”ゆりかまにあ”的劇場版機動戦艦ナデシコ評論(前説)


「虜の姫様を助けにいく話」

 劇場版機動戦艦ナデシコ(以下、劇場版)のストーリーを一言でいえばこうなる。テンカワアキトが、「火星の継承者」に囚われているミスマルユリカを救出するというプロットがまずあり、それを、劇場版の「主人公」であるホシノルリが協力しつつも傍観者的態度で見守るというのが劇場版の本筋である。となれば、「虜の姫様」であるユリカと「助けにいく」アキトとの精神的つながり……これをここで「愛」と呼んでおく……がストーリーの組立の根幹をなしていると言える。端的に言えば「アキトとユリカの愛の物語(注1)」、これが劇場版の基本的な構造である、ということが想像に難くない。

注1:この表現は、テレビ版は「ユリカとアキトの恋の成就」を基本構造とする、という自説に対応するものである。

 そして、ユリカは救出された。お姫様の救出は果たされた。しかし、アキトはどこかへ去ってしまう。もはや自分はユリカの愛した自分ではない。だから、姿を消す。これも一つの愛の形だろう。したがって、「ユリカとアキトの愛の物語」という構造はここでも維持されるはずである。

 したがって、”ゆりかまにあ”としては、確かに「火星の後継者」に非道な目にあわされたという怒りや、アキトが去ってしまったという喪失感を感じるにせよ、結局のところ、ユリカは生きているのだから、めでたしめでたしという心情になるのが、その論理的帰結のはずなのである。ホシノルリが主役、かつ宣伝媒体では彼女は出ずっぱりだったが、実は「アキトとユリカ」の話だったぞ、えっへん!という、爽快感を感じるひとがいてもおかしくなかったのである。ところが……

 ところが、現実にはそうはならなかった。私に限って言えば、劇場版が終わった後、ただただ呆然としてしまい、そして怒りや悲しみがごっちゃになったような感情が同時に襲いかかり、精神的に深い絶望を挫折感を味わったのである。

 これは一体どうしてだろうか。

 もちろん、感情は理性の産物ではないから、たまたまそう感じたというのなら、それ以上なにも言うことはない。しかしながら、”ゆりかまにあ”でない人、つまりルリファンや一般の人はそこまでショックを受けてないということと対比して考えると、絶望感や挫折感は”ゆりかまにあ”特有な反応であるのかもしれない。

 よって、以下はその感情の原因を考察していく。そして、それをもって、私の劇場版への評論としたい。


「劇場版」目次に戻る

Indexに戻る