第二章


 

 

 ピンポンと、3回目のベルを押す。

 だが、一向に中からの返事がない。

 707号室のドアの前に立ち、ユリカはふうとため息をついた。

 小脇には風呂の道具が入った桶を抱えている。

「留守だったか……電話してから来ればよかったなぁ」

 そうぽつりと独り言をつぶやき、歩き出そうと左を向く。

 すると、廊下の向こうに男の子の姿が見えた。

「あ、ハーリーくん」

 それは、髪の毛をハリネズミのようにぼさぼさにしたままのハーリーだった。手に何か袋を持っている。

「あ……提督」

 ハーリーは気まずい顔を作った。

 ユリカはハーリーのそばに寄った。あわててハーリーは持っていた袋を後ろに隠す。だがユリカの方が背が高いため、上からでもそれが何かがわかった。

「あ、お菓子だね……わかった、それ、ル……ああっもう、ハーリーくんだからいっか……ルリちゃんと食べようとしたんだ」

 するとハーリーはちょっと戸惑った顔を見せた。ルリちゃんという呼称を、ハーリーの前で使ったのは初めてだったからだ。

「でも、ルリちゃん、お留守みたいだよ」

 そうですか、と応えるハーリーの顔が曇る。ふふ、とユリカは笑った。

「図星だね、ハーリーくん」

 思わせぶりな口調でユリカがからかう。

 ハーリーはどぎまぎして首をぶるんぶるん左右に振り、そして話題を変えようと愛想笑いをした。

「あ、いえ、なんでもないです。あはは……それより、提督はどうしたんですか?」

 するとユリカは持っていた風呂桶をハーリーの目の前に差し出した。

「……お風呂、ですか?」

 ハーリーが不審そうに言う。

「そ……ちょっと色々とあってね、今日は広いお風呂に入ろうと思ったの。それで、一人で入ってもつまらないから、ルリちゃんを誘いに来たんだけど……」

 ふうと、またユリカはため息をつく。

 そして、ふと、何かを思いついた。

「そうだ、ハーリーくん」

 ハーリーの目をのぞき込む。ハーリーは顔を真っ赤にし、どぎまぎして答えた。

「な、なんでしょう」

「とし、いくつ?」

「え?……あ、じゅ、11です」

 その答えに、ユリカは頷いた。

「じゃ、OKだね」

「えっ? OKってなにが……」

 状況が把握できない様子でハーリーは尋ねた。

 それに、ユリカは平然と答えた。

「一緒にお風呂入ろうよ」

「ええっ……!」

 ハーリーは目を見開き、驚きのあまり絶句した。

「そ、そんな、ぼく、男ですよ」

「子どもだから大丈夫だよ」

 あっけらかんとユリカは言う。

「え……遠慮しておきます……は、ははは……」

 ユリカは不満そうな顔をする。

「どうしてえ?」

「そ、それは……」

 そのままハーリーは返答しなかった。

 ユリカが満面の笑みを見せた。

「じゃあ、決まりだね。行きましょう、行きましょう♪」

 引きつった顔を見せるハーリーをものともせず、その肩を押しながらユリカは歩き出した。

 かぽーんという音が大浴場に響く。

「おまたせ、ハーリーくん」

 タオルを胸の前に垂らして、ユリカは浴場に現れた。

 長い緑の黒髪をまとめて上げている。白いうなじがのぞく。

「髪をあげてたから、遅くなっちゃって……」

 そう言って湯けむりの向こうへと歩き出す。

 時間帯のせいか、そこにはハーリー独りしかいなかった。

 そして、ユリカの姿を見るなり、もともと赤かった顔をさらに赤くして、身体ごとユリカから背けた。

 ユリカは浴槽の前でひざを折り、そばにあった湯桶を取り上げ、それでお湯を汲んで身体に数回かけた。

 白い肌がわずかに桃色に染まる。

 そして立ち上がって、湯の温かさを確かめながら、ゆっくりとつま先から身体を湯に沈めていった。

「いいお湯だねえ、ハーリー君」

 適度にエコーのかかった声が響く。ユリカは、んーと伸びをしてハーリーを見た。

 ハーリーはユリカから少し離れた位置で縮こまっていた。そして、ずっと顔を真っ赤にしたままうつむき、ユリカに視線を向けなかった。

「ん? どうかしたの、ハーリー君」

 ユリカはハーリーのそばに寄った。

「う、うわっ」

 ハーリーが叫んでユリカを避ける。

 ユリカは無邪気な笑顔を見せた。

「そんなに恥ずかしがらなくていいってば。私は、ぜんっぜん、気にしないし」

 すると、ハーリーは答えた。

「……ぼ、ぼくが気にするんです!」

 ややあって、ユリカは声をあげて笑った。

 ハーリーが小さな肩を震わせた。

「……ひどいです、提督……」

 それを見て、ユリカはすまなそうな顔をした。

「ごめんね、ハーリーくん……それでね、私、ハーリーくんに、お礼を言わないといけないことがあるんだ」

「えっ?」

 ハーリーが頭を上げた。

「ハーリーくん、嘆願書、ありがとうね」

「あ……」

「完璧な提督だって誉めてくれて、嬉しかったよ」

「そんな……」

 ユリカはハーリーのそばに寄り、手をハーリーの髪の毛に伸ばして、くしゃくしゃに弄びはじめた。

「頭、洗ってあげるよ。ずっと入ってたから、のぼせちゃったでしょ」

……ハーリーは湯桶を逆さにしたものにすわり、そしてじっと下を向いていた。

 その後ろにユリカがひざで立ち、程良く泡だったハーリーの髪の毛をワシワシと両手で洗っている。

「……提督がナデ……」

「ユリカさん」

 ユリカがハーリーの言葉を直す。二人の時は”ユリカさん”と呼ぶように、つい先ほどハーリーに「命令」したのだった。

「あ、すいません……ユリカさんがナデシコに乗って、艦長、少し違いました」

「どうゆうふうに?」

「なんか……すごくリラックスしてるっていうか……前はもっと恐い感じがしました。でも、提督」

「ユリカさんっ」

「はいっ!……ユリカさんが乗って、すごく嬉しそうでした」

「そっか……」

 ユリカは誰に見せるともなく慈愛の笑みを浮かべた。

「あの……艦長と昔、一緒の船にのっていらっしゃったんですよね」

「うん」

「どういう人だったんですか、艦長は」

「……かわいい子だったよ」

 ハーリーが頭を上げる。鏡に映る顔が抗議していた。

「それじゃ、答えになってません」

「はは、そうだよね……うん、自分をしっかり持ってた。自分の居場所があって、自分のやるべきことがあって……それを、しっかりわかってた」

 ユリカは、忘れ得ぬ日々を思い出すように、遠い目で言った。

「だから、ルリちゃんにとって、ナデシコって船は特別なものだと思うよ。あ、ほら、頭を下げて……」

 ハーリーが言われたとおり頭を下げる。

「……艦長、昔のクルーに会うと、なんかすごく嬉しそうで、それで、ぼくは……なんかすごくさみしい気がして、それで……」

「うん、わかるよ」

「……ぼくもわかっていたんです。このままじゃ勝てないって。でも、そうは思っていても……」

「思っていても、できるとは限らないよね」

「はい。それで……ミナトさんに会って、わかりました。艦長の気持ち、わかった気がします」

「そっか……うん、ハーリーくん、えらい」

「えらい、ですか?」

「うん……本当になくさないと、私はわからなかったから……」

「えっ?」

「あ、ううん。なんでもないよ。ほら、シャンプー流すから、目をつぶってね……」

 シャワーのお湯を出し、泡を洗い落とす。

「できあがりっと。リンスしてあげよっか?」

「いいえ、いりません」

「じゃ、またお湯に入ろうね」

 はい、とハーリーは明るく返事した。

……再び二人は湯船につかっている。しかし、ハーリーはユリカと肩を並べていた。

「……ところで、ハーリー君」

「なんです?」

 ユリカが思わせぶりな顔をする。

「ハーリーくんにとって、ルリちゃんって、どういう人なの?」

「ど、どうって……」

 途端にハーリーの顔が赤くなった。それを見て、ますますユリカは嬉しそうな笑顔になった。

「やっぱり、大事な人?」

「大事……」

 そうつぶやき、ややあって、ハーリーは確信に満ちた顔をした。

「はい。艦長は、僕にとって……お姉さんみたいな人ですから」

 ユリカは何度も頷いた。

「そっかぁ……大事な人なんだね」

 ハーリーはちょっと照れくさそうに頬を染めて、鼻の下を指でこすった。

「ルリちゃん、大事にしないと、だめだよ」

「わかりました」

 ハーリーは凛々しい顔で言った。

「……あ、それで」

 そして、さわやかな表情をしてユリカに向く。

「何かな?」

「ユリカさんの大事な人は、誰ですか……?」

 ユリカは、わずかに表情を曇らせた。だが、すぐにもとの笑顔に戻すと、静かに言った。

「ふふ……ラーメン屋さん」

「ラーメン屋さん?」

 ハーリーがきょとんとする。

 遠い目をしてユリカが言う。

「そ、ラーメン屋さん……アマノガワにいる、ラーメン屋さん」

 ユリカは、目を細めた。そして、両手でお湯をすくって顔を拭い、タオルをとって胸の前に垂らし、ハーリーに目を合わせずに立ち上がった。

「そろそろあがろっか、ハーリーくん。フルーツ牛乳飲もうよ。おごってあげるからね……」

 翌日、ユリカはヒラツカシティーになるネルガルの研究所にいた。

 昨夜、ハーリーをルリの部屋に送ったあと、プロスペクターのもとに連絡をいれた。そして、今朝はルリのもとに連絡をいれた。その時ルリは喪服を着ていた。ユリカがそこに行くというのを知って、ルリは残念そうな顔をしていた……しかし、考え直すようには言われなかった。

 ユリカは、ボソンジャンプフィールドを形成するクリスタル活性磁場の中央に立っていた。

 バイザーをつけ、隔壁についているドアを見つめる。

 やがて、2世紀前の宇宙飛行士のような格好をした少年がそこから現れ、ユリカの許にひょこひょこと歩いてきた。

「おはよう、ハーリーくん」

「おはようございます、ユリカさん」

 フルフェイスのヘルメット状のものをかぶったハーリーが挨拶する。

「でも、まさか、ユリカさんにナビゲートしていただくなんて……」

「うん……ホントは他の人にしてもらうはずだったんだけど、替わってもらったの」

「どうしてです?」

「ハーリーくんだから、ってことにしておこうよ……昨日はよく眠れた?」

「あ、はい」

「なんか、ハーリーくん、操り人形みたいだね」

 くすっとユリカが笑う。

「はい、なんでも、ぼくの体組織や、精神の状態を見るものなんだそうです」

 ユリカはうなずき、そして口許に柔らかい笑みを浮かべた。

「昨日は、ルリちゃんのお部屋に泊まったんですって?」

 うっ、とハーリーは絶句する。

「な、なぜ、それを……」

「ルリちゃんに電話して聞いたの」

 すると、オペレーターの声が入った。

”テンカワ准将、そろそろいいですか?”

「了解しました……さ、ハーリーくん、行きましょうか。行き先のイメージは私がするから、ハーリー君は目を閉じて、とにかくリラックスしてね」

 ハーリーは言われたとおり目を閉じる。ユリカもそれを見て、目を閉じた……。

”月、ネルガル研究所へ……”

……数秒後、二人の姿がその場から消えた。

 連合宇宙軍テンカワユリカ准将のナビゲートによって、マキビハリ少尉はネルガル重工の月研究所に無事到着した。これより月研究所の責任者・エリナ=キンジョウ=ウォンはND-001c通称ナデシコcの動作実験を即日開始した。また、ホシノルリ少佐ら元ナデシコクルーの乗るシャトルの到着後、ナデシコcを大規模Yユニットによって火星へボソンジャンプさせることとなった。

……そして同時刻、ホシノルリは、テンカワアキトとの2年ぶりの邂逅を果たしていた。

(第2章・完。ただし、第2章9’へ続く)

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