第二章 4’ "the second person mix"
私は家に帰った。
『天河アキト ユリカ』という表札のかかった私の「家」……。
ドアを開けて、ただいま、と声をかける。誰もいないはずの暗闇の向こうに。
部屋に入り、私はシャワーを浴びる準備をはじめた。
シャワーを浴び終わった後、私は寝室でパジャマに着替えた。
自分の身体よりも一回り大きいカーキ色のパジャマに腕を通し、ボタンをかけようと両手を胸の前に伸ばす。
でも、ボタンがうまくかからない。
おかしいなと感じて手許を見て、そのことに気づいて、左前にボタンをかけていった。
布団に入り、私は窓際の方を見やった。
古ぼけた木製の長机と、くたびれた座椅子を。
☆
「ただいまぁ」
両手に紙袋を提げた私が障子を開ける。
あなたは、座椅子に座って机に向かっていた。
「ただいま、アキトぉ」
「ただいまって、ここはお前の部屋じゃないだろ」
呆れた顔をしてあなたが振り返る。
「まあまあ……って、アキトぉ、今日どこにも出かけてないの?」
「ああ」
再び机に向かい、ぶっきらぼうにあなたが答える。
きょとんとして、私は尋ねた。
「雪谷のおじさまのお店、今日はお休みだよねぇ」
「ああ」
「なんで?」
「休みだからって……俺にはやることがあるの」
ふうんと私はつぶやき、そして、そっとあなたの背後に近づいて、肩越しから興味津々にそれをのぞき込んだ。
あなたはレシピをノートにまとめていた。
「……もしかして、それをずうっとまとめてたの?」
「そうだよ……あっちに行っててくれ。気が……散るから」
あなたは困った顔を私に向ける。
むっとして私はあなたのそばを離れ、部屋の真ん中にある丸いテーブルのそばに座布団を敷いて座った。
「ねえ、アキトぉ」
「なんだ?」
「ご飯、まだ?」
「……食堂で食べてくればいいだろう」
「ええっ、だぁってぇ……アキトのご飯、おいしいから」
あなたは耳を赤くして、そのまま黙り込んでしまった。
サクサクという鉛筆が紙をこする音が続く。
「そうそう、アキトぉ、今日はお買い物行ってきたんだよ」
ガザガザと音を立てて、私はデパートの紙袋をあさった。
「……せっかくの外出許可日だから、服とか買ってきたんだぁ……」
しばらくして紙包みを見つけてとりだし、そしてそれを開けて、中から白いワンピースを取り出した。
「ほらほら、見て、アキトぉ。もうすぐ夏になるから、夏の服を買ってきたんだよ」
私は服の肩の部分をもって広げてみせた。
でも、あなたは振り向こうとすらしなかった。
私は頬をふくらませた。けれど、すぐに気を取り直して再び紙袋をあさり、そして別の紙包みを取り出した。
「そうそう、新しい水着まで買ってきちゃった。セパレートでね、パレオもついててかわいいんだから……」
そう言いながら、私は水着の胸の部分をとりだして、あなたの背後にひざ立ちで迫った。
「ねえ、アキトぉ、見てよ。ほらほら……」
「もう! 気が散るって言っただろう!」
振り向きざま、あなたは私に怒鳴った。
途端に、私の瞳に涙が浮かんできた。
「そんなぁ……アキトがきっと気に入ってくれると思って買ってきたのに……ひどいよぉ……」
しゅんとして肩をおとし、私はうつむいて何度もしゃくり上げた。
すると、あなたは身体の向きをかえて、そっと私の肩に手を置いてくれた。
「あ……その……ごめんな」
顔を上げると、そこには、バツの悪そうな、困惑したあなたの顔があった。
「その……おれ、他のことに頭、回らなくてさ……その……もうちょっと待っててくれ。そうしたら、ご飯つくるから、さ」
うん、と私は泣き顔に笑顔を作って大きく頷いた。
……それから20分くらいして、テーブルに私とあなたの晩御飯が並んだ。
いただきまーす、と私が胸の前で手を合わせて言い、そしておみそ汁のお椀を取ってすすった。
「……おだし変えたの?」
「お、よくわかったな……ちょっと煮干しの量を減らしてみた」
「ふうん……前の方がいいかな……」
ぐっとあなたは、その容赦ない私の言葉に絶句したみたいだった。私は笑った。
それから私とあなたはしばらく黙ってご飯を食べた。
「……おかわり」
私が空いたお茶碗を差し出す。
あなたは呆れた顔をした。
「太るぞ、お前……」
「だって、すごくおいしいから……あ、おみそ汁もおかわりね」
「はいはい」
私はあなたからお茶碗をうけとり、それと引き替えにあなたにおみそ汁のお椀を渡した。
「でもね、アキトぉ。最近、アキト、料理の腕、すごく上がってる気がする」
「ああ……ここにいると、料理の修行がはかどるからな。はい」
私はお椀をうけとり、それをすすってから聞いてみた。
「ここを出たら、アキトはどうするの?」
あなたはお茶碗を片手に思案顔になった。
「そうだな……どこかで修行させてもらうか、それとも……ラーメンの屋台でも曳くかな」
「ラーメン屋さんになるんだね」
笑顔で私は頷いた。
「お前はどうするんだよ……」
「わたし? わたしはもちろんアキトについていくよ」
「バカ」
「バカじゃないよ」
「お前は、軍に残るんじゃないのか?」
私はちょっと首を傾げる。
「うーんと……じゃあ」
そして、あなたに向き直って言う。
「軍に残って、アキトを手伝うよ」
あなたは、はあ、とため息をついた。
「そんなことできるかよ」
「できるよ」
「できない」
「できるぅ」
私は、あなたをじいっとにらんだ。
すると、あなたはふっと笑った。
「……戦争、はやく終わるといいな」
「うん! そうだね、早く終わるといいね」
私はまた、あなたに微笑みかけた。
☆
「もう寝ようよぉ、アキト」
カーキ色のあなたのパジャマを着て、私は布団にくるまっている。そして、ひとり分を隔てたその向こうには、ルリちゃんが静かな寝息を立てていた。
あなたは、壊れそうな電気スタンドの黄色い灯りをつけて、机に向かってレシピをまとめていた。
「先に寝てろよ」
「ううん、起きてるよ」
「……ったく、明日も、寝坊したらどうするんだよ」
「またタクシーで行くから、大丈夫」
すると、あなたは呆れたのか、それ以上なにも言わなかった。
「今日は、お客さん、来た?」
「雨だったからな……二人だけ」
その口調の端に、私はあなたの強がりを感じた気がした。
「……明日は、きっとたくさん来るよ」
「……ありがとう」
ざあっという強い雨の音が窓の外から聞こえてくる。
私はじいっとあなたの背中を見つめた。
「……ユリカ」
不意にあなたが言った。
「ルリちゃん、やっぱり『家』に帰そう」
それを聞いて、私はむくれた。
「だめだよ。あんな『家』にいたら、ルリちゃん、おかしくなっちゃうよ」
あなたは真剣な顔をしてわたしに振り返った。
「落ち着いて考えてみろよ。こんな貧乏なところにいて、ほんとうにルリちゃんは幸せなのか?」
私は答えに困り、視線をあなたからそらせた。
「お前の家にいれば、きちんといいものは食える、いい服は着れる、広い部屋にベッド。いうことないじゃないか」
「でも……」
私が何かを言い返そうと顔を上げると、あなたはふっと微笑んだ。
「別に、俺、怒鳴られるのとか、殴られるのとか、そんなの、ぜんぜん慣れてるからさ……明日、一緒に行こう」
「……いやです」
それは意外な声だった。
「ルリちゃん……」
私はあなたの視線を追いかけた。
ルリちゃんは起きていた。
「確かに生活水準は艦長の家の方が上です。ですが、艦長が家に戻らなければ、私はひとりです。そんなのは、いやです」
ルリちゃんは真剣な口調で言った。
「三日間、天河さん、艦長、お二人と一緒に生活して、わかりました。……家族ってこういうものなんですね」
そしてルリちゃんが、私とあなたに笑顔を見せる。
「家族というのは、たとえ貧しくても、それをお互いに助け合うことで生活するものだと、思兼に聞きました。ですから、私も……家族に入れてください。お願いします」
「……ルリちゃん」
あなたは立ち上がってルリちゃんと向かい合わせに座り、そっとその頭を撫でた。
「家族は、天河さんとか艦長とか、そんな他人行儀な呼び方をしないよ」
「じゃあ、何と呼べばいいのですか?」
「アキト」
「アキト……さん」
じゃあ、と私はあなたの脇に寄る。
「私のことは、ユリカね」
「ユリカさん」
私はその言葉に頷いた。
「ありがとうございます」
「ごめんね、起こしちゃって……お休み、ルリちゃん」
「はい……アキトさんも、早くお休みになってください。ユリカさん、心配してます」
バツの悪い顔をして、あなたは頭をかいた。隣でくすっと私が笑う。
「わかったよ。あとちょっとで終わるから、もう少しだけね」
ルリちゃんはうなずいて、おやすみなさい、と言い、再び背を向けた。
そしてすぐに、安らかな寝息が聞こえてきた。
「……アキト」
ん?と、あなたに問い返す時間をあげないで、あなたの唇を私の唇でふさぐ。
「……アキト、すごく頼もしく見えたよ」
「あ……まあ、ルリちゃん、ここにいたいって言ってくれて、本当はすごく嬉しいんだよな、俺」
あなたは顔を真っ赤にして言う。私は微笑んだ。
「家族は多い方がいいよ、うん」
「そうだな……」
はは、とあなたは笑い、そして立ち上がって再び机に向かった。
「それじゃ、私も寝るよ」
「ああ、おやすみ」
「おやすみ」
私は、机に向かうあなたの背中をまたじっとみつめ、そして襲ってきた睡魔に身を委ねた。
☆
「もう大丈夫だよ、アキト」
私はあなたが心配だった。
机に向かう、かなり焦った様子でレシピを見ているあなたが。
「……だめだ」
「アキトなら、いつも通りやれば、きっと勝てるよ」
持ってきたお茶をあなたの邪魔にならないようにそっと置く。
「いや……なにか、なにかが足りないんだ……これじゃ、お前の親父さん、納得させられない……」
「そんなことないよ、大丈夫だよ。それよりも、早く寝ないと。そっちのほうが心配だよ」
「だめなんだよ。どうしても負けられないんだ。ここで負けたら……俺は……」
……私は、あなたの頭をその胸にそっと優しく抱いた。
「ユリカ……」
「アキトならできるよ。私はアキトのこと、信じてる」
そして、あなたの頭を少し強く抱きしめた。
「アキトは私の王子様……だから、今度もきっと大丈夫……アキトはアキトらしく、それでいいと思うよ」
「ユリカ……」
あなたは私の胸に顔を埋めた。私はそれを愛おしく見つめ、その頭を優しく撫でた。
「俺……きっと、恐いんだな」
「お父さまが?」
「ちがう……自分に負けるのが」
私は、あなたの頭を撫で続けた。
「本当にこれでいいのか、って考えたら……いいのかどうか、わからない。だから……やっぱり恐いよ。勝負とか結婚とか、そういうことじゃなく、俺自身、これでいいのかって考えたら……」
「私は、今のアキトが好きだよ」
「ありがとう……でも……俺……」
私はあなたから身体をはなし、そして顔を近づけて、そっとキスをした。
「……おまじない」
あなたは当惑した顔を私に見せた。
私はできる限りの笑顔を、あなたに見せる。
「これでアキトは勝てるよ。私が勝てるって言ったら、勝てるよ。」
そして、あなたの身体に腕をまわす。
「信じてるから。きっと……きっと……」
あなたは、私の身体を抱きしめた。
「……落ち着いたよ。ありがとう。俺、明日、絶対に勝つよ」
「うん……」
そのまま、私はもたれてくるあなたに身体を預けた。
☆
「……寒いな」
私はじっと座椅子を見つめていた。
でも、あなたは、もうそこにはいない。
「……おやすみ」
私はリモコンのスイッチに手を伸ばし、部屋の灯りを消した。