あとがき
こんにちは、はじめまして、成瀬尚登です。
人の執念……まさか自分がこの言葉を貫徹するとは思ってもみませんでした。
ある夏のことです。
私は、遅ればせながら、ミスマルユリカに会いました。破天荒ではあるけれど、明るく前向きで一途で……ほぉっとため息が出るくらいの美貌(かわいらしい、と言う方がより適切かもしれませんが)もさることながら、見ているだけで気持ちが明るくなるこの艦長に、私は一目惚れしたと言っていいのかもしれません。はばからず「艦長とデートする」と言ってはテレビにかじりついて、じいっとミスマルユリカのことを見つめていました。
それは、劇場版の宣伝のために放映された、「傑作選」なるものでした。
そして、私は失意と絶望のどん底に落とされました。
「劇場版」で、ミスマルユリカは辱めを受けて破棄されました。よくも悪くもナデシコというストーリーの色を決めていた人を破棄してしまった「劇場版」、これはナデシコと呼べるのかという疑問も生まれましたが、それ以上に、なぜミスマルユリカが破棄されなければならないのか、私にはどうしてもわかりませんでした。最終回で希望をもった終わり方をしたユリカとアキトに絶望的な未来が訪れ、そして他のキャラは幸せな生活を送っている。かりに「劇場版」のモティーフが、本当にユリカを破棄した上ででなければ成立しないのであれば、それは仕方がないことだと思います。ですが、私にはどうしてもそうは思えなかった。結局、その答えは出ませんでした。
ですが、それ以上に、私はミスマルユリカを取り戻したかった。テレビ版の展開がすべて不毛なものにしか映らなくなってしまう「劇場版」から、自分のために取り戻したかったのです。 それが、本作品「NADESICO the MOVIE REMIXED featuring Yurica」が生まれる動機となりました。「REMIXED」と名乗っているのは、ひとつには、あくまで劇場版準拠であるということを意味します。そうでないと、「ユリカが動いても『劇場版』は成り立つ」という主張が机上の空論に終わってしまいます。そしてもう一つには、単にユリカを絡ませるだけでなく、それなりに意味を持たせる……別バージョンとか異聞ではなくて、別の価値をもった作品としたかったからです。
それを担うのが、「アキトを喪失したユリカ」というモティーフです。劇場版のパンフレットで佐藤竜雄監督はさかんに「成長」というキーワードを上げていらっしゃいました。しかし、ユリカとルリと家族として養うという包容力があったアキトが私怨に燃える男になったり、ユリカをただ夢をみているお姫様にしたりというところに、私はどうしても「成長」というものを見付けられませんでした。
愛する者を失って変わる。しかも、変わるだけでなく、それを人間としてどのように自分のものにするのか。それを、私はミスマルユリカを通じて書きたかったのです。
端的に言えば、そういうわけでこの作品は、「闘うゆりかまにあの『劇場版』に対するひとつの回答」です。私は、ミスマルユリカを取り戻すことができたと思っています。それは、自分の中で、ミスマルユリカというキャラクタといつでも会えるくらいに昇華することができたということです。
しかしながら……と、思うのですが、もし救出されたテンカワアキトのそばにユリカがいたとしたら。そうでなくても、ユリカを救出後、そこにアキトがいたとしたら。私は、文中でも書いたように、きっとユリカは前向きに……もし仮に自分が不幸な目に遭っていたとしても……アキトと生きたのではないかと思います。その意味で、そういうユリカを信じられなかったアキトに、私はちょっとだけ失望してしまいます。アキトを倒してでも、ユリカを自分のものにしたいと思ってしまう今日この頃です。
長々と書いてしまいましたが、一つだけ傲慢な物言いを許していただけるなら、この作品で「劇場版」に対する評価を揺さぶることができたのではないかと思っています。web上では「『劇場版』を超える」等とハッタリをかましておりました(真に受けて「制作者に対する敬意がない」と批判もされましたが)が、あながちハッタリでもなかったと思います。世の中には架空のお話でここまで執念を燃やす人もいるんだぞ、ということでご了承ください。
最後になりましたが、同人誌にするにあたって、挿し絵の依頼を快諾していただいた、うらいまつさん。本当にありがとうございました。鉛筆画っぽいものをとお願いしていたのですが、まさに期待通りの挿し絵となりました。どうか、ご堪能ください。また、web上で連載中に激励していただいた方々、本当にありがとうございました。私はもう少し「ナデシコ」で夢を見られそうです。
「劇場版機動戦艦ナデシコ」VT・LD・DVD発売日に 1999.10.22 成瀬 尚登