第三章
6
”……ユリカは待ってる。ずっと、待ってるからね……”
がばっと、ユリカはベッドから半身を起こした。
しばらく呆然としてあたりを見回し、そして、何かに気づくと、沈鬱な面もちでうなだれた。
そして、何もない左手を見つめる。
「私……夢みてた……」
☆
始業式の朝……ラッシュ時の電車の中にユリカはいた。
気分は憂鬱そのものだった。
また、このラッシュに毎日もまれることになるのかと思うと、どうして気分が晴れようか。
それに、今日は雨。いつもの5割増しくらいの乗客が乗っている。
早く駅に着かないか、ただそれだけを願っていたその時、電車が急ブレーキをかけて揺れた。
「きゃっ!」
その反動で、身体が後ろに投げ出され、どんと、誰かにぶつかってしまった。
「あ、すいませ……」
吊革から手を離していたのは自分のミス。だから、ユリカは素直に謝ろうと振り向いた。
そこには自分の通っている高校の制服を着た少年が立っていた。
どこか冷めたふうな雰囲気を漂わせている。
「大丈夫か?」
一瞬、ユリカの心がきゅんと鳴った。
☆
朝、ユリカは校門の前に立っていた。
ちらっと時計を見る。
そろそろだ……。
シャーッという音と共に、向こうの角を曲がって、自転車に乗った彼が現れた。
ユリカが微笑む。
自転車はユリカの前に止まった。
「おはよう、天河くん」
「おはよう」
彼は自転車を降り、そしていつものように駐輪場へ歩きだそうとした時、突然彼はユリカの顔をのぞき込んできた。
驚きのあまり、ユリカは固まる。
「……目ヤニ、ついてるぞ」
その言葉に、ユリカは顔を真っ赤にして、あわてて目を数回こする。
「ええっ……とれた??」
アキトは笑いながら、いたずらっぽい目で、もう一回ユリカの顔をのぞき込んだ。
「嘘……綺麗な目だな」
「……そ、そうかな」
頬を染めてちょっと照れるユリカ。それをまた笑顔を返す彼がいた。
☆
土曜の午後、学校が引けた二人は映画館への道を歩いている。
彼は自転車を押し、そして今日見る映画の内容を熱心に話していた。
「……それでさ、ジョーってのがまたかっこよくて……」
ユリカは嬉しそうに彼を見つめていた。
話の内容よりも、彼と二人並んで歩いているだけで、嬉しかった。
「……アキトくん」
ユリカが話しかける。
「ん?」
「そのアニメ、好き?」
「うん、好きだ」
彼は大きくうなずいた。
「そっかぁ……」
ユリカは笑顔を見せた……その端に、少しの嫉妬を見せながら。
☆
茜色の夕焼けが差し込む校庭の水飲み場で、部活を終えた彼が顔を洗っていた。
音を立てないよう、そっと背後に立って、彼が気づくのを待ってみる。
彼が水を止める。
「はい」
タイミングを見計らってタオルを差し出す。
「……どうも……って?」
何気なく受け取って顔を拭い、そしてそこでようやく彼は気づいてあわてて顔を上げた。
「ユリカ……」
ユリカはふふっと、笑った。
「アキトが見えたから、来ちゃった」
すると彼は少し顔を赤くした。
「……ありがとな、これ……」
そう言ってタオルをユリカに返した。
「明日、試合勝てそう?」
「ああ……最後の大会だからな、なんとか勝ちたいと思ってるんだ」
「明日はお弁当つくって、応援に行くからね」
「いいよ……」
照れくさそうに彼は言う。でも、その顔はまんざらでもないという表情だった。
ユリカは満面の笑みでうなずいた。
「うん、ユリカが応援するから、必ず勝てるよ」
☆
どこまでも青い空、どこまでも青い海。
そこに、はしゃいでいるユリカと彼の姿があった。
この日のために買ったセパレートの水着を着て、彼に水をかけて遊んでいる。
彼はちょっと目のやり場に困っているように、ためらいがちにユリカに水をかける。
それがおもしろくて、ユリカはかえって彼のそばに近づいていった。
……二人は浜辺に上がり、並んで座ってじっと海を眺めた。
「来てよかった……」
つぶやくようにユリカは言う。
うん、と彼は応える。
「水平線って、本当にまっすぐなんだね……」
「見たことなかったのか?」
「……アキトと見るのは、初めてだよ」
「そっか……」
彼は納得したように、またじっと海を眺めた。
水面(みなも)がきらきら輝いていた。
☆
「アキト、待って!」
ユリカが彼を追いすがる。
彼はむすっとした顔をしていた。
「一体、どうしたの、ねえ」
だが、彼はユリカを無視するように歩き続けた。
「なんかおかしいよ、アキト……ねえ、アキト」
すると、彼は苛立った顔で、吐き捨てるように言った。
「……自分の胸に聞いてみろ」
そして、すたすたと自転車置き場から自転車を出すと、ユリカに振り返らずにそのまま行ってしまった。
立ちつくすユリカ。
「……どうして……なんで……」
その時、ユリカの周りの風景が、にじんだ。
☆
冷たい雨がしっとりとユリカに染みる。
校門の前で、ユリカは待っていた。
かさもささないで、じっと立っている。
やがて、彼が出てきた。
彼はユリカを見て一瞬たじろいだが、無視して目の前を過ぎようとする。
「待って!」
「イヤだ」
「待って。私の話を聞いて欲しいの……」
アキトがユリカを見る。
その目には、どこかやりきれなさが見えた。
「先輩とは、本当に何にもなかったのよ」
「……あいつは、おまえと……き、キスまでしたって言ってたぞっ」
「嘘よ、そんなの。アキト……信じて。そんなこと、私してないよ」
涙目でユリカはアキトに訴えた。
「だって……だって、私が……私が好きなのは……」
「言うな!……言わないでくれ、お願いだから」
「ううん、言う。私が好きなのは……」
「……ユリカ」
彼はさしていた傘を放り出して、ユリカの両肩をつかんだ。
「俺はユリカを信じる。だから、その後は……言わないでくれ」
「アキト……」
ユリカの目から涙がこぼれはじめる。それを見て、彼はあわてた。
「泣くなって……」
「うん、泣かないよ」
ユリカが無理に笑顔をつくる。涙をこらえて、笑顔を見せた。
☆
ユリカは彼の部屋にいた。
彼と一つの毛布にくるまっている。
それだけなのに、ユリカはかぎりなく暖かい気がしていた。
「……おれさ、コックになりたいんだ」
希望に満ちた目で、彼はそうそう言った。
まぶしそうにユリカは彼を見つめた。
「コックさん?いいね、アキトならきっとなれるよ」
「そうかな」
「そうしたら、二人でお店つくろうよ」
「……そうだな。そうしたら、一緒に……生きてくれるか?」
「……もちろん。それ、プロポーズだよね」
アキトは顔を真っ赤にして、顔を背ける。
「ま、まだ先のことだけど……」
「いいよ……ユリカは待ってる。ずっと待ってるからね……」
☆
「……待ってるから、か」
じっとユリカは左手を見つめていた。
やがて、その目が潤む。
「どうして……今頃になって……夢をみるの……」
ぽたりと、滴が左手にこぼれる。
それをユリカはぎゅっと握った。
「誰を待っているの……。王子さまは……もう、来てくれないよ……」