第二章
２
ユリカは廊下に出た。大きく息を吐く。
きょろきょろと左右に目配せして、あたりにだれもいないのを確認すると、手にしていた書状を胸の前にもう一度広げた。
じっと凝視する。
「……艦長、かぁ」
その語尾はいつもよりも調が高く、その表情もうれしさを隠しきれないといった様子だった。
そして不意に書状をもったまま手を胸の前であわせ、何かに思いを馳せているかのように目をつぶって天井を見上げた。
「……テンカワ准将？」
すると突然、自分の世界に浸っていた彼女の背後から男の声がした。びくっと肩をすぼめて振り向くと、そこには秋山ゲンパチロウ少将の姿があった。
「あ、秋山少将」
秋山は別段かわったところもなく、いつもと同じくどっしりと構えた笑顔を向けた。
「どうかされましたか？」
「あ、いえ、なんでもありません……あはは」
ユリカはその場を取り繕おうと笑い、そして手を後ろに回して書状をさりげなく隠した。
秋山は何度もうなずき、そして思い出したかのように言った。
「そうそう、ところでテンカワ准将。今晩のご予定は、なにかありますかな？」
「えっと……とくにありませんが」
ユリカは小首を傾げ、思い出すように言った。
「では、よろしければ我が家で一緒に夕食などいかがですかな？ 妻が、准将が地球に帰ってきたら必ずお誘いするように、と毎日のように言うものですから」
ユリカは笑顔を向けた。
「喜んでおうかがいします。秋山さんの奥さんのお料理、本当においしいですから」
「いや、それは光栄です。ぜひ妻にも言ってやってください」
「もちろんです……でも、ご迷惑ではないのですか？ わたし、いつもごちそうになるばかりで……」
「いえいえ、准将と夕食を囲めるだけで充分です」
秋山は豪快に笑った。つられてユリカも笑う。
「では、後ほど。失礼します」
ユリカは一礼して、自分の執務室へと歩き出した。
その姿が小さくなるまで見届けてから、秋山は総司令官室に入った。
「秋山ゲンパチロウ少将です。火星の後継者を名乗る賊の資料をお持ちしました」
御統コウイチロウは、先程まで娘にみせていたのとは異質の顔、すなわち本来の軍司令官としてのそれに戻った顔でそこにいた。
秋山はコウイチロウの机の前まで歩み寄り、そして手にしていた１０センチほどの紙の束をその机の上に置いた。
さすがにコウイチロウが目を見張る。
「こんなにあるのかね、秋山くん」
「はい、閣下。火星の後継者の大部分が元木連出身の者でして、ちょっと調べただけでそれくらいデータがでてきてしまいました」
そして頭を深々と下げる。
「いや、本当に、元木連組としては、申し訳ないと思っております」
「こらこら、頭を上げなさい。君が悪いのではないのだから……」
コウイチロウはそういうと書類を置いたままめくりはじめた。秋山はその前でじっと直立不動のままコウイチロウの次の言葉を待った。
「……ユリカが」
その意表をつく言葉に、秋山は思わず、はい、と問い返してしまった。
コウイチロウが寂しさをにじませた顔を上げる。
「ユリカが、火星に行くことになったよ」
「はい、存じ上げております」
秋山は言下に答えた。すると、コウイチロウは一瞬不審な視線を秋山に送る。
その視線に、秋山は臆することなく答えた。
「いえ、先程、廊下で辞令を手にはしゃいでおられましたので」
コウイチロウが目を細めて笑う。秋山は快活な口調で続けた。
「『三つ子の魂、踊りを忘れず』といいます。天河准将は素晴らしい才媛。しかし、その才は、やはり戦場においてこそ発揮されるものかと」
☆
……ナデシコｂの提督となる前まで、ユリカは統合参謀本部のスタッフとして、とりとめのない徒然なる日々を送ってきた。それは、父である御統コウイチロウの、限りなく公私混同に近い意向が反映されていたからだと言われている。
しかし一方で、前線で指揮を執ってこそユリカの真価が発揮できると主張する勢力も存在した。すなわち、ユリカの戦術構想と、それを高いレベルで実現しうる堅実な艦の運営をするアオイジュンとの組み合わせ。または、ユリカの戦略的判断と、それを冷静かつ客観的に把握できるホシノルリとの組み合わせ。これこそがユリカの能力を真に生かすことができる理想的な形であるという主張である。そして、その中心人物こそが、秋山ゲンパチロウなのである。
秋山は先の大戦でナデシコと戦闘し、ユリカの知略で乗艦「かんなづき」が沈没寸前まで追い込まれた経験がある。その指揮をとった指揮官を、彼はてっきり勇猛な男だと思いこんでいたのだが、大戦終了後、その指揮官が当時若干２２歳のミスマルユリカであったということを知り、愕然とすると同時に、彼女の強烈な信奉者となった。
今年の新年会の席で、酔った勢いもあっただろうが、彼は言った。
「ホシノ少佐は”電子の妖精”と呼ばれていらっしゃる。ならば、准将は、言うなれば”星空の女神”でしょうな」
そう言って剛胆に笑う秋山に対し、さすがのユリカもただただ愛想笑いを返すしかなく、またその言葉もセンスのなさで広がりを見せなかった。
……だが、「星空」はともかく「勝利の」女神としてユリカをとらえる者は、連合軍のみならず、統合軍にさえも少なからず存在した。したがって、彼女が軍に復帰して以降、統合軍からの公式・非公式なオファーが幾度となく寄せられ、また火星の後継者にその３割が追従（ついしょう）してしまった現在においてもそれは続いていた。
「……統合軍にいれば、将来は艦隊司令も夢ではないでしょうな」
限りなくきわどいセリフを秋山は言った。
それに対して、コウイチロウはふっと笑い、表情を和らげた。
「親への義理なのか……素直に喜んでいいか、迷うところだよ」
ついっと顔を上げる。
「一度、たわむれに聞いたのだよ」
「なんと？」
「私が統合軍のスカウトだとして、どうすれば来てくれるか、と」
「すると？」
「はっきりと言ったよ……アキトくんが統合軍にいれば、もうとっくにそっちに行っている、と」
コウイチロウは笑った。それに続いて、秋山も豪快に笑い出した。
「いや、天晴！ 本当にすばらしい才媛です。それに、その才媛にそこまでの決断をさせる男、天河アキトもすばらしい男」
コウイチロウは何度も頷いた。だが、そこには悲しげな色が浮かんでいた。
「……どうかされましたか？」
「いや……この前、アキト君の墓参りに行ったのだが……そこに、ユリカも連れていったのだよ」
「すると？」
秋山は表情を固くする。コウイチロウは、視線を机に落とした。
「……まだ、死んだと信じたくないようだ」
「……悲しいですな」
「うむ……」
そして、重さをともなった静けさが、司令官室を埋めつくした。
沈黙が続く。
やがて、秋山が口を開いた。
「しかし、天河アキト、”火星の後継者”についていなくて、本当に良かった」
彼は、雰囲気を変えるため、わざと快活な口調で言った。
「うん？」
コウイチロウが顔を上げる。
「天河提督、それに、ホシノルリ少佐、きっとアオイ中佐も付和雷同するでしょうな。そうなれば……」
「そうなれば？」
「我々も”火星の後継者”とやらに寝返るとしましょうか、閣下」
執務室に豪快な笑いが二つ響きわたった。