1 year after


 

 

夢を見た。

どういうわけか映画館にいて、劇場版を見ているのである。

ブラックサレナがコロニーを攻撃しているシーンが映った。そこで、新作パートだろうか、攻撃を受けて死んでいく兵士たちの姿が映った。

彼らは、かつての上司であったミスマルユリカのことを思い出しながら死んでいった。ユリカの笑顔2つ。そのあとに、コロニーは爆発した。

敬愛する上司、その愛する男に殺されなければならないというおぞましさに、私はぞっとした。

スクリーンは、ユリカとアキトの同棲生活が映し出されていた。そこでは、ユリカとアキトがきちんと会話をしていて、特に、ユリカの幸せそうな声は、ユリカ役の桑島法子にして最高の冴えを見せていて、まさに珠玉の出来だった。

だが、ストーリーは、唐突にその後のシーンへと続いていった。その後のシーンが何だったか、今となっては思い出せないが、ともかくも、ストーリーの流れを中断していて、良い構成とは思えなかった。


劇場版にユリカを絡めることはできるのか。拙作小説"NADESICO the MOVIE REMIXED"で、ユリカが生きているという前提において、その命題を私なりに解決してみた。

だが、劇場版をそのままに、ユリカを絡ませることはできるだろうか。言い換えるなら、劇場版において、ユリカの「居場所」はあったのだろうか、ということである。もし「居場所」が存在するなら、絡めなかった制作者の怠慢(良く言えば、「演出意図」)を疑うし、存在しないなら、ユリカを「破棄」したことを断罪する。

私は、夢を見た。その夢は、あの劇場版をそのままに、ユリカを絡めることは不可能であることを、そして、劇場版におけるユリカの「存在」を許容しないことを、はからずも証明したことになっていたのだった。


私は目を覚ました。

そして、悔しくて、私は泣いた。

 

 

ナデシコが下火だと言う。

確かにそうかも知れない。しかし、それがどうしたというのだろう。

「ナデシコファンとはルリファンをさす」という一般的な見解に従えば、ナデシコが下火ということは、ルリが下火であるということを指す。

ナデシコファンの8割がルリファンだと仮定する。ナデシコファンが1000単位、そのうちの800単位がルリファンという前提で、ナデシコファンが半減したとなると、500単位減少する計算になる。その500単位をどこから持ってくるか?当然、ルリファンのもつ800単位から大部分を減らすことになる。

だが、繰り返すが、それがどうしたというのだろう。自分が好きであるなら、それは他者の動向に関係なく、好きなはずである。そして、それは他者への寛容を要求する。ファンをやめるという事情に対して、自分の主観にもとづいて、ファンであることを強要してはならないのである。

劇場版をみてルリファンになったという人は多い。だが、劇場版を見てユリカファンになったという人は、おそらく稀有ではないだろうか。先述の通り、劇場版においてユリカの存在は”破棄”されたのだから、それでもなおユリカファンでいようとする人々……私も含めて……は、その意味で、劇場版という”通過儀礼”を乗り越えてきたのである。しかも、時の経過による風化、ではなく、制作者による強制的な排除を超えて。

だからこそ、ユリカファンは強い。もはやユリカがナデシコ内世界に現れないと「宣告」されても、それでもなお”私らしく”ファンでいられるのである。

しかしながら、果たして本当に下火と言えるのであろうか。ドリームキャストのゲーム、ルリのCD、劇場版のVT・LD・DVD、1000%コレクションにナデ遊3・4など、これからもグッズは続く。「ルリの存在を感じないから下火」というのなら、これで気持ちを慰めてもらいたい。出るだけまし、である。出るうちが華という言葉もあるが。


だが、それよりも問題なのは、テレビ版でのファンと劇場版からのファンとの断絶である。1+1=2のはずが、1+1={1、0.95、0.05}に分かれているのが現状である。

そもそも、テレビ版と劇場版の断絶はあるのか?

この答えは、テレビ版放映時から連綿と刊行されてきたナデシコ同人誌アンソロジーが、劇場版あたりを境にぷっつり絶えてしまったことが、これを証明していると思う。テレビ版が好きで同人活動をしてきた人が、劇場版以降はなれてしまったことが、おそらくその原因だろう。

裏にシリアスなものが流れていながらも、お気楽SFアニメとしての体裁を保っていたテレビ版に対し、劇場版はお気楽にもシリアスにも徹しきれなかった。シリアスな裏設定は存在した。だが、それをお気楽に済ませられなかった。ユリカとアキトがとんでもないことになってしまったという設定に対し、仮に。ルリがまったく関係なく話を進める……つまり「あとは二人で勝手にやってくれ」的な態度で臨んでくれれば、また違った印象であったかもしれない。だから、あるテレビ版同人誌作家からはこう言われてしまうのである。「ぬるい」、と。

もちろん、皆が皆そうであるとが限らないし、そうであって欲しいというのも正直な気持ちである。しかし、現在の状況を見ると、完全に劇場版以降からファンになった人が支えている。テレビ版のファンは、テレビ版の残照を追って作品を作っている。しかし、両者が動かすキャラクタは、同じ人物なのである。

これを断絶と言わずして何と言おうか。


1年前、「傑作選」を見てユリカの瞳に捉えられ、かつて存在したであろうナデシコ系ページを検索して歩いた。当時、放映終了して1年も経過してこともあってか、活動を休止したページがほとんどだった。

そして、劇場版から1年たった。私はまだかつての「熱さ」を知らない。


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