天河アキトに気持ちを重ねる理由、または”闘うゆりかまにあ”宣言


 どうしてこんなにもアキトに気持ちを重ねてしまうのだろう……?

 劇場版のストーリーを解釈するとき、私はアキトの視点をとる。逆に言えば、ルリの視点……ルリの感情、行動原理などを理解していない。アキトの行動とそれに対するルリのリアクション、このような関係に立ったストーリー展開をしていない以上、それは不要だと思うからだ。

 話を戻す。確かにアキトの境遇は不幸だ。しかし、だからといって、そのことが単純な感情移入……かつての「おしん」や「ミツバチハッチ」のような、可愛そうだから同情するということを意味しない。まして、”ゆりかまにあ”である自分が同情するのは、第一義的にミスマル=ユリカその人のはずなのであって、その副次的な存在であるアキトにここまで心理的にコミットする理由、それを単純な感情移入ということで片づけることはできない。

 それなのに、なぜアキトにここまで強く惹かれるのだろう……?

 私は思う。彼は、”ゆりかまにあ”の気持ちを代弁しているからではないだろうか。

 不条理な出来事でユリカを取り上げられたアキト。それはまさに、”ゆりかまにあ”が制作者からユリカを取り上げられたのと酷似している。制作者は新しいナデシコ世界の中心にルリをすえ、ユリカを破棄した。見せしめに生体ユニットという”化け物”に仕立て上げた。

 だが……いや、それだからこそ、アキトは立ち向かう。不条理な状況。変えることのできないオフィシャルな「設定」……これを覆すため、アキトは闘っている。その姿に、私は心を震わせ、涙を流すのかもしれない。

 アキトは闘った。だから私も闘わなければならない。劇場版ナデシコが「綺麗で迫力のある映像と、テンポよくすすむストーリー。数奇な運命とたどる青年と、それを見守る少女の物語」という評価で落ち着かせないために、その評価の影にミスマルユリカという犠牲になったキャラクターがいたということを絶対に忘れさせないために。


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