第三章
１
その時、ふわっと足下をすくわれたような感覚がした。
空気の比重が、心なしか軽い気がする。
だが、それが、地球とは違う重力圏、すなわち月に到着したことを示していた。
ゆっくりと目を開け、まず目の前にいるハーリーの姿を確認する。
ハーリーは先程と変わらず、すっかりリラックスした様子で目を閉じている。
安堵のため息をつき、ユリカはハーリーの肩を軽くたたいた。
「ハーリーくん、ついたみたいだよ」
はっとしてハーリーが目をあける。
「あ……えっ……もう着いたんですか？」
その顔には驚きがあった。ユリカが笑顔でうなずく。
ハーリーは不審そうに辺りを見回す。
「……本当ですか？」
”本当よ”
すると突然、マイク越しの女性の声がその場に響いた。
ユリカは天井付近のオペレーション室を見上げた。
そして、口許に笑みを浮かべる。
そこには、なにやら慌てているスタッフ数名を背景にして、エリナ＝キンジョウ＝ウォンが意味ありげな笑顔で二人を見下ろしていた。
☆
「それで、さっそくだけど、ナデシコｃを見てもらえるかしら？」
型どおりのあいさつを交わした後、ネルガル重工開発部部長・エリナ＝キンジョウ＝ウォンのその言葉で、ユリカとハーリーはドックに来ていた。
ドックに眠るナデシコｃ……外装の塗装の一部がまだ金属の色を剥き出しにしていたが、それは優美な姿を保ってそこにあった。
大きさとしてはナデシコａとほぼ同程度。ただ、それよりも下部が幾分大きく見える。
ハーリーは手すりに身を乗り出してナデシコｃを見入っていた。
それを好意的な視線で横目に見ながら、エリナは腕を組んで余裕の笑みを浮かべ、ユリカに言った。
「これがナデシコｃ。おそらく現段階で最強の戦艦よ。すでに工程の９３％は終了しているわ」
「残っているのはなんです？」
それに対して、ユリカはごく実務的な質問をする。
「あら、聞いてなかったの？ 戦闘能力的には問題ないわ。あとは、外装と、艦内部の居住性が不完全ってところね」
「その割に、残り７％ってのは、大きすぎませんか？」
「……あら、鋭くなったわね」
エリナはくすっと笑った。
ユリカは凛々しい笑顔で答える。
「艦長として、当然です」
「え、提督が艦長なんですか？」
すると、ハーリーの驚いた声が聞こえてきた。こちらを見ている。
ユリカはちょっと困った顔をしてハーリーに答えた。
「あ、うん、今回の作戦に限ってね……でも、実際はル……ホシノ少佐が運用することになるから。私はただのお飾り」
ハーリーは完全とはいかないまでも納得して、再びナデシコｃをまぶしい目で眺めはじめた。
その無邪気な様子を見てエリナがやや表情を和らげ、そして言った。
「正確には２点ほど戦闘能力的に問題があるわ」
「何です？」
ユリカが不審な顔を見せる。
「相転移砲の指向性が不安定なのと、グラビティブラストの照準がやや甘いことよ……ま、実用上は問題ないと思うけど」
ユリカはやや眉を寄せた。
「相転移砲はいいとして、グラビティーブラストは何とかなりませんか？」
すると、エリナは組んでいた腕を解いて腰に当てた。
「そうね、できる限りなんとかするわ……ま、実際は思兼のご機嫌ってのもあるんだけどね」
そしてハーリーを向き、子供向きの優しい口調で言った。
「ハリ君。さっそくだけど、思兼との接続実験、いいかな？」
「あ、はい、わかりました」
ハーリーは元気よく答えた。エリナは柔らかい笑顔を作った。
「いい子ね、じゃ、行きましょう……それで、あなたはどうするの、ミスマルユリカ？」
「テンカワです、エリナさん……私は、ちょっと行くところがありますので。ハーリーくん、よろしくお願いしますね」
☆
月にある連合宇宙軍第２艦隊司令部、そこをユリカは訪れていた。
表向きは、総司令・ミスマルコウイチロウの視察の日程の伝達……だが、実際は、ホシノルリと旧ナデシコクルーの乗るシャトルの護衛についての最終的な確認を行うためである。
ナデシコｃによる火星奪還作戦の細部については、第二艦隊の上層部にしか知られていない。したがって、護衛作戦の名目はあくまでごく普通の民間船の護衛ということになる。だが、ただの民間船だとあなどって護衛をされるわけにはいかない。よって、この作戦を行うに際しては、与えられた任務を黙々とこなす実直な部隊が必要であると、ユリカは前もってミスマル総司令を通じて第２艦隊に打診してあった。
「……それで、テンカワ准将」
そして、第２艦隊司令は言った。
「偽装した民間船には、ホシノルリ少佐が乗っているのだったね」
「はい、そのとおりです、閣下」
すると、司令は顔をほころばせ、何度か頷いた。
「それは良かった。実は、本作戦に適任の部隊がいてね……まさに、彼らをおいて他にはおらんよ」
ユリカも笑顔でうなずく。
そして、司令は一言つけくわえた。
「……もっとも、准将の言っていたのと多少違うかもしれないがね」
……その言葉を受けて、ユリカはその部隊の控え室に向かっていた。呼び出そうかとも言われたが、それを断った。司令の色眼鏡でなく、自分の目で確かめたいと思ったからだった。だから、敢えてアポイントメントも取っていない。
ユリカはドアの前に立った。
「第７分艦隊……ここだな」
そして身なりを整えようとした時、部屋の中から複数の男の感嘆の声が聞こえてきた。
一瞬、眉間にしわを寄せたが、それ以上とくに気にしないで、ユリカはドアを普通にノックした。
しかし、中から反応はなかった。
首を傾げ、今度はやや強くドアを叩いた。
それでもなお、中からは返事がなかった。
中にいることは確かなのだ。今度はドンドンと強くノックした。
「……馬鹿者！ とっくに始まってるぞ！ 勝手に入ってこい！」
むかっとして、ユリカは思いっきり勢いよくドアを開けた。
「テンカワユリカ准将、入ります！……えっ……ええっ？」
意気込んでドアを開けたユリカは、その向こうの光景を目の当たりにして、怒りを忘れて呆然とその場に立ちつくした。
１２畳ほどの部屋、その壁一面いっぱいに、ある少女の写真やら軍内報の切り抜きやらが貼ってある。そして、右側面の壁には少女の等身大のポスターがあった。
部屋の中には大型のプロジェクターがあり、その画面には少女が、かつて最年少艦長に就任した当時に受けた公営放送のインタビューの映像が映っていた。
それらはまさしく、ホシノルリその人のものだった。
スクリーンの前には、かぶりつきの体勢で男が７人ほど集まっていた。だが、その視線は突然の訪問者であるユリカに向けられていた……驚愕と困惑と、そして非難が入り交じった視線が。
「……あ……あはは、あはははは。どうもどうも、失礼しましたっ！」
ようやくユリカは自分を取り戻して笑ってごまかし、ドアを思いっきり閉めて、壁にもたれかかった。
「はぁはぁ……あー、びっくりしたぁ」
すると、かちゃっとドアが開いた。
「あの……テンカワユリカ准将でいらっしゃますか？」
若い士官がドアからちょっと顔を出す。
「は、はい、そうです」
ユリカは、引きつった笑顔で答えた。
男は何事もなかったような笑顔で言った。
「こんなところで”星空の女神”と出会えるとは光栄の極み……自分は、第２艦隊所属第７分艦隊隊長、アララギ中佐であります。さ、どうぞお入りください」
……ユリカは来賓用のソファに座り、落ち着かないそぶりを見せていた。
何しろ、壁一面にルリの写真が貼ってあるのだ。その中には、どこから手に入れたのか、”一番星コンテスト”の時の写真まであった。先程までいた士官たちが去ったのがまだ救いであったかもしれない。たしか、”鑑賞会”とか言っていた気がする……。
それに対して、アララギ中佐は自信に満ちた顔で言った。
「ホシノルリ少佐……宇宙（そら）に咲きし白い花、”電子の妖精”の護衛をつとめさせていただくことになり、我が分艦隊一同、光栄の極みであります」
「は、はは……よろしくお願いします」
ユリカはつとめて笑顔をつくって答えた。
「まかせておいてください、准将。我が精鋭たちも意気盛んにその日がくるのを心待ちにしております。我らが命にかえても、”妖精”は無事にお迎えいたします。ところで……」
そう言って、不意にアララギはずいっとユリカに寄った。おもわずその勢いにのけぞるユリカ。
「准将はナデシコａの艦長時代、ホシノ少佐と乗艦されていたそうですが……」
声を潜めて言う。
そのただならぬ様子に、ユリカは表情を固くした。
「実は……作戦遂行にあたり、非常に重要なお願いがあります……そう、我が分艦隊の命運を分けるくらいに重要な」
「何でしょう？」
ユリカは真剣な表情をする。
そして、アララギは言った。
「……ホシノ少佐の、”一番星コンテスト”のＶＣ、お持ちではありませんか？」
☆
第２艦隊司令部を辞してネルガル重工の研究所に戻る前に、ユリカは研究所に併設されているネルガルの博物館を訪れた。
ネルガル重工の歩みを技術史的な観点で説明したもの……それがその博物館の意義であったが、中でも展示品の目玉は、退役したナデシコａそのものだった。
他のものに目をくれず、ユリカはナデシコａの展示に向かった。
ナデシコは、ドックに係留されているかたちで展示されていた。
ユリカの立っている位置は、ちょうどナデシコの艦橋部の真っ正面にあたった。
まぶしい視線を艦橋に向ける。
その姿勢は、おのずと艦長卓の前で指揮を執っていた時のものと同じくなった。
不意に視線を脇にずらす。
そこには展示品の説明書きがあった。
”ND-001 ネルガル重工１番艦 ナデシコ”
その後に技術的な説明が入っている。ユリカはそれをとばして読み進める。
”……木連軍を撃破し、火星の極冠遺跡を奪還、戦争を終結させるに至る”
ユリカはふっと笑った。
それが嘘であることを、ユリカは知っている。あのとき、ユリカは”英雄”になれなかった。結果として戦争は終わったのだ。終わらせたのではない。
そして、次の文言に目を移した。
”艦長は御統（ミスマル）ユリカ（当時２０歳）”
それを見てユリカは切ない笑顔を浮かべ、ナデシコに向き直った。
「……ただいま、ナデシコ……ミスマルユリカは、月に戻ってきたよ」