「劇場版」の第二印象(セカンドインプレッション)


「ルリファンの、ルリファンによる、ルリファンのための劇場版」

 多少の揶揄が入ってはいるが、制作者の意図からそれほど遠くない気がする。第一印象では、ユリカとアキトの悲惨さだけが目についたため、アキトの話をルリの視点で見ていると感じた。しかし、それはユリカを視座に置くという前提にたった上でアキトを眺めた場合の話であって、別の立場、すなわち、ホシノルリを話の主体としてこれを構成し直せば、「アキトの話」という誤解がとけ、そして劇場版の正体がはっきりする。

 ストーリーを俯瞰して考えると、アキトの悲惨さ、それを知る者は、ルリであって、ユリカでない(はず。ラストシーンではアキトの味覚等の喪失を知っているようには見えなかった)。悲惨さを知って、反応したのはルリである。となれば、ユリカがアキトと同じように味覚などを喪失したのであればともかく、彼女の知らないところでアキトが感覚を喪失しようがしまいが、シナリオ的にはまったく無意味なだけである。つまり、この悲惨さは彼独自のものであり、ユリカとセットで語られるものではなかった。そして、前述のように、その悲惨さを唯一理解したのは、ルリである。とすれば、アキトの悲惨さという設定は、ただルリのため……アキトを想うルリのためだけに作られたもの、とこう解釈することができる。

 この「アキトを想うルリ」、これがこの映画の正体である。


 となると、ユリカのシナリオ上の居場所はどこなのだろうか?

 仮に、テレビ版の登場人物を正方形に模し、これを組み上げてストーリーの構成をするとする。すると、正方形ならばきちんと組み上がり、しかも安定している。ところが、劇場版は「成長」の名の下に、正方形を正5角形にしてしまった。もちろんのこと、五角形では綺麗に組み上がらない。では、この隙間を誰が埋めるのか……そう、ユリカである。

 もちろん、アキトの行動の原動力にはなっている。しかし、それはあくまで「象徴」としてのものであり、彼女が助けてと直接さけんでいるのではない。つまり、彼女を救出するという彼の行動は、ユリカをたすけなければならない、という規範に基づいているだけなのであって、しかも、その規範は自分で作り上げただけなのである。ここにユリカ本人の関与は、残念ながら、ない。彼女は夢を見させられ続けるだけである。ただの客体(オブジェ)……劇中で石像のようになっていたのは、そのメタファーかもしれない。

まして、彼は、ルリにユリカを救出してもらった後、去ってしまうのだから。

ここまでユリカが非道い扱いを受けるシナリオ上の必要はない。断言できる。ではなぜ非道な扱いを受けたのかといえば、やはりルリとアキトの物語を語る上でユリカが邪魔になった、ただそれだけではなかろうか。

 もちろん、文字通りユリカを破棄したということはないだろう。だが、言われなくても、当事者の態度でわかってしまう。宣伝、グッズ、劇中人物の口を借りた「電子の妖精」……ルリは全面的に愛されている。

ではユリカはどうか。パンフレットを見ればすぐにわかる。寝相が悪い、大食い、がさつ。「いつものボケ」。ルリはチャルメラを吹いてアキトの役に立っているが、ユリカは下手な歌を歌うだけ。

つまり、制作者の意図は”明記”されているのだ。「ユリカは、ルリとアキトにとって邪魔。だから、破棄させてもらう」と。


 結局、漠然と抱いていた「違和感」とは、”ゆりかまにあ”がユリカ嫌いが作った「お話」を見に行ってしまったことからくる疎外感と、好きなものが汚されていくのを無理に見させられたという絶望感からきているということがはっきりしてしまった。言い換えると、テレビ版が「不毛」なのではなくて、劇場版が不毛なのである。


(10/24追記)

上記の記述をすこし補足します。まず、ルリ自身にはなんら”罪”はありません。ルリがユリカを排斥して、アキトを手に入れるということは、おそらく考えられない。ルリとユリカはきっと両立するキャラクタだと思っています。したがって、ある意味、ルリもかわいそうなキャラクタだと思います。アキトが帰ってきても、その行き先はユリカなのであって、ルリではない。そして、彼を奪う気概もない。

アキトとユリカは心に思い十字架を負って生き続けなければならない。ルリはただひとり、思い出を背負って生き続けなければならない。

ルリも犠牲者なんです。


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