第三章
「教えてあげましょうか……この部屋にいる彼のこと」
5
その顔には侮蔑も焦りもなく、ただ澄み切った瞳がユリカに向けられていた。
ユリカはうなずき、ベッドに腰を下ろした。そして手にしていたフォトフレームを、またじっと見つめた。
「……彼はブラックサレナのパイロット、そして、A級ジャンパーよ。
2年前、”火星の後継者”に、誘拐されたの……事故を装ってね。奴らは、ボソンジャンプの独占を目的に、彼や他のA級ジャンパーを誘拐して実験台にしていたの。そして、同じように奴らの研究所に送られたわ」
「……知ってます」
写真を見つめながら、ユリカはつぶやくように言った。
「そうね……アマテラスからデータを持ってきたの、あなただものね」
ユリカは何も応えなかった。
エリナは続けた。
「実験台にされると言っても、最初から非人道的に扱われたわけではないわ。自らの意思で実験に参加する者もいれば、説得によって意思を曲げた者、脅迫に屈した者もいる……でも、彼は最後の最後まで、奴らに従わなかったの。
そして……彼は一番ひどい実験にまわされたわ」
ユリカは息をのんだ。
「遺跡へイメージを伝達する能力には2種類あるの。一つは目的物を到達地点にどれくらい正確に送れるかというイメージ伝達率。そしてもう一つは、どれくらいの質量をもつ物体を送れるかというイメージ増幅率。
この能力を、奴らは人為的に上げようとしていたの。A級ジャンパーを遺跡に融合するっていう研究も進んでいたみたいね。でも、もっと安易で非道な方法が選ばれた。それが……ナノマシーン注入によるIFS体質の強化。ジャンパーと呼ばれる体質がナノマシーンによる遺伝子情報の書き換えによって形成されるのなら、それを人為的に操作することもまた可能であると考えられたの。
その実験に、”火星の後継者”に従わないA級ジャンパーが回されたのよ。どこにナノマシーンを寄生させることで効果的に能力を増幅できるかという実験と、そして、人体の限界……すなわち、ナノマシーンの注入に人間がどれくらい耐えられうるかという耐久実験のモルモットとして。
彼は、後者だったの……」
ぴくっと、ユリカは肩を振るわせた。
「同じ頃に、ネルガルがその情報をつかんだわ。でも、意見は割れていた。その頃、ネルガルは戦争責任を問われていてね、表だって身動きがとれなかった。
私は助け出すべきだって言ったわ……もちろん、開発責任者としてね。このまま見過ごしてはA級ジャンパーをすべて奴らにおさえられてしまうし、奴らのバックについているクリムゾングループの連中にボソンジャンプの研究の成果を押さえられるのも得策ではない。でも、この時期にネルガルが動くだけの利益も見いだせないという意見も多かった。
結局……ネルガルのシークレットサービスが動いたの。会長の独断でね」
エリナは冷徹な視線でユリカを一瞬だけ撫でた。
「シークレットサービスは奴らの研究所を強襲した。けれど、奴らの実働部隊……北辰にはばまれてね。でも、何とか被験者の収容されている建物に到達したけど……北辰は、あっさりと被験者のいる棟を爆破したわ。
助け出せたのは、彼と、そして8歳の女の子の二人だけ……ネルガルのラボから連れ去られた子だってのは、偶然かしらね。
シークレットサービスも半壊。結果として強襲作戦は失敗に終わったわ。それ以降、ネルガルはナデシコcの完成まで積極的に動くことはないという決定をしたの」
そこで一つエリナは息を吐いた。
「助け出されたと言っても、彼は瀕死の状態だった。もう、奴らからは棄てられていたみたいでね、衰弱が激しかったの。三日後、彼は意識を取り戻したわ。でも……」
エリナは遠い目をした。
「彼は目を開けたまま、じっと、こちらを見ていた……見ているだけだった……」
そして目をつぶる。
「……あの眼、忘れられない……」
つぶやくようにそう言い、エリナは再び視線をもとに戻した。
「彼は身体を動かすことができなかったの。奴らの実験で埋め込まれたナノマシーン、それが形成する補助脳がね……彼の脳を圧迫していた。
可能な限りのナノマシーン除去作業はしたわ。彼は身体を動かせるようになった。しゃべれるようにもなったし、走れるようにもなったし……動作は前とほぼ同じようにできるようになった。でもね、感覚は難しかったの。脳が相手だから、下手にいじくれなかった。無理に除去はできなかった」
そしてエリナは吐き捨てるように言った。
「左半身の痛点の不能、右半身に至っては腰から下は感覚そのものがない。視力は乱視がひどい状態で、聴力と嗅覚は半分しかない。
そして……味覚はどうしても戻らなかった」
ユリカの表情が凍った。
わなわなと震えだし、そして、震えるその身体を抱きしめた。
「私は、そのことを、彼に言ったわ……言ったわよ、言わなきゃいけないことなんだから!」
エリナは叫んだ。やがて、呼吸を落ち着かせ、続けた。
「……彼は絶望してた。私を部屋から追い出して……そして……何度も何度も誰かの名前を呼んで、泣いてた……。
それから三日間、彼は病室に閉じこもっていたわ。それまで平然と食べていた食事もとらないでね……どうせ食べても、何もわからないからって……惨めになるからって。
でも、四日目に、私に言ったわ」
エリナはユリカに向き直った。
「自分には、愛している人がいる。今すぐに会いたいと思う。でも、自分は、もう、以前の自分ではない。だから、その人のところには戻れない。戻っても何もできないし、また奴らに襲われたら、今度はその人まで自分と同じ苦しみを味わわせることになるかも知れない。だから、もう、その人とは会えないって……自分は死んだ人間なんだから、それでいいって」
その時、ユリカの身体から力が抜けていった。
愕然としてだらんと力なく腕を下ろし、ベッドに手をついて、うなだれる。
「でも、こんな苦しい思いをするのは、自分一人でたくさんだ。もう、誰にも、自分と同じような惨めな思いをさせたくないって言ってね……。
彼は奴らと戦うことにしたの。戦闘訓練はかなり過酷なものだったらしいけど、でも、彼は耐え抜いたわ。復讐っていうこともあるけど、でも彼は他に戦う理由を見いだしていた……陳腐よね、愛する人のため、みんなのためって。でも、私は……。ふふっ、いいわよね、私のことは。
ネルガルは、彼にブラックサレナを与えたわ。そして、ナデシコcのもう一つの試験艦だったユーチャリスには、彼と一緒に助けだした女の子を……ネルガルのラボ出身だけあって、思兼との相性問題はほとんど出なかった。彼は、子供を戦いの道具として利用することに強く反対したけど……でも、彼女しか操縦適格者がいなかったのよ。
そして、”火星の後継者”……その隠れ蓑となっているヒサゴプランによって造られたコロニーを破壊しはじめたの」
再びエリナは息を吐いた。そしてまた遠くを見やる。
「それからの彼は破滅的だった……よく知っているはずの私ですら、恐怖を感じたくらいにね。
ある時、彼に聞いたわ。そうしたら、彼はこう答えたの……もう、今生きているのはオマケなんだって。自分が死んでも、悲しむ人間はいないだろうってね。
でもね……彼は一つだけ欲しがったものがあったの。それがそのフォトフレームよ」
うなだれたまま、じっと白いシーツを見つめていたユリカは、その言葉にはっとして、フォトフレームに視線を移した。
「……攻撃から帰ってくるとね、それをじっと眺めて……誰かの名前を呼んで、そして、謝っていたわ。彼にとって、それが唯一のよりどころだったのかも知れない」
きらっと、エリナの瞳が光った。
「”アマテラス”攻撃から帰ってきたとき、めずらしく彼から私に話しかけてきたわ。
なつかしい人の声を聞いた。大事な人の声をきいた。愛している人の声を聞いた。元気そうだった。うまくやっているようで、安心した。
自分の選んだ道だから、後悔なんかしていないけど……もう、あの楽しかった時には戻れないんだなって思うと……。
彼、涙を流したわ……涙が流れていることすら、知らないでね」
エリナの頬に涙が伝わる。
ユリカはただ、すがるように写真を見つめていた。
「彼はいま、地球に行っているわ。奴らとの最後の決戦が近いから、色々と身の回りを片づけたいんだって言ってね……
これが……私の知っている、彼のすべてよ」
……静寂が、訪れる。
一滴(ひとしずく)、フォトフレームの上の彼に弾けた。
「強いんですね、その人は……」
ユリカはそうつぶやき、ゆらりと立ち上がった。
机の前に立ち、フォトフレームをそっと置く。
そして、左手を目の前に掲げ、薬指にはめられた指輪を愛おしげに見る。
「私は……そんなに強くないですよ……」
その指輪に右手をかけ、指輪をはずす。
それをフォトフレームの前にそっと静かに置いた。
指輪がキラキラと輝き、そして音を立てて机の上を舞う。
やがて再び静寂が包む。
ユリカは振り返って歩き出し、エリナの横をすり抜けた。
「……明日、よろしくお願いします……」
エリナは、ユリカの肩をつかんだ。
「待って!……ナデシコcを火星にとばすA級ジャンパーが必要なの……彼が来るまで、この部屋を使っていてもいいわ」
「私は……ナデシコの艦長ですから……」
ユリカは、エリナを肩越しに向いた。
凛とした笑顔……だが、その瞳はきらきらと乱反射していた。
そしてバイザーを装着し、左手をポケットの中につっこみながら、ユリカは背を向けて部屋を出た。