ミスマルユリカ艦長的生活日記

09/27/2003

 劇場版から5年経ちまして、そろそろ自分のやってきたことに一つの決着をつけてもいいかなという思いから、8月8日よりサイトの移転と整備を続けてきました。作業自体は実質的に終わっていて、あとは5年間の総括をして終了にするつもりでしたが、なかなか書こうという気持ちになれないでいました。書いてしまうと、それですべてが終わってしまうということがあったのかもしれません。しかし、いつまでも先送りにしておくわけにもいきませんので、5年間の総括を書いていきたいと思います。

 なお、告白に近い文章ですので、「だである調」で書きます。また、あくまで”成瀬尚登”の主観的事実関係であって、事実は異なるかも知れません。そのあたりをご留意ください。


「ナデシコ」とユリカに見ていたもの

 「ユリカたんにブイ」紹介文にも書いたとおり、ナデシコにはまったのは、劇場版公開前に放映された「傑作選」。いや、はまったというよりも、初めて存在に触れたと言うべきか。キャラ自体は漠然とは知っていたような気はする。ルリのポスターがそこら中に貼ってあったから。だから、”ポスターに触発されて見てみたら……”と、傑作選を見たきっかけを説明していた記憶がある。
 だが、正確には違う。傑作選の数日前に、私の身の上に強烈な出来事が起こった。
 父が入院した。病名は、食道癌。術後2年内に死亡する確率50%、5年内の確率20%。
 それまで、自分の周囲や家庭環境について、辛うじて前年に妹が嫁いでいったくらいしか変化がなかった自分にとって、それはいきなりの大きな衝撃だった。そして、それ以上に、人の生死というものに真っ正面から向き合わなければならないことが、恐かった。
 その時の、私にとっての現実は、不安の塊だった。何がどうなってしまうのかわからない。自分がどうしていいのかわからない。何かをしても意味があることなのかもわからない。
 そういう不安や混乱が、フィクションへ目を向けさせたのかも知れない。せめてフィクションの中では、自分の現実を忘れたいと思ったから。それが、たまたま「ナデシコ」であったということだ。

 「ナデシコ」の世界も決して甘いものではなかった。むしろ、ストーリーは、キャラたちが信じていたものが崩れていくような展開ばかりだ。けれども、そういう状況の中でも、常に前向きに自分を保っていられる存在がいた。その一人が、ミスマル=ユリカだった。客観的に振り返ると、やはりユリカのキャラ設定に全面的に肯定はできない気はする。しかし、私の主観では、ユリカは女神に匹敵するくらいの鮮烈さがあった。こんな状況で、こんなに明るく振る舞えるキャラがいたんだ……そういう感動があった。そして、「ナデシコ」自体も、ストーリーに対して決して陰鬱にならず、純粋に明るく楽しめるつくりになっていて、心の底から楽しいB級アニメだと思った。

 そして、傑作選を見てから、ネットで「ナデシコ」のHPを検索したり、自分でも日記を書いたりして、「ナデシコ」にどっぷり浸かろうとしていた。もちろん、自分の現実に対する逃避行動と言えるかもしれないが、そうでもしなければ現実に押しつぶされそうな切迫した気持ちがあった。ましてや、そんなことをしたところで、自分の現実には、良い意味でも悪い意味でも、何らの影響はなかったのだから……。

 その時に、「それいけ美人艦長!ミスマルユリカ様」というHPを見つけ、管理人であるルシフェルさんにコンタクトをとった。この方に最初に知り合えたのは私にとっての幸運だったと思う。ルシフェルさんや、友人であったラスカル師のアドバイスをいただいて、本HP「ユリカたんにブイ」を立ち上げた。コンセプトも何もない。ただ、思いを文章にして表現したいという欲求しかなかった。できるだけ赤裸々に、思ったことにバイアスをかけずに、そのまま。

 道化だという気持ちはあった。そう、道化だ。道化を真剣にやるのだ。

 心の底から「ナデシコ」を愛していたし、ユリカを愛していた。劇場版が楽しみで仕方なかった。楽しみだったから、アニメイトを買って劇場版の情報を読んだ。ネタバレは昔から気にしなかったから。

 実は、そこで概略は掴んでいた。ユリカとアキトが死んでいる設定からはじまって、最終的にユリカが助け出されるという話ということを。けれども、それだけでは何も思わなかった。TV版ではあんなに明るくキャラが動いていて、見ている自分は楽しくて仕方なかった。だから、劇場版もきっとそういう楽しさがあるに違いないと思っていた。まったく疑いもなしに。そして、劇場版封切りを迎えることとなった。

 ちなみに、父は幸い回復しています。むしろ、アガリクスとプロポリスの力で、私よりも健康体かもしれません。気になる人がいるかもしれないので、念のため。


「劇場版」

 劇場版を見てからの私の経緯については、ぜひ過去の日記と感想文を読んでもらいたい。疑問と混乱と怒りがよくわかると思う。いま振り返ってみると、まず「劇場版」が「ナデシコ」とは違って楽しくなかったこと、ユリカが「劇場版」の設定の面で破棄された存在であること、この二つが主要な理由だったと思う。

 特に後者の、ユリカの存在の破棄、というのは、私の逆鱗に触れた。最初は何が何だかわからなかったが、「劇場版」を見てから、後になって考えれば考えるほど、ユリカは破棄されたんだということがわかってきて、何とも言えない憤怒の情を抱いた。破棄というのは、無視とは違う。無視なら、単に劇場版に出てこないだけで済む。しかし、ユリカは劇場版に出てきて、かつ、ユリカらしいところを出せずに(または、逆に利用されて)、最後も、文字通りユリカが捨てられてしまった。

 おもしろいかそうでないかは、あくまで主観的な問題。しかし、ユリカを破棄した劇場版をどうしても許容することができなかった。ましてや、xebec掲示板では絶賛の書き込みしかなかった。このまま劇場版が絶対的な存在となり、ユリカは”そういうもの”として扱われていくことになってしまう……。

 ならば、せめて私はそれに抵抗することにしよう。ユリカの破棄は間違ったことであると訴えていこう。私は”闘うゆりかまにあ”である!

 この瞬間に、「ユリカたんにブイ」に本来の命が吹き込まれたのだと思う。

 テーゼは二つ。ひとつ、劇場版はTV版の続編ではない。ふたつ、劇場版における”ユリカの破棄”は間違っている。

 そして、この観点から、劇場版をTV版の連続と見た場合の矛盾点を上げ、こういう劇場版の展開があってもいいのではという提案を感想文として挙げていくことにした。

 また、一方で、ユリカが好きな人で、自分と同じような感想を抱いた人が、ルシフェルさんのサイトに集まってきていた。その人たちと話しをしていて、同じような思いを抱いている人は結構いるということに気づいたのと同時に、私のHPを読んで共感したと言ってくださる人もいて、私はますます感想文を書くことの意義を感じた。

 さて、「その作業をしていくうちに、劇場版について、TV版とつながらない箇所が不思議に思うくらいに多いことに気づいたので、感想文という形ではなく、より客観的な批評文でそれらを挙げていった方がいいかもしれないと、その準備をはじめたのだが、その頃に、ある人から、ある話しを聞いた。それは、ある意味で、その疑問を根本から解決してくれたのだった。

 この項目の最後に、xebec掲示板で読んだ劇場版への批判の書き込みを紹介したい。これを書いたのは私ではないが、劇場版への不満を的確に表現しているという点で価値があると思う。

> はじめまして。
> ナデシコだけとはいわず、アニメ全般を娯楽の一つとして楽しんでいる者です。
> ここはあくまでもXEBEC様のオフィシャルページの一部で、ナデシコ友の会の掲示板とかいうものではないはずなので
> あえて水を差させていただきます。他に「はけ口」が見つからないので。
>
> かなり前の書き込みまで見てみましたが、圧倒的に劇場版に対する評価は「よかった」が多いですね。
> しかし、私は全く納得してません。本当にみなさん、あのような映画を期待していたのですか?
> 多くのナデシコファンが続編を期待したのは、全てが謎のままテレビ放送が終わってしまったため、
> それを解決してほしいという気持ちからだったのではないですか。
> あるいは、個性あふれるキャラクター達で構成されたあの世界を舞台に、もっと話を続けて欲しい、
> これで終わって欲しくないという気持ちもあったと思います。
> 少なくとも私はそのような気持ちを持って、劇場版には期待してました。
> (アニメ雑誌は読まないので事前に内容についての情報は持っていませんでしたから)
> それなのに、謎については謎のまま。むしろ細かい疑問は増えたかもしれません。
> しかも、とても楽しかったナデシコ世界も、その中心を支えていた2人のキャラクターを悲劇にさらしたことにより、
> 同じメンバーが登場しても、全然違うつまらないものになってしまいました。
> 成長したホシノ・ルリの姿にクラっときている方もいっぱいいらっしゃるようですが、
> 私としては、周りにテレビ版のナデシコクルーがいて、その中で一番子供なのに一番冷静で大人で、
> でも、やっぱり女の子っていう、絶妙な個性が大好きでしたので、
> 今回、成長して主役クラスになったことによって、昔の強烈な個性を失ってしまったルリルリには興味ありません。
> 実在する女の子のように思い入れのある方は良いでしょうが、私にとってはあくまでも「所詮は二次元の・・・」なので、
> ルリルリを目立たせても私はごまかされません。映像にも力が入ってましたが、重要なのは中身です。
> 謎解きをする気がないのなら、わざわざ皆に愛されたキャラクターを破壊してまで続編を造る必要があったのでしょうか。
> 意外性をあくまでも追求した?それとも話を新たに大きく展開させるため?それとも名探偵ポアロが最後に死ぬように、
> 「いままでのアキト」は死んだということで、これで終わりだから続編を期待するなよという意志表示? 
> まあ、いろいろ分析されているんでしょうし、制作者の言い分もあるんでしょうが、そんなことはどうでもいいです。
> 少なくとも本編にはなかった「不快感」を与えられたのは事実ですから。
> いままでのように、基本的に娯楽でふざけてるんだけど、時にシリアスで非常識で・・、でも最後には感動させてくれる
> っていう、ナデシコ独特のバランスを劇場版にも反映して欲しかったです。
>
> 続編を期待する声も多いですけど、ここまで我々の期待の裏をかいてくれた制作者が、みなさんが求めるような続編を
> 提供してくれるとは私は思いません。むしろ期待通りのものが出てきたら、それはいままでの常識を覆す手法と
> 矛盾しますから、余計許せませんね。個人的にはもういいですよって感じです。
> 私にとってのナデシコは、あくまでテレビ放送分までです。映画は別のものとして忘れることにします。
>
> 長々と失礼しました。こんな事を感じた人間も世の中にはいるのですよ。


感想文をやめた理由

 ある人から聞いた話というのは、劇場版はTV版のスタッフではない人が作った、というものだった。より正確に言えば、TV版のスタッフが分裂したため、主要メンバーでなかった人が劇場版を作ったとのことだった。

 その話をしてくれた人は業界に近い人間ではあったらしいけれども、直接ナデシコには関わっていないはずだから、聞いた当時は私もあまり信じてはいなかった。監督が同じ、というのは事実として存在していたからだ。しかし、よく見てみると、ストーリーに関わるスタッフは監督以外は別の人だったのだ。しかも、その監督はインタビューで、TV版では(監督ではあったが)お飾りの存在で主導的に動けなかったと不満を漏らしている。さらに、後日発売されたセガサターンソフト「blank of 3 years」のスタッフはTV版で脚本や設定を担当した人の名前が。

 だとすれば、劇場版がテレビ版とつながらないのは、むしろ当然のことだ。”TV版と別の人”が作っているのだから。傑作選を見て劇場版が楽しみな私はラスカル師に言ったものだ。「ナディアとは違って、スタッフが同じだから、安心して見られる」。知らないとは恐ろしいことだ。

 その観点、つまりスタッフの面で考え直してみた。当時、ZMAPというユニットがあった。メンバーは、大月俊倫、伊藤健太郎、南央美、置鮎龍太郎、真殿光昭の5人(注:大月PDは主導的な役割で、川上とも子を入れて5人という説もある)。大月さんは言うまでもなくPDあり、その他は、ジュン、ルリルリ、アカツキとなる。唐突とも思えるムネタケ父(声:真殿光昭さん)の登場は、この流れからすれば当然であったと言えるかもしれない。一方で、ユリカ役の桑島法子さんはTV版メインライターの會川昇さんとラジオ番組で弾けていた。また、製作に名を連ねていた角川のアニメ雑誌での劇場版の扱いは小さかったのに対して、徳間のアニメイトではかなり特集を組んでプッシュしていた。後日の話しになるが、角川から発行される予定だった劇場版ノベライズはいつの間にか話しがなくなり、「劇場版の続編」というふれこみで出たドリームキャストのソフトに対して、監督は続編ではないと否定する発言をした。結局、角川から100%ブックが出そろったのは封切りから1年も経った後である……。

 話しを戻そう。いま述べたTV版スタッフと劇場版スタッフの分裂は、現在では普通に語られている公然の秘密に近いことだが、当時は妄想の範囲を超えるものではなかった。そのまま発表するわけにはいかない。けれども、その時に抱いてしまった失望感、つまり、劇場版をストーリーの面で批判することの不毛さに対する失望は、どうしようもなかった。結局、ストーリーとは、いくらでも好きに作れるものなのである。しかるべき製作スタッフが”これが「劇場版」だ”と言えば、それに従うしかないのである、その内部事情がなんであれ。

 だから、私は批評を書くのをやめた。感想文もひとまず区切りをつけて終わりにすることにした。

 だが、それは私の「劇場版」への思いを別の形で表現することを決意させることとなった。「REMIXED」である。

 ところで、結局のところ批評は未完で終わったわけだが、どういう内容になっていたかを簡単に言うと、ユリカが生きているということがわかったら、ナデシコのクルー、最低限、アオイやルリ、そして、「あの」ミスマル父が黙って作戦行動をとっていただろうか、という点である。特に、ルリは、ユリカを見ているのに、ユリカの救出にはまったく触れないで、アキトや”火星の後継者”の殲滅の作業を進めている。他のクルーも同様、落ち着き払ったミスマル父……このように、他のキャラは”存在することは知っているはずなのに、まるで知らない行動をとる”=”ユリカの破棄”というのが「劇場版」の根底に流れているというのが、批評の趣旨だった。


「REMIXED」執筆

 「劇場版」の再構成をする、という考え自体は、比較的早くから持っていた。日記でも時折触れていたことからもうかがえるとおり。ただし、当初はあくまで対案の提示だけに留めようと思っていた。つまり、劇場版にユリカを入れても違和感はないだろうという、”ユリカを破棄した劇場版は間違っている”のテーゼを証明する論証の一環でしかなかった。したがって、最初の3つ(1−1から3)はほとんど劇場版と変わらない展開になっている。

 話しが前後するが、前項のように「劇場版」自体を批判することの不毛さを感じた私は、同時に、ある考えに至った。

 TV版にほとんど関わってない(と自分で言っている)佐藤監督が作った「劇場版」が有りなら、”闘うゆりかまにあ”が「劇場版」を作ったっていいじゃないか。

 そして、そうすることで、”ユリカを破棄した劇場版は間違っている”のテーゼを、ユリカを破棄しない「劇場版」を作ることで証明してみせればいいのだ。

 それが「REMIXED」の目的、かつ、名前の由来になった。「劇場版」を同じ時間軸でなければならない。そうでなければテーゼを証明できない。自分のやることは、ユリカ(featuring Yurica)という音源を「劇場版」に混ぜて(remix)、新しい「劇場版」を作ることだ。あとは、TV版と連続させる(例:ルリがラストで相転移砲を撃とうと言う)とか、「劇場版」の意趣返しをする(例:ユリカがバイザーをつけている)とか、そういう設定面でのこだわりも当然注意した。

 しかし、書いているうちに、段々と別の欲望が首をもたげてきた。”創作意欲”である。実は高校時代に小説を書いていた経験があった。まったく初めてのSSで「REMIXED」が書けるはずはない(メイドユリカSSをその前に書いていたが)。そして、書いているうちに、段々と意欲が湧いてきたのだった。作品としてのおもしろさも出していきたい、と。それが、第1章4あたりから如実に表れてきている。

 矛盾無くユリカを劇場版に絡ませ、かつ、作品としてのおもしろさも出していきたい。この時、私の時間は、10のうち8か9ぐらいはユリカのことを考えていた。それは誇張ではない。かつ、苦痛でもなかった。むしろ楽しくて仕方がなかった。創作ノートはびっしりと埋まっていき、小説として文章を起こしていくのが心からの喜びだった。

 また、ラスカル師からTOP絵とバナーをいただき、ようやくHPらしい体裁が整い、また、サイトが知られるようになってから、感想・批評文や「REMIXED」に対して反応が出てきて、これも嬉しかった。特に、大塚りゅういちさんからは、REMIXEDの新作をアップするとすぐに感想のメールをいただいて、執筆の励みとなった。

 余談。この頃、はじめてユリカ@劇場版制服がナデシコアンソロジーで公開され、狂喜乱舞したのと同時に、破棄されてないユリカを見て感涙したのは日記に書いたとおり。また、ルシフェルさんのHP経由で、ハマーンさんや魔琴さんたちと知り合ったのもこの頃。


ナデシコFanサイト+SS作家としての認知

 劇場版への怒りが「REMIXED」製作へと昇華していくにつれて、このサイトがユリカのFanサイトであり、私はSS作家であるという認知がはじまった。それは不本意ではあったが、逆に、ある種のパスポートを手に入れたようなものだった。つまり、ナデシコFanサイトとナデシコSS作家の輪に入っていける資格を得たということである。

 この時、九条さんのサイトを知り、また河田秀一郎さんのサイトを知った。特に、河田さんと知り合えたのは、とても有益だった。ちょうど「Last Princess」を執筆していた当時で、真摯に劇場版と向かい合う姿勢はリスペクトの対象だったし、「REMIXED」が第3章に入ってから「そこが一番書きたかったところですね」と話しのヤマを見抜いたりと、SS作家としての能力はさすがに高いものがあって、私のとって一つの目標となった。また、リンクしていただいたことで、ナデシコFan全般から認知されるきっかけともなった。

 「REMIXED」については、一番の山場である3−4から6の話しをしたい。日付だけみると、1日ずつアップされていることとなる。もちろん1日で書いたということはない。3−4と5はユリカとエリナのセリフで話しが進行するが、ユリカのセリフについては、第2章執筆当時から一ヶ月ほどかけて創作ノート5ページにわたってセリフを小出しに書いていき、それを整序していくという方法をとった。5ページのを1ページ分にしたのだから、独白の内容が濃いのは当然といえば当然だ。エリナのセリフも同様に3ページほど書いたのをまとめたが、こちらはアキトの境遇の説明になっているので、説明文として適切かどうかという観点で編集をした。こんな感じで、各パートには色々なエピソードがないこともないので、機会があれば、ライナーノーツでも書きたいと思っているが、いつになるのか。

 年末に、河田さんのHPでSSやイラストを持ち寄る祭りが開催されることとなり、私は、大塚さんの推薦もあって、参加することにした。出展作品はさておき、その場で多くのナデシコSS作家に知り合えたのは収穫だった。コウコウさん、エージさんやMFさんとはこの頃知り合った。

 ひとり挙げておきたいのが、欅さんである。私はSS作家と認知されていても、やはり劇場版への憤怒の思いは抱いていた。もちろん、それはSSも対象となり、劇場版を全面的に肯定する作品に対しては、失礼ながら、どこか納得いかない気持ちを抱いていた。ましてや、空白の3年間の補完は、普通に考えれば痛い話しになるはずである。時はまだエヴァの影響が残り、痛い作品が評価される風潮が残っている。
 その中で、河田さんのサイトで読んだ欅さんの作品「黄泉比良坂」は、空白の3年間を書いているにもかかわらず、なぜかあたたかい印象を覚えた。そして、何より、読ませる力を感じた。”闘うゆりかまにあ”にそんな感想を抱かせたのである。率直に言うと、作家として惚れた。
 その後、チャットでお話をして、メイドラピラピのアドバイスをもらったり、ラピラピ祭りのお手伝いをしたりするなどして交流を深めていき、その後、同人活動へ移行した後でもアドバイスをいただくなど、現在も交流は続いている。


「REMIXED」完結。けれども……

 SS作家さんとの交流は、一方で劇場版への怒りを忘れさせるのに充分だった。現実の中で何かを失うという不安が、新しく築かれた交流関係によって埋められたという、「ナデシコ」というフィクションの外で補完されたのは、ある意味、正当なことだったのかもしれない。父の体調も術後は安定していて、不安が薄れてきたのも理由のひとつなのだろう。

 正直に言えば、「REMIXED」第4章とエピローグは、”作品として終わらせるために”書いた。第3章までで、ユリカを破棄しなくても劇場版は成り立つの証明はほとんど終わっている。あとは、ユリカとアキトが再会してハッピーエンドにするだけだ。話しの終わり方がそのように決まっているのだから、純粋に「証明」という点ではここで終わっても良かった。つまり、”闘うゆりかまにあ”としての存在意義よりも、ナデシコSS作家として執筆意欲が勝ったから、「REMIXED」は第4章とエピローグがあるのである。

 これは、私にとっては重要な意味を持つことだった。”闘うゆりかまにあ”であることよりも、SS作家としての理屈を優先させてしまったのだから。そしてまた一方で、「REMIXED」という創作の形で”闘うゆりかまにあ”としての姿勢を貫いてきたのであれば、「REMIXED」が終わってしまった後、”闘うゆりかまにあ”はどうすればいいのだろうか。

 ともあれ、その時は、その悩みをそれほど深刻に考えず、「REMIXED」完結後も普通に活動をしていた。ナデシコ関連のニュースも途絶えがちになり、ナデシコ関連グッズ情報を、意識して日記に書き出したのもこの頃。

 ところが、積み上がった知名度とこれまでの所行がアダとなった。
 ひとつには、ユリカFanの頭目だと目されたことで、意図しないところでの批判が向けられてきたこと。私としては、当初の目的のとおり、あくまで大勢に対する抵抗が主であって、いわばゲリラ的な活動のつもりだった。ゲリラが政権を担ってはいけない。あくまで中庸な立場のユリカFanがそれを担うべきなのだ。自分としては、今までどおりの”闘うゆりかまにあ”の活動をしているつもりなのに、ナデシコFanとしての節度がないと批判される。
 もうひとつには、SS作家としての立場に批判が向けられたこと。SSを読みに訪れる。そうなると、日記や感想にも目をとおす。そこには劇場版批判が書かれているわけで、それを見て、ナデシコSSを書いているくせに劇場版を否定するようなことを書くのはおかしいと批判される。

 つまり、ユリカFan・ナデシコSS作家としての社会的使命を担え、という公的抑圧がなされはじめたのである。

 それに対し、私は妥協的な態度をとった。「REMIXED」が終わった今、たしかにそうしてもいいかもしれないという思いもあった。

 そういう批判を疎ましく思いながらも、メイドラピラピシリーズを書き、ユリカたん祭りを開催し、そうして、自分なりの「社会的使命」とやらに応えてきたつもりであった。けれども、どうしてもぬぐえない抑圧を常に感じ、息苦しさを覚えていた。

 ちなみに、そういう事情があったから、後に同人に転進したときに、ナデシコ話を避けていたということがある。


同人活動へ、そして、同人誌版「REMIXED」発行

 ナデシコFan関係で知り合った方に、同人活動をしている人がいた。99年春レヴォに、誘われて、軽い気持ちでコピー誌を作ってみた。もともと昔から同人イベントにはよく行っていたのだが、同人誌を発行したことはなかった。いい機会だと思い、作って置かせてもらった。ナデシコの本でお金をもらおうとは思えなかったから、その時注目していた守護月天(ちょうどラスカル師がシャオの絵を描いていたのも大きい)の本。50部作って、結果は3冊だった。

 この結果に納得がいかなかったのと、余った在庫をさばかなければならないという思いから、今度はみずからイベントにサークル参加することにした。今でこそ落選が出るサンシャインクリエイションだが、当時は定員割れをしていて参加は容易だった。そして、そこで持ち込んだ残部の完売を達成した。

 同人は自由だった。単純に創作意欲を発揮するのなら、こういう場所で行うべきだと考えた。そして、同時に、ひとつの目標が生まれた。同人誌版「REMIXED」の発行である。そのためのキャリアを積まなければならない。

 このように考えて、ナデシコSSの創作を休止し、同人活動、そして、秋に同人誌版「REMIXED」を発行する方向で動いた。「REMIXED」以外の活動についてはここでは触れない。挿絵は、web版でイラストをいただいた、うらいまつさんにお願いした。紆余曲折もあったが、いただいた絵は総決算的な本に値するすばらしい出来だった。私自身のどたばたは日記の方を参照していただきたい。そうして、秋のゆきなっち祭り会場にて、電撃的に告知した。

 秋レヴォでの頒布は51部で、いま思うと素晴らしい数字だった。その後、通販での申し込みも多く、毎日郵便局に通っていた時期もあった。一方で、創作活動は全面的に同人活動の方へと移行した。冬コミに落選したことで、「コミケに参加したい」という新たな目標ができ、それをかなえるために同人活動を続けようとしてのことだった。ちなみに、「REMIXED」以外はナデシコ同人誌を出していない。やはりナデシコSSを読んでいただくことでここまで来たわけなので、ナデシコSSに対価をとるのは私としてはできなかった。

 その後、ナデシコと同人と、どっちつかずの態度をとっていたが、00年春に不知火菱さんと知り合ったことで今後の同人活動のメドがたち、また、同時期に開催されたルリ中心同人誌即売会「ルリ祭」をひとつの機会として、このページの更新終了を宣言した。

 ナデシコで知り合った人も、同人活動への移行と環境の変化によって少しずつ変わっていった。ナデシコの当時に知り合った人でいまもつきあいがある人もいれば、そのままフェイドアウトしていった関係もある。
 余談だが、”闘うゆりかまにあ”時代には不倶戴天の敵だった「ルリルリの下僕」のにょろさんとは、現在、同人活動では親密なおつきあいをさせていただいている。不思議な縁もあるものだ。


5年間を振り返っての総括

 ここからは、ですます調に戻ります。

 ”闘うゆりかまにあ”である必要がなくなった「REMIXED」終了時に、このページは実質的に終わっていたと言えるかもしれません。それでも、いまだに訪れる人がいて、感想をくださる人がいるのだから、やはり活動して良かったという気持ちでいっぱいです。

 結局、自分のやってきたことは、”「劇場版」にクエスチョンマークを持ってもらいたい”ということではなかったかと思います。それがどこまで結実したのかはわかりようがありませんが、決して無駄ではなかったと信じています。

「一生のうちで、何かひとつでいいから、他人に影響を与えたい」。その気持ちは、充分かなえることができたんではないかと思います。

 劇場版後に出たゲームや、webで公開されているナデシコSSには、普通にユリカが登場しています。破棄されたと思っていたユリカがです。もう、この流れは覆ることはないでしょう。そして、もう、TV版ナデシコ好きの1ファンに戻ってもいいでしょう。 

”闘うゆりかまにあ”は、これにて、終了とさせていただきます。いままで応援していただいて、ありがとうございました。


日記へもどる