第二章
8
ピンポンと、3回目のベルを押す。
だが、一向に中からの返事がない。
707号室のドアの前に立ち、ユリカはふうとため息をついた。
小脇には風呂の道具が入った桶を抱えている。
「留守だったか……電話してから来ればよかったなぁ」
そうぽつりと独り言をつぶやき、歩き出そうと左を向く。
すると、廊下の向こうに男の子の姿が見えた。
「あ、ハーリーくん」
それは、髪の毛をハリネズミのようにぼさぼさにしたままのハーリーだった。手に何か袋を持っている。
「あ……提督」
ハーリーは気まずい顔を作った。
ユリカはハーリーのそばに寄った。あわててハーリーは持っていた袋を後ろに隠す。だがユリカの方が背が高いため、上からでもそれが何かがわかった。
「あ、お菓子だね……わかった、それ、ル……ああっもう、ハーリーくんだからいっか……ルリちゃんと食べようとしたんだ」
するとハーリーはちょっと戸惑った顔を見せた。ルリちゃんという呼称を、ハーリーの前で使ったのは初めてだったからだ。
「でも、ルリちゃん、お留守みたいだよ」
そうですか、と応えるハーリーの顔が曇る。ふふ、とユリカは笑った。
「図星だね、ハーリーくん」
思わせぶりな口調でユリカがからかう。
ハーリーはどぎまぎして首をぶるんぶるん左右に振り、そして話題を変えようと愛想笑いをした。
「あ、いえ、なんでもないです。あはは……それより、提督はどうしたんですか?」
するとユリカは持っていた風呂桶をハーリーの目の前に差し出した。
「……お風呂、ですか?」
ハーリーが不審そうに言う。
「そ……ちょっと色々とあってね、今日は広いお風呂に入ろうと思ったの。それで、一人で入ってもつまらないから、ルリちゃんを誘いに来たんだけど……」
ふうと、またユリカはため息をつく。
そして、ふと、何かを思いついた。
「そうだ、ハーリーくん」
ハーリーの目をのぞき込む。ハーリーは顔を真っ赤にし、どぎまぎして答えた。
「な、なんでしょう」
「とし、いくつ?」
「え?……あ、じゅ、11です」
その答えに、ユリカは頷いた。
「じゃ、OKだね」
「えっ? OKってなにが……」
状況が把握できない様子でハーリーは尋ねた。
それに、ユリカは平然と答えた。
「一緒にお風呂入ろうよ」
「ええっ……!」
ハーリーは目を見開き、驚きのあまり絶句した。
「そ、そんな、ぼく、男ですよ」
「子どもだから大丈夫だよ」
あっけらかんとユリカは言う。
「え……遠慮しておきます……は、ははは……」
ユリカは不満そうな顔をする。
「どうしてえ?」
「そ、それは……」
そのままハーリーは返答しなかった。
ユリカが満面の笑みを見せた。
「じゃあ、決まりだね。行きましょう、行きましょう♪」
引きつった顔を見せるハーリーをものともせず、その肩を押しながらユリカは歩き出した。
☆
かぽーんという音が大浴場に響く。
「おまたせ、ハーリーくん」
タオルを胸の前に垂らして、ユリカは浴場に現れた。
長い緑の黒髪をまとめて上げている。白いうなじがのぞく。
「髪をあげてたから、遅くなっちゃって……」
そう言って湯けむりの向こうへと歩き出す。
時間帯のせいか、そこにはハーリー独りしかいなかった。
そして、ユリカの姿を見るなり、もともと赤かった顔をさらに赤くして、身体ごとユリカから背けた。
ユリカは浴槽の前でひざを折り、そばにあった湯桶を取り上げ、それでお湯を汲んで身体に数回かけた。
白い肌がわずかに桃色に染まる。
そして立ち上がって、湯の温かさを確かめながら、ゆっくりとつま先から身体を湯に沈めていった。
「いいお湯だねえ、ハーリー君」
適度にエコーのかかった声が響く。ユリカは、んーと伸びをしてハーリーを見た。
ハーリーはユリカから少し離れた位置で縮こまっていた。そして、ずっと顔を真っ赤にしたままうつむき、ユリカに視線を向けなかった。
「ん? どうかしたの、ハーリー君」
ユリカはハーリーのそばに寄った。
「う、うわっ」
ハーリーが叫んでユリカを避ける。
ユリカは無邪気な笑顔を見せた。
「そんなに恥ずかしがらなくていいってば。私は、ぜんっぜん、気にしないし」
すると、ハーリーは答えた。
「……ぼ、ぼくが気にするんです!」
ややあって、ユリカは声をあげて笑った。
ハーリーが小さな肩を震わせた。
「……ひどいです、提督……」
それを見て、ユリカはすまなそうな顔をした。
「ごめんね、ハーリーくん……それでね、私、ハーリーくんに、お礼を言わないといけないことがあるんだ」
「えっ?」
ハーリーが頭を上げた。
「ハーリーくん、嘆願書、ありがとうね」
「あ……」
「完璧な提督だって誉めてくれて、嬉しかったよ」
「そんな……」
ユリカはハーリーのそばに寄り、手をハーリーの髪の毛に伸ばして、くしゃくしゃに弄びはじめた。
「頭、洗ってあげるよ。ずっと入ってたから、のぼせちゃったでしょ」
……ハーリーは湯桶を逆さにしたものにすわり、そしてじっと下を向いていた。
その後ろにユリカがひざで立ち、程良く泡だったハーリーの髪の毛をワシワシと両手で洗っている。
「……提督がナデ……」
「ユリカさん」
ユリカがハーリーの言葉を直す。二人の時は”ユリカさん”と呼ぶように、つい先ほどハーリーに「命令」したのだった。
「あ、すいません……ユリカさんがナデシコに乗って、艦長、少し違いました」
「どうゆうふうに?」
「なんか……すごくリラックスしてるっていうか……前はもっと恐い感じがしました。でも、提督」
「ユリカさんっ」
「はいっ!……ユリカさんが乗って、すごく嬉しそうでした」
「そっか……」
ユリカは誰に見せるともなく慈愛の笑みを浮かべた。
「あの……艦長と昔、一緒の船にのっていらっしゃったんですよね」
「うん」
「どういう人だったんですか、艦長は」
「……かわいい子だったよ」
ハーリーが頭を上げる。鏡に映る顔が抗議していた。
「それじゃ、答えになってません」
「はは、そうだよね……うん、自分をしっかり持ってた。自分の居場所があって、自分のやるべきことがあって……それを、しっかりわかってた」
ユリカは、忘れ得ぬ日々を思い出すように、遠い目で言った。
「だから、ルリちゃんにとって、ナデシコって船は特別なものだと思うよ。あ、ほら、頭を下げて……」
ハーリーが言われたとおり頭を下げる。
「……艦長、昔のクルーに会うと、なんかすごく嬉しそうで、それで、ぼくは……なんかすごくさみしい気がして、それで……」
「うん、わかるよ」
「……ぼくもわかっていたんです。このままじゃ勝てないって。でも、そうは思っていても……」
「思っていても、できるとは限らないよね」
「はい。それで……ミナトさんに会って、わかりました。艦長の気持ち、わかった気がします」
「そっか……うん、ハーリーくん、えらい」
「えらい、ですか?」
「うん……本当になくさないと、私はわからなかったから……」
「えっ?」
「あ、ううん。なんでもないよ。ほら、シャンプー流すから、目をつぶってね……」
シャワーのお湯を出し、泡を洗い落とす。
「できあがりっと。リンスしてあげよっか?」
「いいえ、いりません」
「じゃ、またお湯に入ろうね」
はい、とハーリーは明るく返事した。
……再び二人は湯船につかっている。しかし、ハーリーはユリカと肩を並べていた。
「……ところで、ハーリー君」
「なんです?」
ユリカが思わせぶりな顔をする。
「ハーリーくんにとって、ルリちゃんって、どういう人なの?」
「ど、どうって……」
途端にハーリーの顔が赤くなった。それを見て、ますますユリカは嬉しそうな笑顔になった。
「やっぱり、大事な人?」
「大事……」
そうつぶやき、ややあって、ハーリーは確信に満ちた顔をした。
「はい。艦長は、僕にとって……お姉さんみたいな人ですから」
ユリカは何度も頷いた。
「そっかぁ……大事な人なんだね」
ハーリーはちょっと照れくさそうに頬を染めて、鼻の下を指でこすった。
「ルリちゃん、大事にしないと、だめだよ」
「わかりました」
ハーリーは凛々しい顔で言った。
「……あ、それで」
そして、さわやかな表情をしてユリカに向く。
「何かな?」
「ユリカさんの大事な人は、誰ですか……?」
ユリカは、わずかに表情を曇らせた。だが、すぐにもとの笑顔に戻すと、静かに言った。
「ふふ……ラーメン屋さん」
「ラーメン屋さん?」
ハーリーがきょとんとする。
遠い目をしてユリカが言う。
「そ、ラーメン屋さん……アマノガワにいる、ラーメン屋さん」
ユリカは、目を細めた。そして、両手でお湯をすくって顔を拭い、タオルをとって胸の前に垂らし、ハーリーに目を合わせずに立ち上がった。
「そろそろあがろっか、ハーリーくん。フルーツ牛乳飲もうよ。おごってあげるからね……」
☆
翌日、ユリカはヒラツカシティーになるネルガルの研究所にいた。
昨夜、ハーリーをルリの部屋に送ったあと、プロスペクターのもとに連絡をいれた。そして、今朝はルリのもとに連絡をいれた。その時ルリは喪服を着ていた。ユリカがそこに行くというのを知って、ルリは残念そうな顔をしていた……しかし、考え直すようには言われなかった。
ユリカは、ボソンジャンプフィールドを形成するクリスタル活性磁場の中央に立っていた。
バイザーをつけ、隔壁についているドアを見つめる。
やがて、2世紀前の宇宙飛行士のような格好をした少年がそこから現れ、ユリカの許にひょこひょこと歩いてきた。
「おはよう、ハーリーくん」
「おはようございます、ユリカさん」
フルフェイスのヘルメット状のものをかぶったハーリーが挨拶する。
「でも、まさか、ユリカさんにナビゲートしていただくなんて……」
「うん……ホントは他の人にしてもらうはずだったんだけど、替わってもらったの」
「どうしてです?」
「ハーリーくんだから、ってことにしておこうよ……昨日はよく眠れた?」
「あ、はい」
「なんか、ハーリーくん、操り人形みたいだね」
くすっとユリカが笑う。
「はい、なんでも、ぼくの体組織や、精神の状態を見るものなんだそうです」
ユリカはうなずき、そして口許に柔らかい笑みを浮かべた。
「昨日は、ルリちゃんのお部屋に泊まったんですって?」
うっ、とハーリーは絶句する。
「な、なぜ、それを……」
「ルリちゃんに電話して聞いたの」
すると、オペレーターの声が入った。
”テンカワ准将、そろそろいいですか?”
「了解しました……さ、ハーリーくん、行きましょうか。行き先のイメージは私がするから、ハーリー君は目を閉じて、とにかくリラックスしてね」
ハーリーは言われたとおり目を閉じる。ユリカもそれを見て、目を閉じた……。
”月、ネルガル研究所へ……”
……数秒後、二人の姿がその場から消えた。
☆
連合宇宙軍テンカワユリカ准将のナビゲートによって、マキビハリ少尉はネルガル重工の月研究所に無事到着した。これより月研究所の責任者・エリナ=キンジョウ=ウォンはND-001c通称ナデシコcの動作実験を即日開始した。また、ホシノルリ少佐ら元ナデシコクルーの乗るシャトルの到着後、ナデシコcを大規模Yユニットによって火星へボソンジャンプさせることとなった。
……そして同時刻、ホシノルリは、テンカワアキトとの2年ぶりの邂逅を果たしていた。
(第2章・完。ただし、第2章9’へ続く)