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第4章


 

 

「やっぱりここにいらっしゃいましたか、ユリカさん」

 わずかに笑顔をのぞかせてルリが言う。

「……すいません、起こしてしまいましたか?」

 だが、ユリカの表情を見ると、それはすぐに曇った。

 ユリカはあわてて笑顔を作った。

「あ……ううん、気にしなくてもいいよ、ルリちゃん」

 敢えて大げさに伸びをしてみせる。

「んー、っと、作戦開始まであとどれくらい時間があるのかな」

「はい、あと25分です」

 くすっと笑ってルリは答えた。

……さあぁっと、風が流れていく。

 ルリの銀色の髪が風にそよいで乱れる。その髪に手をやりながら、ルリは辺りを見渡した。

「……綺麗な景色ですね……」

 そして、澄んだ金色の瞳を輝かせて、ユリカを見た。

「隣にすわって、かまいませんか?」

 ユリカはうなずく。

 ルリはユリカの横に歩み寄って並び、ひざを組んで座った。

「この風景、お好きなんですね……」

「うん……」

 ユリカも身体を起こして、ルリと同じくひざを組んだ。

「……昔の火星は、こんな感じだったんだよ……」

「アキトさんとの思い出の地なんですね……」

 そう言って、手ぐしで髪を整え、ルリは遠い目をした。

「私の思い出は水です」

「……水?」

 ユリカはルリの横顔を見る。

 ルリは視線をそのままに話を続けた。

「はい……私は研究所で育てられた人間ですから、父の顔も母の顔も覚えていません。でも……水の音を覚えていました。近くに川があって、そこで魚が跳ねるんです。その音が、私の思い出です」

「そっか……」

 ユリカはそのまま何も答えなかった。

 やがて、ひとつ大きな息をついて、ルリが明瞭な口調で切り出した。

「……実は、ユリカさんにいいお知らせがあります」

 ルリはユリカに微笑みかけ、そして言った。

「アキトさん、生きています」

 ユリカの肩から力が抜けた。地面に倒れ込みそうになる身体を、手をついて支えた。

 その動きを、ルリは驚きと受け止めたようだった。

「驚かれるのも無理はありません。ですが、私、地球で、アキトさんに会いました。ええ……すごく、お元気そうでしたよ……それで、アキトさんからユリカさんに渡してくれと頼まれたものがあるんです」

 そう言って、ルリは腕をポケットに入れると、やがて、四つ折りの白い紙片を取り出した。

「……アキトさんが帰ってきたら……そうしたら、また、ユリカさんとラーメン屋をやりたいから、ユリカさんに預かってくれって、アキ……」

「……嘘」

……ルリの想いのすべてを断ち切る言葉、それをわかっていて、ユリカはその言葉をつぶやいた。

「もういいよ、ルリちゃん。私……ぜんぶ、知ってる。アキトが生きてるって。それに……もうラーメン作れないっていうのも」

 ユリカは顔を上げた。

 そこには、瞳を見開いて呆然とした……偽りの笑顔を驚愕の真実に変えたルリがいた。

「……ユリカさん……どうして……どうして、それをご存じなんです……?」

 そのルリの顔を見るのがつらくなって、ユリカは視線を背け、組んだひざの中に顔を隠した。

「一体どうなさったんですか? 月で何があったんですか? ユリカさん……」

 ルリが強い口調でうながす。

 それに抗しきれずに、ユリカは言った。

「……月で、アキトの部屋に行ったんだ……」

 弱々しい声が、のどを抜けていく。

「アキトさんの……」

「うん……そこで、フォトフレーム、見つけた」

「あっ……あれは……アキトさんが……」

 ユリカはひざの中でわずかにうなずいた。

「そこで……みんな聞いたよ。アキトが生きているって。それに……アキトの身体がどうなったか……アキトがなぜ帰ってこないのか……」

 大きく息を吐き、視線をルリから背けたまま、ユリカは頭を上げた。

「すごいよ……やっぱりアキトはすごかったよ。そんな非道い目にあって……私だったら……絶望して、何もかも投げ出して、命を絶つかもしれない。でも、アキトは、それでも生きて……みんなのために……。アキトは強いよ。私は……私にはアキトを好きになる資格はないのかもしれない……」

「そんなことありません」

 気色ばんだルリの言葉が返ってくる。

 ユリカは、首を横に振り、寂しげなため息でそれに応えた。

「……でも、その前に、やらなきゃいけないことがあるの。ナデシコcの艦長として、この作戦を必ず成功させ、”火星の後継者”を倒すこと。……私には、クルーのみんなを無事に地球に帰す責任があります。だから、まず、私はその責任を果たしたい。それで……アキトを待ちたい。アキトを信じて待ちたいの。それが……そうすることが、アキトの想いにかなうと……」

「……それは違います」

 ピシャリとルリは言った。

「ルリちゃん……」

 ユリカはルリを見上げた。

「そう、思いこもうとしているだけです」

 衝動をこらえるような表情のルリがそこにいた。

「アキトさんは、ユリカさんを求めています。アキトさんと会ったとき、私は……去っていくアキトさんをとめることができませんでした。ですから、もう、ユリカさんでなければ、誰もアキトさんのことをとめられません」

 ルリは立ち上がってユリカの前にまわり、紙片を差し出した。

「これ、受け取ってください」

 強い意志の浮かぶ金色の瞳が、ユリカを射抜いた。

 ユリカは、それに腕を伸ばそうとした。

 だが、どうしても、できなかった。

 紙片から目を背ける。

「いいよ……見たくない……」

「いいえ、どうしても、見てもらわないといけないんです」

 ユリカはびくっと身体を震わせた。怯えた目で、ルリを見る。

 金色の瞳が、怒りに揺らめいていた。

「ユリカさん、逃げているだけです。怖がっているだけです!」

 ルリの糾弾……ユリカは泣きだしそうな顔で、きっとルリを見据えた。

「そうだよ、恐いよ! 私だって、アキトに会いたいよ。でも……でも、アキトは、私のせいであんな目に遭ったんだよ。私はアキトに会うのが恐い……恐いよ……どんな顔をしてアキトに会ったらいいか、わからないよ!」

 ユリカの頬を涙が伝わっていく。

「ユリカさん……」

 ルリはやりきれない表情を見せていた。

 ユリカは手を伸ばして紙片を受け取り、それを握りしめて、再びひざに顔を埋めた。

「……ごめん、ルリちゃん。一人にして……」

 はばからず、ユリカは嗚咽を漏らしはじめた。ルリの足音が、自分から遠ざかっていくのが耳に届いた。

 

  ☆

 

 作戦開始7分前。

 艦橋では、艦長席にルリが、その前方のオペレーターズシートにハーリーが、操舵士席にはミナトとユキナが座る。

 そして、艦橋最前部のナビゲーターズシートは空席だった。

 いまだに空席のそこを、ルリは物憂げな表情で眺めている。

「……准将、探しに行きましょうか?」

 ハーリーが艦長席を見上げ、心配そうにルリに声をかける。

 ルリは表情を変えずに、首を横に振った。

 その様子に、ハーリーは残念そうにして再び前を向いた。

 その時、艦橋後方の隔壁が開き、バイザーをつけたユリカが現れた。

「どうもどうも、遅くなってすいませんっ」

 いつものように明るい声であいさつし、そして、平然とルリの隣を抜けて、前方のナビゲーターズシートに座る。

 髪や服の乱れを整えて、艦内全体へのコミュニケの画面を開いた。

「あーあー、テストテスト。よし、大丈夫ですね。では、艦内のみなさんにお伝えします。ただ今、作戦開始まで、あと4分を切りました。各自が仕事をきちんとやれば、必ず作戦は成功します。ですから、地球に帰った後の祝勝会を楽しみにして、リラックスしてください。それから、私はボソンジャンプのナビゲーションを行うため、以降はすべてルリちゃんの指示にしたがってください。では、最終確認します。作戦開始時刻は、地球時間午後3時!」

 そう宣言して、ユリカはシートをくるりと反転させ、艦長席を見上げた。

「ルリちゃん、艦内に時報を流してくれる?」

「……時報、ですか?」

 不審そうにルリは問い返す。

 ユリカは口許に笑みを浮かべた。

「そう……ピッピッピッポーン、ってやつ」

「……了解です」

 そう言ってルリが手をIFSのパネルを撫でると、時報が艦内に流れはじめた。

”……午後2時58分、50秒をお伝えします”

 ユリカはバイザーをちょっと外してルリにウィンクして見せると、再びバイザーを装着して、シートを元の位置に戻した。

”午後2時59分、ちょうどをお伝えします”

「艦内警戒態勢、Bパターンに」

「ディストーションフィールド、出力最大」

「ジャンプフィールドの形成開始」

”午後2時59分、10秒をお伝えします”

「艦内の最終確認をお願いします」

”20秒をお伝えします”

「艦内圧力とも異常なし。オールクリアです」

”午後2時59分30秒をお伝えします。ピッピッピッポーン”

「フェルミオン、ジャンプフィールドに浸透」

「各員、対ショック警戒」

”40秒をお伝えします”

「ジャンプフィールド形成完了。出力、安定しました」

”50秒をお伝えします”

「あとの指示は、時報に従ってください。では……」

”午後3時、ちょうどをお伝えします”

 ユリカの身体に幾何学模様が浮かび上がる……。

”ピッピッピッ”

 

……消失。

 

”……ただいまより、午後3時0分10秒をお伝えします……”