第4章
4’
ナデシコcが火星にボソンアウトすること25分前……。
ネルガルの月基地のドックで、エリナはひとりたたずんでいた。
眼下に見える艦……ユーチャリス。この区画は、ネルガルの研究員のごく一部にしか知られていない。
背後から、カツンカツンという足音が近づいてきた。
振り向くと、そこには黒いマントに身を包んだ男と、そして、白い服を着た少女が彼にしがみつくように立っていた。
「……終わった」
男はそれだけ言った。バイザーのせいで、その奥の表情は見えない。
「おつかれさま」
そして身体を反転させ、二人に向き直る。
「ごめんなさいね、急な出撃させちゃって」
悪びれるでもなく、男に言う。
「いいんだ……ウォーミングアップにはなった」
「そう……エネルギー充填には5分ぐらいかかるわ」
そして、エリナは唇を歪めた。
「ナデシコcが索敵網から姿を消したそうよ」
「そうか……」
沈黙が包む。
エリナが、男のバイザーの奥の瞳を見据えた。
「どうしても行くの?」
「ああ……」
ぶっきらぼうに男は返答し、そして付け加えた。
「……もし、俺が死んだら、部屋のものは全部処分してくれ」
エリナの視線が男の顔を撫でた。
「……いいの?」
「かまわない……いや、一つだけ」
思い出したように男は言った。
「あの写真……あいつに返しておいてくれないか。あれはあいつのだ……俺のじゃない」
すると、エリナは意地悪な笑みを浮かべた。
「そうね……じゃあ、いっそ全部返しておきましょうか?」
男は無言で応えた。
「ふふふ、嘘よ……でも、一つだけ? 指輪はどうしたの?」
「指輪……」
男はそうつぶやくと懐に手を入れ、ややあって手を出した。
銀色の指輪……。
それをじっと見つめる。
「……アキト、ユビワ、ダレノ?」
すると、隣にいた少女が口を開いた。
およそ感情の発露とも言うべき抑揚のない、か細い声。
「ユリカのだ」
エリナに向けるそれとは違う、穏やかで包み込むような優しい口調で答える。
「ユリカ……ユリカハ、アキトノ、アイシテイルヒト。アイタイケド、アエナイヒト」
まるで呪文を唱えるかのように、少女は言う。
「……お守りに持っていくよ」
穏やかな笑みを少女に向け、男は再び指輪を懐にしまった。
「……それで、聞きたいことがあるの」
二人のやりとりを見届けた上で、エリナが再び口を開いた。
男が視線を戻す。
「なんだ?」
「あなた……復讐おわったら、どうするの?」
エリナは腕組みをして男に対峙した。その表情は硬かったが、好奇の色が見え隠れし、真摯に心配しているとは言い難いものだった。
男は、少女の肩に手をやった。
「……この子に、普通の女の子としての生活をあげてくれ」
……あなたは?、とは、エリナは聞けなかった。
表情を非難のそれに変えて、エリナは言った。
「……今更そんなこと言いだすなら本気で怒るわよ。言っておくけど、あなた、死んだことになってるのよ」
男が視線を下げた。沈鬱と言っていい表情だった。
エリナが表情を和らげる。
「……後戻りできないのは、私たちも一緒よ」
「……ありがとう」
エリナはおどけたように肩をすくめた。
「まあ、それはいいとして、ひとつ謝らないといけないことがあるの」
「なんだ?」
「ブラックサレナに搭載するcc(チューリップクリスタル)のこと。不詰まりが出てね、質が悪いのよ。ユーチャリスのエネルギー供給領域から離脱している場合、ボソンジャンプフィールド形成に3分ぐらいかかるわよ」
バイザーの向こうの男の顔がやや険しくなる。
「なぜだ?」
「……説明しましょう」
すると、廊下の奥から、また別の女の声がした。
白衣を着た金髪の女……イネスフレサンジュだった。
「”火星の後継者”に火星を押さえられちゃったから、今までは不良ccってことで捨てていたものccも利用して、なんとかccをかき集めている状況なの。わずかに残っていた良質のccは、全部ナデシコがもってっちゃったわ」
ふう、と男はため息をついた。
「……わかった。3分もあれば充分だろう」
「そうね……それにもう一つあるわ」
そう言うイネスの瞳には、微かに蔑みの色があった。
「あなた、逃げるつもりね」
「逃げる……?」
「ええ、そう。……説明してあげましょうか、あなたの考えていること。あなた、もう艦長のところに帰らないんでしょう。自分はもう役に立たない人間だし、艦長に負担になるだけだから、帰っても仕方ない。ひとりで世捨て人として生きようってね。そうやって何でも自分一人で抱え込んで……でも、それはただの独りよがりね、しかも、かなり悪性の」
イネスの瞳が、悪意の狂気を帯びはじめた。
「自分の作り出した世界の中で、自虐的に生きている。あなたはそういう自分に酔っているだけ……他人を信じられない。なぜかというと、他人に対して臆病だから。結局、他人のことを考えているそぶりを見せているだけで、実は自分ことしか考えてない。あなたを失ったまま生き続けなければならない人のことを何も考えてないし、あなたを愛しているひとを置き去りにして……」
その時、薄桃色の髪の少女が、イネスの前にたちはだかった。
イネスは非難の言葉を止め、興味深げに唇を歪めた。
そして、ふうっと自嘲のため息をつく。
「……あとは帰ってきたらにしましょう」
男は少女の肩に手を置いた。少女はイネスから視線を外さずに、また元の場所にもどった。
「……準備、できたようよ」
エリナが声をかける。
男は振り返った。エリナの前に歩み寄り、バイザーを外す。
穏やかな瞳があらわれる。
「エリナさん、色々とありがとう」
「あら……私は何もしてないわ……って、今日2度目よ、このセリフ」
そのセリフに、男は無言でバイザーをかけた。
イネスに向き直る。
「アキトくん、命を粗末にしちゃだめよ。帰ってきたら、いいものあげるわ」
「わかった……」
男は白衣の女の横を抜け、少女と共に、廊下の奥へと消えていった……。
イネスはふうとため息をつくと、エリナと肩を並べた。
エリナは皮肉めいた視線を向ける。
「……あなた、地球で、かなりアキト君に言われたんじゃない?」
その言葉に、イネスは天井を仰ぐ。
「そうね……アキト君が帰ってくる時間が12時頃だっていうから、のんびりと研究所でコーヒーを飲んでたんだけど……まさか、研究所にボソンジャンプしてくるとはね」
肩をすくめ、ため息をつくイネス。
それに対して、完全に楽しむ様子でエリナはさらに問いかけた。
「それで、彼の反応は?」
「もの凄くあわてふためいてね……ふふ、あんな格好をして、あんなしゃべりかたをしているけど、前と少しも変わってないわ」
「ま、死んだはずの人間が目の前にいればね」
「それは彼も同じでしょう……それで、落ち着いた後、私に言ったわ」
「なんて?」
「去年と今年の花束とオレンジグミを返せって……顔を真緑にして、抗議してたわ」
その軽口をそのまま聞き過ごしかけ、ふとエリナはやや顔を険しくした。
「あなた、それ、シャレになってないわよ」
「近い将来、シャレで済むようになるわよ」
悪びれることなく、思わせぶりな表情でイネスは言い放った。
エリナの顔が、不審と期待の塊に変わった。
「あなた、それって……」
そう突っかかるエリナの目の前に、イネスは懐から取り出した紙の束を突きつけた。
表紙の太ゴシック体の文字を目で追う。
「ナノマシン除去及び神経束細胞再建……これって」
エリナがイネスを見る。イネスはとぼけた表情をしていた。
「元木連の科学者はさすがに律儀ね。どこに何をやったのか、ぜんぶカルテに残しているんだから」
そして、エリナに向き直る
「アキトくんの感覚が戻らないのはなぜか。それは脳に寄生するナノマシンがつくる補助脳が本来の脳を圧迫しているから。そして、その箇所が断定できないかぎり、それを取り除くのは困難、手の施しようがなかった。では、その場所が特定できたとしたら?」
その意をくみとって、エリナは目を見開いた。
「艦長がアマテラスから持ってきたデータ。その中に彼のものも含まれていたの。そして、それを惜しみなく公開してくれたから……ま、72時間もあれば、彼の頭の中にあるナノマシンの99%を除去できるわよ」
勝ち誇ったような笑みを見せるイネス博士。
だが、エリナは露骨に嫌悪の顔を見せた。
「ちょっと待って。わたし、上手すぎる話って信用しないの。なにか副作用とか、あるんじゃないの?」
「副作用なんかないわ。ただ……術中に記憶のフラッシュバックがおきるの……いままでの記憶がすべてドバぁぁっとひとときに流れ込んでくるってアレね。しかも、人間の記憶って、楽しいことよりも、嫌なことやつらいことの方が残りやすいものだから……まあ、地獄をみてもらうことになるけど」
イネスは白々しくも平然と言った。
「まあ、それよりも、肝心の本人がどうなるか、そっちの方を心配しましょう」
「そうね……」
そうつぶやき、エリナは視線だけをイネスに向けた。
痛切な悩みがそこに浮かんでいた……それは、両者の事情を知ってしまったものの葛藤かもしれない。
「彼、どうすればいいのよ」
「どうする? 別に、お互いただ意地を張り合っているだけでしょ」
イネスは一刀両断に斬り捨てた。
「……身も蓋もないわね、あなた」
「ふ……たった2年じゃない。20年、砂漠の中で置き去りにされた方からみれば、まだまだ苦労してもらわないとね」
「悪魔ね……」
「でも、どうなるか、楽しみじゃないの?」
「ふふ……」
エリナは天を仰いだ。それをイネスが追う。
「負け組は、高見の見物としゃれ込みましょうか」