序章


 

 秩父山中はひんやりとした空気につつまれていた。

 梅雨の谷間の晴れ間に初夏の太陽が照りつけ、湿気が身体にまとわりつくような不快感がただよう中、そこだけは冷厳とした空気を保っていた。

 広大な墓場……

 喪服を着た初老の男と若い女が、巨大な墓石の前にいた。

 初老の男は墓の前でしゃがみ、目をつぶって合掌をしている。恰幅はいいが、髪のところどころに白髪がのぞく。

 初老の男から3歩ほど下がった後ろに、長い黒髪の女が、白百合の花束を持って立っていた。バイザーのような黒いサングラス、そのせいで、その表情をうかがい知ることはできない。胸には蒼く輝く貴石のペンダントを下げていた。

 ……初老の男が目を開けた。そこには、彼の息子ぐらいの年齢の若い男の遺影があった。

「……アキト君、今日はユリカも連れてきたんだよ」

 男は合掌を解き、立ち上がった。

「さあ、ユリカ。おまえも……んっ?!」

 振り向くと、女は震えていた。

 はぁはぁ、と、両の肩で息をしている。

 そして、ガサガサという音。それは、白百合の花束、その花弁が揺さぶられて躍っている音だった。

 白百合を持つ右の拳、そこに段々に力がこめられていくのが見てとれた。

「ユリカ……」

 パキッ、パキッという音が続く。手の中で花茎が握りつぶされていく。

 やがて白百合の花が折れ、そこから流れ出す緑色の血に、その手は染まっていく……。

「ユリカ!」

 初老の男は女の肩を揺すった。

 はっとして、女はバイザーの向こうの目をかっと見開き、びくっと身体を跳ねさせた。そして、我に返ると、無惨に折れてしまった白百合の花束をもったまま、痛々しいまでにうつむく。

「……ごめんなさい、お父さま。わたし……」

 初老の男は、慈愛に満ちた表情を向け、彼女の肩を抱いた。

「行こう。無理を言って連れてきた父さんが悪かった」

 天河ユリカはゆっくり頷いた。そして握りつぶした花束をそのままその腕に抱え、父である御統コウイチロウに付き添われ、最愛の人である天河アキトの眠る墓を辞した。


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