第4章


 

 

「……えっ?」

 数秒遅れてハーリーの声が返ってくる。

「作戦完了です。ナデシコcは敵の動向を注視しながら、本隊の到着を待ちます」

 スクリーンの向こうを見つめたまま、ユリカは答えた。

「はい。でも、あの、ブラックサ……」

「かまいません」

 その強い口調は、続く言葉をぴしゃりと封じこんだ。

 水を打ったように、艦橋が静まり返る。

 スクリーンは淡々と外界を映している。

 火星の地表を風が流れ、赤い砂を運んでゆく。

 赤い砂は、黒い機体に絡まるように舞う。

 音を感じた。

 聞こえるはずはないのに、風の音が聞こえる。

 それは、草原を抜けるそよ風のそれだった。

 黒い機体の輪郭をなぞる紺碧の光が、一段とその輝度を増す。 

 ユリカはバイザーを装着した。

「……ジャンプフィールド形成完了まで、あと3分ですよ」

 艦長席に座る少女の声が、ユリカの心の静寂をうち破った。

 微かに反射して見えるルリの視線、それは透明な、まるで心を映し出す鏡のように澄んでいた。

 ユリカは、いつの間にか手を艦長帽にやっていた。

「いいんですか、追わなくても?」

「追いかける戦術的な意味はありません」

「それは、わかっています」

「ボソンジャンプを物理的に止める方法はありません」

「そんなことも、わかっています」

「ルリちゃん……」

 ユリカはシートを反転させる。

 強い感情のこもった金色の瞳が、そこにはあった。

 だから、ユリカはバイザーを外した。

……ルリの表情が、哀しみに揺れた。

「……いいんですか?」

「うん」

 精一杯の笑顔を作り、ルリにささげる。

 けれども、ルリの顔に浮かぶ哀しみはその色を増した。

「本当にいいんですね……本当に、行かせていいんですね?」

 ユリカは視線を落とし、目を閉じた。

 そして、ゆっくりと、ひとつだけ頷いた。

「……行きたいっていうのを、私にはとめられな……」

「ユリカさん!!」

 その時、少年の叫び声が艦橋に響いた。

 はっとして顔を上げる。

 ハーリーだった。

 立ち上がり、きっとユリカを見すえ、何かを床に投げ捨てた。それは襟についている宇宙軍の階級章だった。

「そんなこと、どうだっていいじゃないですか!」

「ハーリーくん……」

「あのマシンにはアキトさんが乗っているんでしょ! ユリカさんはアキトさんに会いたいんでしょ!」

 身体の力が抜けていくのを感じた。

 祈りのように響くその言葉は、容赦なく心をえぐり、かきむしった。

 だから、何も言葉を発せられなかった。

「何とか言ってください、ユリカさん!」

 ユリカは逃げるように目を背ける。

「……会っても、もう、どうにもならないよ」

 うつむいて、力無くそう言う。

 だが、それはハーリーを憤怒へと駆り立てただけだった。

「……だましたんですね」

 ビクッと肩を震わす。

 顔をあげて、首を横に振る。

「そんな……だましたなんて……」

「僕に言った”大事な人”、あれは嘘だったんですね!」

「ちがう……」

「あの時……ユリカさん泣いてました。あれもぜんぶ、嘘だったんですね」

「違う……違うよ、ハーリーくん」

 泣き出しそうな声で、ユリカが首を横に振りながら言い続ける。

「許せない……そうやって、僕のこと、からかって、遊んで、笑っていただけなんですね!」

「違う違う、そんなことない……そんなことないんだよ、ハーリーくん……」

「だったら……だったら、ユリカさん」

 その時、ユリカは見た。

 ハーリーの表情が、自分を諭してくれた、自分にとって大事な人と同じ表情になったのを。

 

「アキトさん、大事な人なんでしょ。アマノガワのラーメン屋さん、追いかけましょうよ」

 

 うん、と大きくユリカは頷いた。

 にこっとハーリーが笑う。

 ルリは言った。

「火星衛星軌道上の試験艦”ユーチャリス”に対して強制ハッキングを開始します。ハーリーくん、手伝ってください」

「了解!」

 ひときわ大きい声でハーリーが応える。

 そこにユリカが割り込んだ。

「大丈夫」

「ユリカさん……」

 二つの違う声が、おなじセリフをなぞる。

 ユリカは胸元に手をやった。

「大丈夫。私は……この手で、アキトをつかまえるよ」

 目をつぶり、思い出の彼方に祈る。

 そして、ユリカはナデシコcから消えた。

 

  ☆

 

 頬に暖かいぬくもりを感じる。

 ユリカはゆっくり目を明けた。

 黒い布地が目に入った。そして、計器類。

 軽く息を吸い込み、そして、顔をその黒い布地に埋めた。

 顔全体に、血の通った暖かさを感じた。

 腕をのばして抱く。

「……そうだよ、あのとき、追いかけてきてくれたんだよね」

 ユリカは聞こえるように独語する。

……ユリカの髪に、手が添えられる。

「いいの? これ、倒れちゃうよ」

「オートパイロットだから」

「そっか……」

 もう一度、ユリカは顔を埋めた。

「……いいのか?」

「アマノガワのラーメン屋さん……」

 ユリカの髪を触れる手が、一瞬とまる。

「アマノガワは……遠いよ……」

 ユリカは顔を上げた。

 そこには顔を緑の線で光らせたアキトがいた。

 ばつの悪そうなアキトに対し、ほほえむユリカ。

「一緒にアマノガワに行こうよ」

 アキトは顔を曇らせる。

「おれは……ユリカと一緒にいられない」

「どうして?」

 屈託なくユリカが問う。

 ためらいがちに、アキトは言った。

「感覚が……ボロボロなんだよ」

「大丈夫だよ」

 ユリカは、包み込むようなまなざしでアキトを見つめていた。

「身体の左半分は何も感じないし」

「お風呂に入るときに右足から入るようにすればいいんだよ」

「景色がぼけて見えるし」

「コンタクトつくればいいんだよ」

「味、わかんないし」

「毎日ユリカのお料理食べられるから大丈夫だよ」

 そして、アキトは苦しそうな顔をして言った。

「おれは、もう……ラーメンつくれないし」

「つくろうよ。一緒にラーメンつくろうよ!」

 ユリカのまるい瞳が、ささやいた。

”大丈夫だよ”、と。

 ふふっと、アキトが笑う。

 ユリカもつられて笑う。

 アキトは天を見上げた。

「……ユリカ、おいてっちゃおうとしたし」

「そうだね、ひどいよね。ひどい旦那さまだよね」

 すると、アキトはおもむろにポケットをまさぐり、そして、何かを取り出した。

 ユリカの目の前にかざす。

 それは、3年前から少しの輝きの褪せていない、銀の指輪。

 アキトがユリカをじっと見つめる。

 ユリカはうなずく。

 アキトはユリカの左手をとり、何ものにも飾られていない細く白い薬指に、その指輪をゆっくりとはめていった。

 ユリカは切ない笑顔で指輪をじっとみつめる。

 やがて、おもむろに顔をあげ、アキトの顔に近づけた。

 アキトの手が、ユリカの頬に添えられる。

 唇が、求め合うように触れ合う。

 それが名残惜しそうに離れると、ユリカはまたアキトの胸に顔を埋めた。

 嗚咽を漏らす。

「アキト、アキト……」

「……ただいま、ユリカ」

「……もう離しちゃ嫌だよ。アマノガワ、遠すぎるよ……」

 アキトは優しくユリカの頭を撫でる。

「ずっとずっと会いたかった……ずっと、アキトの声を……」

「ごめん……」

「ううん、いいの……あのね、アキト」

 ユリカは泣き顔に笑顔をつくる。

 アキトはじっとユリカを見つめ、言葉を待つ。

「あのね……アキトと一緒にいるから、私は幸せなんだよ。だから、これからもずっと、幸せにしてね」

「ユリカ……」

「愛してるよ、アキト」

 アキトは恥ずかしそうな顔を見せ、そして、ユリカの耳許に口を寄せた。

「ユリカ、愛してる」

 暖かい声がする。

 二人はふたたび口づけを交わした。

 それは長く長く、永遠につながるくらいに長く、思いの丈ほどに長く続いたのだった。


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