

 そして言う。

「旦那さま……私が、旦那さまの口になりますから」

「ありがとう……」

「感謝されることは言っていません」

 ふふっとラピスが笑う。つられて旦那さまも笑う。

 その時、強い風が吹いた。

 帽子に手をやりながら、あたりを見る。

 桜の花びらが、吹雪のように舞っていた。

「桜が……」

「……散るからこそ綺麗だって、聞いたことがある」

 旦那さまは遠い目をして桜吹雪を追っていた。

「……そうですね、散って、また綺麗な花を咲かせればいいんですね」

 ラピスも視線を彼と合わせる。

 桜の花びらは空へと舞い上がり、そして星の海とひとつに溶けあっていった。

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あとがき+雑談

ああ、ついにやってしまった……という禁断の小説になりました。メイドさん好きな人は間違いなくハマれると思います(<反省の色なし)。とりあえず、ユリカを助けたいというアキトの執念を使っているという点でナデシコ小説であるということにしていただけると、作者としてはたいへん助かります(笑)。

内容については、敢えて何も語らないことにします。読んだ人それぞれに想いがあるでしょうし、野暮ですので。ただ、設定面でFAQになりそうなことをここで触れておきます。ラピスの旦那さまが倒れたのは、ブラックサレナからのフィードバックが、彼の体内のナノマシーンとの関係で予想値をうわまわり、かつ、ナノマシーンが活性化されたため自律神経系への負荷が大きくなった……ということです。地の文にいれると収まりがわるく、また、その必要も特になかったので。

この小説ですが、本来はホワイトデー企画になるはずでした。ところが、諸般の事情で延び延びになってしまいました。すでに葉桜と化している桜の花を見るにつけ、時期はずれだな……というちょっとした後悔があります。

今回はギャグがなく、全編においてメイドさん的切なさ全開で、書いている方も辛かったです。次回は……もうメイドラピラピネタとしてはやり尽くしたような気もします。リハビリも兼ねて、壊れた北辰を再登場させようかと目論む今日この頃です。

さて、雑談です。私は造花が嫌いです。枯れないから。枯れるからこそ、咲いているその瞬間が尊いのです。永遠などつまらないというということを知っていた古人を尊敬します。……という考えとはまったく関係がない和歌をタイトルにしました(<ぉぃ)。和歌には全然なじみはないのですが、なぜか憶えている和歌の一つです。訳はエラい人の本をあたってください。

「世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」在原業平


PS

ふふふ、挿し絵ですよ、挿し絵♪ 日本一のラピラピ画家のコウコウさんから、絵をいただいたんですよ(^^)。「後書きから先読む」派(?)の人も、なにをさておいても挿し絵は見てくださいませ。ラピラピの肩に手がのってて、で、顔が熱っぽくて……(トリップ中)……ふう、堪能堪能。さ、明日への活力!

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