”ゆりかまにあ”であるということの自己同一性の危機とその解決を考える


 劇場版機動戦艦ナデシコについて、ユリカ&アキトが可哀相だが、おおむね素晴らしい出来、という評価をうけているようです。私も”ゆりかまにあ”でなければ、おそらく同様の感想を抱いたことでしょう。

 しかしながら、実際はどうかというと、これがもう酷い意気消沈&絶望の極みです。他の”ゆりかまにあ”さんもおおむね同じような状況らしいです。

……確かにあの設定は痛いわ、いや本当に。「拉致後の処遇」さえ良ければなあ……とは思うのですが、決定的な証拠もない以上、肯定も否定もできないし。気になるのが、アキトのセリフ「ユリカがおとされた」……ああ、終わったな、という感じで、落ち込み傾向。

 さて、それ以上に問題なのは、艦長が酷い目にあったという「事実」を考えると、彼女のことを想う気持ちにかげりがでてきてしまう、ということです。今までのように、無邪気に「アキトは私の王子様」というセリフに萌えるということに、なんとなく不毛さを感じてしまうのです。このメカニズムを体験的に検討してみましょう。もちろん、原因は劇場版にあります。


 まず、劇場版を「認知」しなければならないという強迫観念があります。劇場版ナデシコを「ナデシコ」と認めたくないのに認めざるを得ないという葛藤です。

 テレビ版ではつねにナデシコを中心に描かれ、そしてそこでは艦長であるミスマルユリカが、その天真爛漫さを発揮していました。そして、ストーリーは、たとえ深刻な状況になったとしても、つねにどこか笑える要素があるというものでした。ところが、劇場版では、まずユリカはナデシコに乗っていないし、しゃべりもしないし、またストーリーもぜんぜん笑えるものではありませんでした。つまり、劇場版はその意味で「ナデシコ」と認めたくない代物であるにも関わらず、しかし認めることを強制させられてしまうというものです。

 また、艦長の境遇をテレビ版との連続で考えなければならないという、これまた強迫観念もあります。

 たとえば、SSゲームで艦長とラブラブになったり、天真爛漫だとか、脳天気だとか、吸い込まれそうな瞳、だとか言って愛したりしますよね(笑)。しかし、そういう風に惚れている艦長は、いずれ拉致されて、とても口に出せないことをされまくる、ということを「思い出す」と、さっきまでの熱が急に寒いものになってしまいます。おせっかいな偽善者は言うでしょう。本物の”ゆりかまにあ”ならば、テレビ版の艦長を敬愛するだけではだめで、拉致された後のユリカの状況をしっかりと心の中にとどめておかなければならない、と。つまり、文庫写真集「Yurica」やSSゲームをやることは、”ゆりかまにあ”にとって「現実逃避」にあたることだと。

 なんとも滅茶苦茶な感じですね。架空の世界から逃避した場合、そこは現実になるのでしょうか。現実よりも酷い「現実」にぶつかってしまったことの悲劇……これはもはや喜劇でしょう。しかしそうなると、「逃避する」ということは、架空の世界にいるユリカを棄てることになりますから、ここに”ゆりかまにあ”の自己同一性が危機にさらされるわけです。どう対処すればいいんでしょ?


ということで、解決法をいくつか考えてみました。

1.拉致後の酷い場面を自虐的に楽しんでしまう

……荒療治すぎますか、やはり(^^;;。まあ、今後の同人界の傾向いかんかな(笑)。
(でも、「劇場版」はネタとしてはかなりたくさん提供したような気がするけど……)

2.いっそ「逃避」してしまう

本来的に逃避ということは精神衛生の点で別に悪いことではないようです。で、いったん逃避して自分を見つめ直し、それでもユリカが好きだといえるようになったらオメデトウという感じでしょうか。でも、これでは当面の解決になりません。

3.自分の中で好きなような解釈をして、それを信じ込む

まだ具体的に何をされたという公式見解はでていません。ですから、自分さえごまかせられればいいのです。たとえば、他の人の「痛くない」小説を読むとか、自分で書いてしまうとか。さしあたっての解決法としては一番いいかもしれません。……しかしまあ、いつ真相を言われるかという不安が晴れないことになり、やっぱり何も解決になっていないのかも。

4.劇場版を無視する

一番明快。あれはルリルリストのための映画でパラレルワールドでの出来事であり、実際はユリカとアキトはらぶらぶの新婚生活を満喫中♪♪。「劇場版」は、ルリとアキトのバーチャルルームでのお話で、アキトが去った後、突然がめんが明るくなってVRが表れ「おもしろかったですね、アキトさん」ってルリが言うということです(笑)。

(10/24追加)
結果として、この解決法が一番いいみたいですね。というか、もっとはっきり言い切ってしまえば、「劇場版」は會川昇さんがストーリーに絡んでいない時点で正統ではありません。むしろSSのゲームが本来のその後でしょう。


「劇場版」におけるユリカの存在をどうとらえるかで結論は変わってくると思います。が、結局のところ、つきつめて考えると、この問題は「劇場版」そのものを認めるかどうかという、極めてセンシティブな領域に関わってくるものだと思います。ここではこれ以上触れませんが、ただ、「劇場版」の終わり方があまりにも幼稚な気がするので、まんま続編を作ることは不可能ではないかと思います。

そうは言っても、好きっていうのはロジックじゃないですから(笑)、私らしく、好きでいましょうよ。


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