劇場版のアキトの境遇は現実よりも悲惨か?


いきなりですが、まず、アキトの劇場版設定を文字通りみてみます。

 ナデシコを降りた後、屋台ラーメン屋をはじめる。そのうちにユリカとの結婚を決意。彼女の父である御統コウイチロウをラーメンの味で納得させ、ようやく結婚。だが、新婚旅行中、「火星の継承者」に拉致されてしまい、ユリカと引き裂かれて生体実験の材料にされてしまう。その実験で味覚をはじめ感覚をほぼ失う。その後、ネルガルのシークレットサービスに救出されるも、ユリカの救出と復讐を誓い、ネルガルの協力のもと、ヒサゴプランにより建設されたコロニーを破壊していく。

 文字だけでも非常に重い設定だと思います。テレビ版の大団円は一体なんだったのだろうと思う後日談ですが、ここではその件にはふれません。ここでは、この重さをさらにさらに細かく分析して、嫌というくらいの”エグさ”をさらしてみましょう(笑)


1.アキトのアイデンティティーの獲得と、直後の喪失

「半端モノ」というのが、テレビ版アキトの、エリナ=ギンジョウ=ウォンからの評価でした。確かに、この言葉がテレビ版アキトのすべてを物語っていると思います。コックとしても中途半端なのに、パイロットもさせられてしまう。しかも、そのどちらの能力も専門には当然劣る。

 しかし、彼の本来の目指す道は料理人でした。白鳥ユキナをかくまうために戻った中華料理店では「10年早い。だが、100年早いヤツが大きい店構えている」という評価を受けて一応認められ、さらに、屋台ラーメンでの修行を経て、ユリカの父に認められます。料理の腕が彼のアイデンティティーならば、ここでようやくそれを手にしたことになります。つまり、自分は認められたのだ、ということです。

 ところが、その直後、「火星の継承者」の研究者の手によって、せっかく獲得したアイデンティティーを失うという不幸が彼を襲います。せっかく築き上げてきたモノ、しかも、テンカワ=アキトがテンカワ=アキトであるために必要な能力である味覚を失ってしまうのです。しかも、自分の過失でなしに。

2.愛する人との結婚と、直後の別離

「アキトはユリカが大好き」という無権代理行為と「ユリカはアキトが好き」という追認ではじめから有効なものとなった最終回(すいません、民法ギャグです(謎))。その後、おしかけ女房のような形でしたが、二人は同棲をはじめ、愛を深めあっていきました。そして、昼下がりの土手でのプロポーズ、ラーメン対決を経て、二人はようやく結ばれます。生活も仕事もこれから順風満帆という矢先に、不幸な事件でふたりは引き裂かれてしまいます。


 単に二人が引き裂かれただけなら、再会した後に遅くなった新婚生活をおくればいい。しかし、それさえも許さない設定……ひどい、ひどすぎる。私は、墓場でルリに味覚を失ったことを告白するシーンで、何杯でもご飯がたべられ……るのではなく、いくらでも泣けます。そこまで激しなくとも、テレビ版を見ていて、アキトに対して少しでも気持ちを寄せていた人なら、少なからずの怒りや悲しみを経験したことと思います。

 別の例をあげましょう。たとえば、「るろうに剣心」でたとえると、剣心と薫が結ばれた後、直後に敵の手に落ちて薫は人体実験の材料に、剣心は利き腕をもがれてしまうとでもなりましょうか[しゃれになってないな、これ(10/24追記)]。また、「新世紀エヴァンゲリオン」でたとえると、アスカとシンジが結ばれた後(劇場版では不可能でしたが、よく同人でみますね)、二人ともゼーレの手におちて、シンジはエヴァンゲリオンのコアにされ、アスカはふたたび精神崩壊させられる、ということです。


 以上、見てきたように、劇場版の設定を、単に味覚とユリカ(艦長を味覚と同列に並べるのは大問題ですが、ここではお許しいただいて)をなくしただけと考えられては、足りないのです。それだけなら、取り戻しさえすれば、またはその可能性が示されれば、そこで終わってしまう。そんなに軽薄な悲惨さではないのです。


 しかしながら、と、敢えてこれらを批判的に考えてみます。確かに悲惨ではある。しかし、現実と比べるとどうか。ここで、フィクションを現実と照らし合わせるのは不毛だ、というお怒りの声が上がるのはもっともですが、しばらくおつきあいください。私が言いたいのは、「現実にはもっと悲惨な例がある」ということではないのです。


 私は視野が狭いので競馬の騎手の例をあげます。田原成貴という、現在は調教師をしている人がいます。近年ではマヤノトップガンやフラワーパーク、ちょっと前だとトーカイテイオーという名馬の騎手であったということでご存じの方も多いと思います。現在でこそ武豊騎手こそが天才であるとされていますが、田原騎手もデビューして初騎乗初勝利、翌年から二年連続関西リーディング(勝ち数が一位)と獲得するなど、当時の「天才」はこの人のことをさしていたようです。

 ところが、あるレースで、彼は落馬し、後続の馬に蹴られて腎臓を失ってしまいます。普通の人ならともかく、プロスポーツ選手にとって、この怪我は致命的ですらあり、引退の危機がささやかれました(素行が良くないというのが記者の反感を買っていたということもありましたが)。しかし、彼は半年後、カムバックします。そして、カムバックの翌年、マックスビューティーという馬で牝馬二冠を達成するのです。

 獲得したアイデンティティの喪失という点で別の例をあげます。岡潤一郎という騎手がいました。いました、というのは、彼は既に雲の上でリーディングを争っているからです。若手のジョッキーでしたが、ようやくG1を獲得し、これからというときに、落馬して還らぬ人となってしまいました。

 結婚した直後の別離の例は枚挙にいとまがありません。近年の衝撃的な事件ですと、エジプト・ルクソールで観光客がゲリラに襲われた事件があります。その事件に日本人の新婚旅行の夫婦が巻き込まれ、夫は目を打ち抜かれて半身不随、妻も何発も銃弾を浴び去られて亡くなりました。また、例としては少しずれますが、結婚式場に向かう新婦が車で人をはねてしまったのですが、その被害者はこともあろうか新郎であったという泣くに泣けない事件もあります。


 つきつめていくと、劇場版のアキトの設定は、確かに悲惨な状況であるし、それをみた観客が同情するのもあたりまえではあるが、しかし、そのことがきわめて「異常」ということではない。よくある、とまではいかなくとも、そういうことは事実としてありうる。それをわざわざアニメで、しかもよりによって「あの」ナデシコで見せなくても、とは思うけれども。まして、愛するユリカは救出されたし、味覚等の喪失も解決の道筋がないこともない。したかって、アキトの場合、幸せな部類に入りそうである。このように言うことができそうです。


 もちろん、こう考えても、アキトの状況が悲惨であるということに、何らかわるところはないでしょう。他の人の例をいくらあげたところで、彼の状況は彼自身が背負うものなのだから。そう考えると、これから先、アキトが進むであろう道というものが、おぼろげながら見えてくる気がします。それは「再起」。復讐という「宿題」を片づけた後、彼は料理人としての道をもう一度めざすのではないでしょうか。希望的展望ではありますが、そう考えないとあまりにも救いがないではないですか。そして、その上で、もう一度ユリカと……というのは、私の”ゆりかまにあ”としての希望そのものです。


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