第4章
6
「……えっ?」
数秒遅れてハーリーの声が返ってくる。
「作戦完了です。ナデシコcは敵の動向を注視しながら、本隊の到着を待ちます」
スクリーンの向こうを見つめたまま、ユリカは答えた。
「はい。でも、あの、ブラックサ……」
「かまいません」
その強い口調は、続く言葉をぴしゃりと封じこんだ。
水を打ったように、艦橋が静まり返る。
スクリーンは淡々と外界を映している。
火星の地表を風が流れ、赤い砂を運んでゆく。
赤い砂は、黒い機体に絡まるように舞う。
音を感じた。
聞こえるはずはないのに、風の音が聞こえる。
それは、草原を抜けるそよ風のそれだった。
黒い機体の輪郭をなぞる紺碧の光が、一段とその輝度を増す。
ユリカはバイザーを装着した。
「……ジャンプフィールド形成完了まで、あと3分ですよ」
艦長席に座る少女の声が、ユリカの心の静寂をうち破った。
微かに反射して見えるルリの視線、それは透明な、まるで心を映し出す鏡のように澄んでいた。
ユリカは、いつの間にか手を艦長帽にやっていた。
「いいんですか、追わなくても?」
「追いかける戦術的な意味はありません」
「それは、わかっています」
「ボソンジャンプを物理的に止める方法はありません」
「そんなことも、わかっています」
「ルリちゃん……」
ユリカはシートを反転させる。
強い感情のこもった金色の瞳が、そこにはあった。
だから、ユリカはバイザーを外した。
……ルリの表情が、哀しみに揺れた。
「……いいんですか?」
「うん」
精一杯の笑顔を作り、ルリにささげる。
けれども、ルリの顔に浮かぶ哀しみはその色を増した。
「本当にいいんですね……本当に、行かせていいんですね?」
ユリカは視線を落とし、目を閉じた。
そして、ゆっくりと、ひとつだけ頷いた。
「……行きたいっていうのを、私にはとめられな……」
「ユリカさん!!」
その時、少年の叫び声が艦橋に響いた。
はっとして顔を上げる。
ハーリーだった。
立ち上がり、きっとユリカを見すえ、何かを床に投げ捨てた。それは襟についている宇宙軍の階級章だった。
「そんなこと、どうだっていいじゃないですか!」
「ハーリーくん……」
「あのマシンにはアキトさんが乗っているんでしょ! ユリカさんはアキトさんに会いたいんでしょ!」
身体の力が抜けていくのを感じた。
祈りのように響くその言葉は、容赦なく心をえぐり、かきむしった。
だから、何も言葉を発せられなかった。
「何とか言ってください、ユリカさん!」
ユリカは逃げるように目を背ける。
「……会っても、もう、どうにもならないよ」
うつむいて、力無くそう言う。
だが、それはハーリーを憤怒へと駆り立てただけだった。
「……だましたんですね」
ビクッと肩を震わす。
顔をあげて、首を横に振る。
「そんな……だましたなんて……」
「僕に言った”大事な人”、あれは嘘だったんですね!」
「ちがう……」
「あの時……ユリカさん泣いてました。あれもぜんぶ、嘘だったんですね」
「違う……違うよ、ハーリーくん」
泣き出しそうな声で、ユリカが首を横に振りながら言い続ける。
「許せない……そうやって、僕のこと、からかって、遊んで、笑っていただけなんですね!」
「違う違う、そんなことない……そんなことないんだよ、ハーリーくん……」
「だったら……だったら、ユリカさん」
その時、ユリカは見た。
ハーリーの表情が、自分を諭してくれた、自分にとって大事な人と同じ表情になったのを。
「アキトさん、大事な人なんでしょ。アマノガワのラーメン屋さん、追いかけましょうよ」
うん、と大きくユリカは頷いた。
にこっとハーリーが笑う。
ルリは言った。
「火星衛星軌道上の試験艦”ユーチャリス”に対して強制ハッキングを開始します。ハーリーくん、手伝ってください」
「了解!」
ひときわ大きい声でハーリーが応える。
そこにユリカが割り込んだ。
「大丈夫」
「ユリカさん……」
二つの違う声が、おなじセリフをなぞる。
ユリカは胸元に手をやった。
「大丈夫。私は……この手で、アキトをつかまえるよ」
目をつぶり、思い出の彼方に祈る。
そして、ユリカはナデシコcから消えた。
☆
頬に暖かいぬくもりを感じる。
ユリカはゆっくり目を明けた。
黒い布地が目に入った。そして、計器類。
軽く息を吸い込み、そして、顔をその黒い布地に埋めた。
顔全体に、血の通った暖かさを感じた。
腕をのばして抱く。
「……そうだよ、あのとき、追いかけてきてくれたんだよね」
ユリカは聞こえるように独語する。
……ユリカの髪に、手が添えられる。
「いいの? これ、倒れちゃうよ」
「オートパイロットだから」
「そっか……」
もう一度、ユリカは顔を埋めた。
「……いいのか?」
「アマノガワのラーメン屋さん……」
ユリカの髪を触れる手が、一瞬とまる。
「アマノガワは……遠いよ……」
ユリカは顔を上げた。
そこには顔を緑の線で光らせたアキトがいた。
ばつの悪そうなアキトに対し、ほほえむユリカ。
「一緒にアマノガワに行こうよ」
アキトは顔を曇らせる。
「おれは……ユリカと一緒にいられない」
「どうして?」
屈託なくユリカが問う。
ためらいがちに、アキトは言った。
「感覚が……ボロボロなんだよ」
「大丈夫だよ」
ユリカは、包み込むようなまなざしでアキトを見つめていた。
「身体の左半分は何も感じないし」
「お風呂に入るときに右足から入るようにすればいいんだよ」
「景色がぼけて見えるし」
「コンタクトつくればいいんだよ」
「味、わかんないし」
「毎日ユリカのお料理食べられるから大丈夫だよ」
そして、アキトは苦しそうな顔をして言った。
「おれは、もう……ラーメンつくれないし」
「つくろうよ。一緒にラーメンつくろうよ!」
ユリカのまるい瞳が、ささやいた。
”大丈夫だよ”、と。
ふふっと、アキトが笑う。
ユリカもつられて笑う。
アキトは天を見上げた。
「……ユリカ、おいてっちゃおうとしたし」
「そうだね、ひどいよね。ひどい旦那さまだよね」
すると、アキトはおもむろにポケットをまさぐり、そして、何かを取り出した。
ユリカの目の前にかざす。
それは、3年前から少しの輝きの褪せていない、銀の指輪。
アキトがユリカをじっと見つめる。
ユリカはうなずく。
アキトはユリカの左手をとり、何ものにも飾られていない細く白い薬指に、その指輪をゆっくりとはめていった。
ユリカは切ない笑顔で指輪をじっとみつめる。
やがて、おもむろに顔をあげ、アキトの顔に近づけた。
アキトの手が、ユリカの頬に添えられる。
唇が、求め合うように触れ合う。
それが名残惜しそうに離れると、ユリカはまたアキトの胸に顔を埋めた。
嗚咽を漏らす。
「アキト、アキト……」
「……ただいま、ユリカ」
「……もう離しちゃ嫌だよ。アマノガワ、遠すぎるよ……」
アキトは優しくユリカの頭を撫でる。
「ずっとずっと会いたかった……ずっと、アキトの声を……」
「ごめん……」
「ううん、いいの……あのね、アキト」
ユリカは泣き顔に笑顔をつくる。
アキトはじっとユリカを見つめ、言葉を待つ。
「あのね……アキトと一緒にいるから、私は幸せなんだよ。だから、これからもずっと、幸せにしてね」
「ユリカ……」
「愛してるよ、アキト」
アキトは恥ずかしそうな顔を見せ、そして、ユリカの耳許に口を寄せた。
「ユリカ、愛してる」
暖かい声がする。
二人はふたたび口づけを交わした。
それは長く長く、永遠につながるくらいに長く、思いの丈ほどに長く続いたのだった。