第二章


 

 

「♪1歩、2歩、3歩ぉ
  散歩に行くなら連れてってぇ〜
  だめだよポチは犬だからぁ
  歩けば棒に当てられるぅ   ♪」

 不夜城・シンジュクシティはその夜も光の洪水が人の波を飲み込んでいる。

 その中に、バー「花目子(けめこ)」は在った。

 ステージでは、チャイナドレスを着た黒髪の女が、ウクレレを鳴らして漫談をしている。

 それを時折バイザー越しにちらりと眺めながら、ユリカはカウンター席に腰をかけ、カルーアミルクの入った背の低いタンブラーをゆっくりと回して、氷がグラスにぶつかる音を楽しんでいた。

 グラスに口を寄せる。

 カルーアミルクの、上に浮いているミルクの部分をちろっと舐め、そしてそれをしっかり味わい、ふうとため息をつく。

 これの繰り返し。だが、ユリカのその頬はすっかり上気していた。

 そこに、カランという音と共に店のドアが開く。

 視線だけ移すと、そこには昴リョーコが立っていた。すぐにボーイが寄るが、彼女はユリカの姿を見つけて歩き出し、その横に座った。

「よぉ……って、いま来たばっかりか?」

 リョーコは少しも減っていないユリカのグラスに気づいた。

「いいえ……ええっと、30分ぐらい前に来ました」

 ごく普通にユリカが答えると、リョーコはあきれ顔になった。

「飲めないんだったら、そんなもんを頼むなって……ま、ここでそれは無理な話か」

 そして目の前に出されたおしぼりで手を拭く。

「……あ、おれも同じヤツね。……それで、例の件、オッケーだ」

 目の前のバーテンダーにそう告げ、そのまま視線を動かさずにさりげない口調でリョーコが言った。

「ありがとうございます」

 ユリカは口許に柔らかい笑みを浮かべた。

 リョーコはユリカを向き、苦笑いをする。

「……まあ、プロスのおっさんから連絡きたときは、正直迷ったんだけどよ」

 そして、まじまじとユリカの顔を見る。

「ユリカの直々の頼みとあっちゃ、断れねえし、個人的な事情もあるし……」

 その意味を理解して、ユリカは敢えてそれに応えなかった。

「昔のメンツに会えるってのもあるんだけど……そんなんで戦争やっちゃ、やっぱまじぃかな」

「わたしも会えてうれしいですよ」

 ユリカはふふっと微笑んだ。リョーコは笑いながら肩をすくめた。

「おぉ恐(こわ)……まあ、俺自身、納得いかねえところもあるしさ……お、きたきた」

 リョーコの前にカルーアミルクが置かれる。

 乾杯と言って、ユリカとリョーコはグラスを合わせた。

 リョーコはグラスに口をつける。すると、顔をしかめてグラスの中の液体をにらんだ。

「……カルーアミルクって、こんなに甘かったのか。まいった」

「飲んだこと、なかったんですか?」

 ユリカが意外そうに尋ねる。

「他人(ひと)に勧めたことはあるかもしんないけど、飲んだことはないな」

 リョーコはぐいっとグラスをあおり、そして確信に満ちた表情で言った。

「リターンマッチだ。今度こそ、ヤツらをヤってやる」

 そうですね、とうなずいて、ユリカもグラスに口をつけ、表面のミルクを舐めた。

 再び、リョーコが呆れた顔をする。

「おいおい、猫じゃねえんだから……そう言えば、ルリは?」

「ヒカルさんのところに行って、今、アシスタントをしているみたいです」

  ☆

 公休扱いなのを良いことに昼過ぎまで惰眠を楽しんでいたユリカは、夕方になって連合宇宙軍の執務室に向かった。天野ヒカルのもとを訪れているルリたちから、定時連絡がはいるはずだったからである。

 だが、5時を過ぎても連絡が入らない。

 ユリカはヒカルのもとに電話をかけることにした。

 3回コールの後、電話がつながる。

「はい、もしもし。ぼくハーリー……」

 映像の出ない音声モード、しかも、出たのは、幼児語を駆使する少年の声だった……

「えっ? ハーリーくん?」

 ユリカは思わず声を上げる。

 すると、電話の向こうの主も、ユリカに気づいたようだった。

「そ、その声は、提督!」

 声が裏返っている。

 やがて画像モードに切り替わると、ハーリーがバツの悪そうな顔をしてそこにいた。

「あ、あのですね、これは……」

「……おつかれさま、ハーリーくん」

 ユリカは大体の事情を察して、笑顔で彼を慰労した。

「それで、少佐は?」

「あ、はい……艦長! 提督からです」

 わかりました、とルリの落ち着いた口調が部屋の向こうから聞こえ、ややあってルリが画面に現れた。

「すいません、テンカワ准将。連絡を忘れていました」

「それはいいけど……なにをしてるの?」

「ヒカルさんのお仕事のお手伝いをしています。ちょっといま影フラッシュをつけていたので、どうしても手が放せませんでした。すいません」

 ユリカは聞き慣れない言葉を聞いて、眉間にしわを寄せた。

「……まあ、いいや。それで、ヒカルさんはどう?」

「参加していただけるそうです。ヒカルさんに変わりましょうか?」

 そう言ってルリは向こうの部屋のヒカルに声をかけた。

「あ、ちょっと待って……バイザー外(はず)……」

 だが、ユリカがバイザーを外す前に、向こうから飛び出てくるかたちで、どてらを着込んだヒカルが現れた。

 そして、バイザーをかけたユリカをしげしげと見つめ、そして言った。

「うわぁ、なんか突如あらわれた女フィクサーって感じで、かっこいい!」

 ぐっと絶句しながら、ユリカはバイザーを外した。ちょっと困った顔を無理に笑顔にさせる。

「ヒカルさん、お久しぶりです」

「そうそう、バイザーの下から現れる麗人! でも、やけどの痕なんかあると、もっと造形的に映えるんだけどなぁ……」

「あの……もしもし?」

「わかってますって、艦長。ルリルリたちのおかげで原稿はなんとかなりそうだし、ほんと、来てもらって助かってまぁす」

「……ルリちゃんにかわってください」

 はーい、と言ってヒカルは去り、再び画面にルリがあらわれた。

「ずいぶん、明るいんですね、ヒカルさん……」

「いえ、修羅場ですから、テンションが高いだけですよ」

 そう平然と言い放つルリに対して、再びユリカは絶句し、じゃ、がんばってねとだけ言い残して、電話を切った。

  ☆

「……それで、だ」

 バーテンダーに一言「辛いの」と告げ、リョーコは真剣な表情でユリカを見据えた。

 ユリカも表情を堅くする。

「バイザー、外してくれないか?」

 ユリカはその言葉に従った。

 そして、リョーコの真剣な目に合わせるように、澄んだ瞳で真摯な視線を送る。

 リョーコはうなずいた。

「率直に聞きたい。俺の腕は、昔より落ちてるか?」

 ややあって、ユリカはためらいなく頷いた。

 ふっとリョーコは自嘲的に微笑む。

「やっぱりな……だませないとは思っていたけどよ」

 彼女の前に、脚の長いカクテルグラスが置かれる。

 グラスを取ってその中の透明な液体をくいっと飲み、なんだよ甘いじゃんかと悪態をついてから彼女は続けた。

「プロスから、ネルガルの施設で訓練をしにきてくれってきてな。昔よりも腕が落ちているからって、あいつ、確信をもって言いやがった。俺は認めたくなかった。そんなはずはない、俺は間違っていないって……でも、やっぱり、だめだな」

 そして、グラスを一気に空ける。

「このままじゃ、あいつら、倒せない」

 ユリカは静かに頷き、そしてバイザーをかけ直した。

 二人の間に、しばらく沈黙が続く。

……不意にリョーコが壁の方を向いた。

「……あっれ、あの写真、おまえらの結婚式のじゃねえか?」

 壁には写真が数枚貼ってあった。すべてイズミのものであろう、ナデシコ内での記念写真やクルーの集合写真、そして、ユリカの結婚式の写真……。

 そこには、あの忘れ得ぬ日々がそのままに描かれていた。

「あいつ……」

 リョーコが晴れやかな笑顔を浮かべる。

 ユリカは口許に笑みを浮かべた。

「イズミさんも参加してくださるそうです」

「……そうだよな、俺たち、一緒に戦った仲だもんな……」

 そして苦笑いをして、ユリカを向く。

「思い出した……カルーアミルクって、俺へのあてつけだったんだな」

 ふふっと今度は声を上げてユリカは笑った。

  ☆

「……ほら、飲めよ」

 持て余し気味の長い髪を揺らしながら、リョーコが褐色の液体の入ったグラスを勧めてきた。

 その時、ユリカはぼぉっとして主賓席に座り、佳境にはいった宴を眺めていた。

 やや軽めのフォーマルに着替えていた彼が、ウリバタケセイヤからビールを頭にかけられているのが見える。彼は逃げようと騒いでいるのだが、それを元整備班のクルーがおさえつけていた。

 

 結婚式は白いチャペルで行われた。

 荘厳で圧倒されるような空気にとまどい、そしてまた同じようにとまどう目の前の彼が、震える手でユリカの白い左手の薬指に指輪をはめた。

”ごめんな……いつか、もっといいのを買うから”

”結婚指輪は、ふたつも要らないよ”

”あ、そっか……”

”豪華な指輪は要らないよ。そんなの、アキトらしくないよ”

 そして、震える唇に、彼の震える唇が重なった。

 チャペルの外へ出て、ブーケを投げる。誰に投げるかその直前まで迷ったが、ルリには事前に断りの言葉を聞いていたし、「リョーコさんに投げたい」と遥ミナトに相談したところ、あきれ果てた顔で「それはやめた方がいいよ」と言われたため、結局、そのミナトのところに投げた。

 だが、赤い薔薇のブーケはその隣にいた白鳥ユキナのもとに届いた。

 途端にはしゃぐユキナ。それを自分のことのように喜ぶミナト。

 けれども、ユリカは見ていた。自分のところに飛んでくるブーケを見て、ユキナの背中を押してそれを取らせようとするミナトを。

「……どうした?」

 彼の声に、ユリカははっとする。ミナトの心中を察して思わず表情を曇らせてしまっていたようだった。すぐに笑顔になる。

「ううん、いこ、アキト!」

 二人は、ライスシャワーの中をくぐり抜けた。

 庭園で記念写真を撮ることになり、彼はユリカの身体を抱きかかえた。

「ん? 重いぞ、ユリカ」

「えぇっ、そんなことないよ」

「はは、冗談だよ」

「もう」

 そして、幸せにつつまれてまぶしそうな二人の笑顔が、そのままに映った。

 

 披露宴は連合宇宙軍の事実上のトップの令嬢にふさわしいものだった。無論、父であるコウイチロウの意向と財力によるものだ。ユリカは最初このような豪華なものに反対したが、彼の「あんまり、おやじさんを困らせるなよ」の言であっさり承知したのだった。

 だが、きっと彼は後悔しているに違いない。軍や政財界の”お偉いさん”の祝辞が延々と続き、見たことも食べたこともない料理が前にして、彼はずっと顔をこわばらせ、身体もがちがちに凍り、額に玉のような汗を浮かべて、それを幾度となく拭っていた

”アキト、大丈夫”

”あ、あぁ何とか……”

 その緊張は、二次会においてようやくほぐれた。来客はほとんどナデシコの元クルーであったが、アオイジュンは出席しなかった。

”ジュンくん、こないの?”

”ああ……ちょっと約束があってね”

 その顔はいつものジュンの顔だったが、しかしある意味、晴れ晴れとした感じがした。

 二次会がはじまったとき、ユリカの頬はすでに赤かった。

 披露宴で乾杯の時にシャンペンが彼女に供された。アルコールは嫌いではあるが、だからといって乾杯を拒むわけにはいかない。したがって、ほんの少しグラスに口を付けたのだが、もうそれだけで一気に身体が熱くなってしまった。

 そして2度目の乾杯。再びアルコールをちょっと口に含んだため、頭がぼおっとして、少し休んでいた。

 そこに、リョーコが来たのだった。

 

「……コーヒー牛乳?」

「まあ、そんなもん」

 ふうぅん、と気の抜けた声でユリカはそれを受け取った。

 白いミルクが液体の表面を包む。

 ユリカは何のためらいもなく、それをぐっとあおり、そしてふわっとして意識が遠のいた。

 身体に力が入らない。微かに声が聞こえる……。

”リョーコちゃん! 何、飲ましたの!”

”あ、いや、まさかこんなに弱いとは……ほんとごめん、テンカワ”

 

 気がつくと、彼の顔がすぐ目の前にあった。

「……気がついたか、ユリカ」

「アキト……あぁ、いたたたぁ」

 起きあがろうとした瞬間、今までに経験したことのない頭痛が襲ってきた。

 ふたたび身体を横たえる。ふっくらとした感触。どうやらベッドらしい。

 彼が冷たいタオルを額におく。

「いいよ、寝てろって」

 慈愛の笑みを彼は浮かべる。

 それに安心して、ユリカは周囲を見回す。そこはホテルの客室に見えた。二次会の後、宇宙港近くのホテルに泊まる予定だったから、おそらくそこだろう。

「みんなは?」

「……心配するなって」

 彼はさりげなくユリカの問いをかわした。それが、より一層、心に痛かった。

「ごめんね……アキト……」

「いいって……それより、苦しかったら、言ってくれ」

……こうして、ユリカにとって、最初で最後となった新婚の夜が、終わった。

  ☆

 翌日、盛大な見送りを受けて、二人は月へ向かうシャトルに乗った。

 地球の重力圏を離れる頃には旅行特有の緊張感もとけ、二人はすっかりリラックスしていた。

「アキトは、月は二度目だよね」

「よくおぼえてるな」

「うん……あのとき、わたし……泣いてたから……」

 あっと彼は声をあげた。

 ナデシコが火星から帰還し軍属になったとき、彼はユリカの制止を聞かずに艦を降りた。だが、ナデシコが危機に直面した時に現れ、敵をボソンジャンプで月にとばし、自らもその姿を消した。

 ユリカは熊のぬいぐるみに顔を埋めて泣いていた。そのとき、彼の姿が通信に映った。そして、ユリカに最高の笑顔を見せてくれた。

「……アキト」

 ユリカが真剣な顔で彼を見る。

「もう、ぜったいに離さないでね。もう……」

「ユリカ……」

 ユリカは彼の胸に顔を埋め、彼はユリカの肩を抱いた。

 するとその時、ユリカの額に何か固い物があたった。

 ん、と顔を上げる。

 彼もそれに気づき、笑ってそれをとりだした。

 蒼い光を放つ貴石のついたペンダント……CC(チューリップクリスタル)だった。

「……形身のはもうなくなっちゃたけど、まえにエリナさんに言って、もらったんだ」

 ユリカは、その光に導かれるようにじっとそれを眺めていた。

「これがなかったら、ユリカとも会うこともなかったんだな、って思うと、不思議だ」

 ユリカが顔を上げる。彼は遠い目をしていた。

「……そうだ、これ、ユリカにやるよ」

「ええっ。だってこれ、アキトの形身……」

「その……指輪、安物だし……」

 ユリカは笑顔で大きく頷いた。

「ありがとう、アキト。大切にするよ」

  ☆

だが、1時間後、ひとつめの”約束”が破られた。


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