第二章
4
午後11時34分、秋山ゲンパチロウ夫婦との夕食を終えたユリカが、タクシーで士官宿舎に帰宅した。
入口でバイザーを外し、光彩認証によるセキュリティチェックを受けて中に入る。そしてエレベータで12階に上がり、歩き出す。
『天河アキト ユリカ』という表札のかかったドアの前に立ち、IDカードをスリットに滑らせてドアを開ける。
「ただいま」
誰もいない暗闇の向こうにそう声をかけ、ユリカは灯りをつけた。
一人暮らしではあるが、一応高級士官のため2LDKという広い部屋がユリカにはあてがわれている。
ユリカはリビングに向かった。
電話を見やる。すると、留守電が3件入っているらしかった。
その再生ボタンを押し、それを適当に聞き流しながら、ユリカはシャワーを浴びる準備をはじめた。
……シャワーを浴び終わった後、ユリカは寝室で着替えをしていた。
ユリカの身体よりも一回り大きいカーキ色のパジャマに腕を通し、ボタンをかけようと両手を胸の前に伸ばす。
だが、ボタンがうまくかからない。
おかしいなと感じて彼女が手許を見る。そしてそのことに気づいて、左前にボタンをかけていった。
ユリカはその姿……下着一枚と上にパジャマを着ただけの姿で布団に潜り込む。
ベッドではなく、絨毯の上にしかれている布団。
布団に入り、ユリカは窓際の方を見やった。
そこには、古ぼけた木製の長机と、くたびれた座椅子があった。
☆
「ただいまぁ」
両手に紙袋を提げたユリカが、満面の笑顔で障子を開ける。
彼は、座椅子に座って机に向かっていた。
「ただいま、アキトぉ」
「ただいまって、ここはお前の部屋じゃないだろ」
呆れた顔をして彼が振り返る。
「まあまあ……って、アキトぉ、今日どこにも出かけてないの?」
「ああ」
再び机に向かい、ぶっきらぼうに彼が答える。
ユリカはきょとんとした顔で尋ねた。
「雪谷のおじさまのお店、今日はお休みだよねぇ」
「ああ」
「なんで?」
「休みだからって……俺にはやることがあるの」
ふうんとユリカはつぶやき、そして、そっと背後に近づいて、彼の肩越しから興味津々な様子でのぞき込んだ。
彼は料理のレシピをノートにまとめていた。
「……もしかして、それをずうっとまとめてたの?」
「そうだよ……あっちに行っててくれ。気が……散るから」
困った顔をユリカに向ける。
憮然とした顔で頷き、ユリカは彼のそばを離れて、部屋の中央にある丸いちゃぶ台のそばに座布団を敷いて座った。
「ねえ、アキトぉ」
「なんだ?」
「ご飯、まだ?」
「……食堂で食べてくればいいだろう」
「ええっ、だぁってぇ……アキトのご飯、おいしいから」
彼は耳を赤くして、そのまま沈黙してしまった。
サクサクという鉛筆が紙をこする音が続く。
「そうそう、アキトぉ、今日はお買い物行ってきたんだよ」
そしてガザガザと音を立てて、ユリカは大手百貨店の商標がついた紙袋をあさりはじめた。
「……せっかくの外出許可日だから、服とか買ってきたんだぁ……」
やがて彼女は紙包みをとりだし、そしてそれを開けて、中から白いワンピースを取り出した。
「ほらほら、見て、アキトぉ。もうすぐ夏になるから、夏の服を買ってきたんだよ」
そう言って、ユリカは服の肩の部分をもって広げてみせた。
だが、彼は振り向こうとすらしなかった。
頬をふくらませるユリカ。しかしすぐに気を取り直して再び紙袋をあさり、そして別の紙包みを取り出した。
「そうそう、新しい水着まで買ってきちゃった。セパレートでね、パレオもついててかわいいんだから……」
そう言ってユリカは水着の胸のパーツをとりだし、彼の背後にひざ立ちで迫った。
「ねえ、アキトぉ、見てよ。ほらほら……」
「もう! 気が散るって言っただろう!」
振り向きざま、彼はユリカに怒鳴った。
途端に、ユリカの瞳に涙が浮かんだ。
「そんなぁ……アキトがきっと気に入ってくれると思って買ってきたのに……ひどいよぉ……」
しゅんとして肩をおとし、うつむいてしゃくり上げる。
あ……と彼は声にならない声をあげ、そして身体の向きをかえて、そっとユリカの肩に手をやった。
「あ……その……ごめんな」
ユリカが顔を上げる。
そこには、バツの悪そうな困惑した彼の顔があった。
「アキト……」
「その……おれ、他のことに頭、回らなくてさ……その……もうちょっと待っててくれ。そうしたら、ご飯つくるから、さ」
うん、とユリカは泣き顔に笑顔を作って大きく頷いた。
……それから20分後、小さなちゃぶ台に二人分の晩御飯が並んだ。
いただきまーす、とユリカが胸の前で手を合わせて言い、そしてみそ汁の器を取ってすすった。
「……おだし変えたの?」
「お、よくわかったな……ちょっと煮干しの量を減らしてみた」
「ふうん……前の方がいいかな……」
ぐっと彼は、その容赦ないユリカの言葉に絶句した。その様子に、ユリカは笑った。
しばらく黙々と二人は食事をすすめた。
「……おかわり」
ユリカが開いた茶碗を差し出す。彼は呆れた顔をした。
「太るぞ、お前……」
「だって、すごくおいしいから……あ、おみそ汁もおかわりね」
「はいはい」
茶碗をユリカに渡し、それと引き替えに汁碗を受け取る。
「でもね、アキトぉ。最近、アキト、料理の腕、すごく上がってる気がする」
「ああ……ここにいると、料理の修行がはかどるからな。はい」
ユリカに汁碗を返す。それをすすって、ユリカは尋ねた。
「ここを出たら、アキトはどうするの?」
彼は茶碗を片手に思案顔になった。
「そうだな……どこかで修行させてもらうか、それとも……ラーメンの屋台でも曳くかな」
「ラーメン屋さんになるんだね」
いつもの笑顔でユリカは頷いた。
「お前はどうするんだよ……」
「わたし? わたしはもちろんアキトについていくよ」
「バカ」
「バカじゃないよ」
「お前は、軍に残るんじゃないのか?」
ユリカは首を傾げる。
「うーんと……じゃあ」
彼に向き直ってユリカは言う。
「軍に残って、アキトを手伝うよ」
はあ、とため息をつく。
「そんなことできるかよ」
「できるよ」
「できない」
「できるぅ」
ユリカが彼をじいっとにらむ。
すると、彼はふっと笑った。
「……戦争、はやく終わるといいな」
「うん! そうだね、早く終わるといいね」
ユリカはまた、澄んだ笑みを彼に向けた。
☆
「もう寝ようよぉ、アキト」
カーキ色の男物のパジャマを着て、ユリカは布団にくるまっている。そして、ひとり分を隔てたその向こうには、ルリが静かな寝息を立てていた。
彼は、貧弱な電気スタンドの黄色い灯りの許、机に向かってラーメンのレシピをまとめていた。
「先に寝てろよ」
「ううん、起きてるよ」
「……ったく、明日も、寝坊したらどうするんだよ」
「またタクシーで行くから、大丈夫」
ユリカは呑気な口調で言った。彼は呆れたのか、それ以上なにも言わなかった。
「今日は、お客さん、来た?」
ユリカが尋ねる。
「雨だったからな……二人だけ」
その口調の端に、ユリカは彼の強がりを感じた。
「……明日は、きっとたくさん来るよ」
「……ありがとう」
ざあっという強い雨の音が窓の外から聞こえてくる。
ユリカはじいっと彼の背中を見つめた。
「……ユリカ」
不意に彼が言った。
「ルリちゃん、やっぱり『家』に帰そう」
それを聞いて、ユリカはむくれた。
「だめだよ。あんな『家』にいたら、ルリちゃん、おかしくなっちゃうよ」
彼は真剣な顔で振り返った。
「落ち着いて考えてみろよ。こんな貧乏なところにいて、ほんとうにルリちゃんは幸せなのか?」
ユリカは答えに困り、視線を彼からそらせた。
「お前の家にいれば、きちんといいものは食える、いい服は着れる、広い部屋にベッド。いうことないじゃないか」
「でも……」
ユリカが何かを言い返そうと顔を上げると、彼はふっと微笑んだ。
「別に、俺、怒鳴られるのとか、殴られるのとか、そんなの、ぜんぜん慣れてるからさ……明日、一緒に行こう」
「……いやです」
それは意外な声だった。
「ルリちゃん……」
彼はルリを見る。ユリカもその視線を追う。
ルリは起きていた。
「確かに生活水準は艦長の家の方が上です。ですが、艦長が家に戻らなければ、私はひとりです。そんなのは、いやです」
ルリが真摯な口調で言う。
「三日間、天河さん、艦長、お二人と一緒に生活して、わかりました。……家族ってこういうものなんですね」
ルリが笑顔を見せる。
「家族というのは、たとえ貧しくても、それをお互いに助け合うことで生活するものだと、思兼に聞きました。ですから、私も……家族に入れてください。お願いします」
「……ルリちゃん」
彼は立ち上がってルリと向かい合わせに座り、そっとルリの頭を撫でた。
「家族は、天河さんとか艦長とか、そんな他人行儀な呼び方をしないよ」
「じゃあ、何と呼べばいいのですか?」
「アキト」
「アキト……さん」
じゃあ、とユリカは彼の脇に寄る。
「私のことは、ユリカね」
「ユリカさん」
ユリカはその言葉に頷いた。
「ありがとうございます」
「ごめんね、起こしちゃって……お休み、ルリちゃん」
「はい……アキトさんも、早くお休みになってください。ユリカさん、心配してます」
バツの悪い顔をして、彼は頭をかいた。隣でくすっとユリカが笑う。
「わかったよ。あとちょっとで終わるから、もう少しだけね」
ルリはうなずき、そして、おやすみなさい、と言って、再び背を向けた。
ややあって、安らかな寝息が聞こえてくる。
「……アキト」
ん?と、彼が問い返すまもなく、彼の唇は、ユリカの唇にふさがれた。
「……アキト、すごく頼もしく見えたよ」
「あ……まあ、ルリちゃん、ここにいたいって言ってくれて、本当はすごく嬉しいんだよな、俺」
顔を真っ赤にして言う。ユリカは微笑んだ。
「家族は多い方がいいよ、うん」
「そうだな……」
はは、と彼は笑い、そして立ち上がって再び机に向かった。
「それじゃ、私も寝るよ」
「ああ、おやすみ」
「おやすみ」
ユリカは、机に向かう彼の背中をじっとみつめ、そして襲ってきた睡魔に身を委ねた。
☆
「もう大丈夫だよ、アキト」
お茶を持ってきたユリカが、心配そうに彼を気遣う。
彼は、かなり焦った様子で机に向かい、ラーメンのレシピを見ていた。
「……だめだ」
「アキトなら、いつも通りやれば、きっと勝てるよ」
そっとお茶を彼の邪魔にならないように置く。
「いや……なにか、なにかが足りないんだ……これじゃ、お前の親父さん、納得させられない……」
「そんなことないよ、大丈夫だよ。それよりも、早く寝ないと。そっちのほうが心配だよ」
「だめなんだよ。どうしても負けられないんだ。ここで負けたら……俺は……」
……ユリカは彼の頭をその胸にそっと優しく抱いた。
「ユリカ……」
「アキトならできるよ。私はアキトのこと、信じてる」
そして、彼の頭を少し強く抱きしめた。
「アキトは私の王子様……だから、今度もきっと大丈夫……アキトはアキトらしく、それでいいと思うよ」
「ユリカ……」
彼はユリカの胸に顔を埋めた。ユリカはそれを愛おしげに見つめ、その頭を優しく撫でた。
「俺……きっと、恐いんだな」
「お父さまが?」
「ちがう……自分に負けるのが」
ユリカは答えるかわりに、彼の頭を撫で続けた。
「本当にこれでいいのか、って考えたら……いいのかどうか、わからない。だから……やっぱり恐いよ。勝負とか結婚とか、そういうことじゃなく、俺自身、これでいいのかって考えたら……」
「私は、今のアキトが好きだよ」
「ありがとう……でも……俺……」
ユリカは彼から身体をはなし、そして顔に顔を近づけて、そっとキスをした。
「……おまじない」
彼は当惑した顔でいた。
ユリカは満面の笑顔を彼に見せる。
「これでアキトは勝てるよ。ユリカが勝てるって言ったら、勝てるよ。」
そして、彼の身体に腕をまわす。
「信じてるから。きっと……きっと……」
彼はユリカの身体を抱きしめた。
「……落ち着いたよ。ありがとう。俺、明日、絶対に勝つよ」
「うん……」
そのまま、ユリカはもたれてくる彼に身体を預けた。
☆
「寒いな……」
天河ユリカはじっと座椅子を眺めていた。
彼は、もう、そこにはいない。
「……おやすみ」
ユリカはおもむろにリモコンのスイッチに手を伸ばし、部屋の灯りを消した。