第三章


 

 

”……ユリカは待ってる。ずっと、待ってるからね……”

 がばっと、ユリカはベッドから半身を起こした。

 しばらく呆然としてあたりを見回し、そして、何かに気づくと、沈鬱な面もちでうなだれた。

 そして、何もない左手を見つめる。

「私……夢みてた……」

  ☆

 始業式の朝……ラッシュ時の電車の中にユリカはいた。

 気分は憂鬱そのものだった。

 また、このラッシュに毎日もまれることになるのかと思うと、どうして気分が晴れようか。

 それに、今日は雨。いつもの5割増しくらいの乗客が乗っている。

 早く駅に着かないか、ただそれだけを願っていたその時、電車が急ブレーキをかけて揺れた。

「きゃっ!」

 その反動で、身体が後ろに投げ出され、どんと、誰かにぶつかってしまった。

「あ、すいませ……」

 吊革から手を離していたのは自分のミス。だから、ユリカは素直に謝ろうと振り向いた。

 そこには自分の通っている高校の制服を着た少年が立っていた。

 どこか冷めたふうな雰囲気を漂わせている。

「大丈夫か?」

 一瞬、ユリカの心がきゅんと鳴った。

  ☆

 朝、ユリカは校門の前に立っていた。

 ちらっと時計を見る。

 そろそろだ……。

 シャーッという音と共に、向こうの角を曲がって、自転車に乗った彼が現れた。

 ユリカが微笑む。

 自転車はユリカの前に止まった。

「おはよう、天河くん」

「おはよう」

 彼は自転車を降り、そしていつものように駐輪場へ歩きだそうとした時、突然彼はユリカの顔をのぞき込んできた。

 驚きのあまり、ユリカは固まる。

「……目ヤニ、ついてるぞ」

 その言葉に、ユリカは顔を真っ赤にして、あわてて目を数回こする。

「ええっ……とれた??」

 アキトは笑いながら、いたずらっぽい目で、もう一回ユリカの顔をのぞき込んだ。

「嘘……綺麗な目だな」

「……そ、そうかな」

 頬を染めてちょっと照れるユリカ。それをまた笑顔を返す彼がいた。

  ☆

 土曜の午後、学校が引けた二人は映画館への道を歩いている。

 彼は自転車を押し、そして今日見る映画の内容を熱心に話していた。

「……それでさ、ジョーってのがまたかっこよくて……」

 ユリカは嬉しそうに彼を見つめていた。

 話の内容よりも、彼と二人並んで歩いているだけで、嬉しかった。

「……アキトくん」

 ユリカが話しかける。

「ん?」

「そのアニメ、好き?」

「うん、好きだ」

 彼は大きくうなずいた。

「そっかぁ……」

 ユリカは笑顔を見せた……その端に、少しの嫉妬を見せながら。

  ☆

 茜色の夕焼けが差し込む校庭の水飲み場で、部活を終えた彼が顔を洗っていた。

 音を立てないよう、そっと背後に立って、彼が気づくのを待ってみる。

 彼が水を止める。

「はい」

 タイミングを見計らってタオルを差し出す。

「……どうも……って?」

 何気なく受け取って顔を拭い、そしてそこでようやく彼は気づいてあわてて顔を上げた。

「ユリカ……」

 ユリカはふふっと、笑った。

「アキトが見えたから、来ちゃった」

 すると彼は少し顔を赤くした。

「……ありがとな、これ……」

 そう言ってタオルをユリカに返した。

「明日、試合勝てそう?」

「ああ……最後の大会だからな、なんとか勝ちたいと思ってるんだ」

「明日はお弁当つくって、応援に行くからね」

「いいよ……」

 照れくさそうに彼は言う。でも、その顔はまんざらでもないという表情だった。

 ユリカは満面の笑みでうなずいた。

「うん、ユリカが応援するから、必ず勝てるよ」

  ☆

 どこまでも青い空、どこまでも青い海。

 そこに、はしゃいでいるユリカと彼の姿があった。

 この日のために買ったセパレートの水着を着て、彼に水をかけて遊んでいる。

 彼はちょっと目のやり場に困っているように、ためらいがちにユリカに水をかける。

 それがおもしろくて、ユリカはかえって彼のそばに近づいていった。

……二人は浜辺に上がり、並んで座ってじっと海を眺めた。

「来てよかった……」

 つぶやくようにユリカは言う。

 うん、と彼は応える。

「水平線って、本当にまっすぐなんだね……」

「見たことなかったのか?」

「……アキトと見るのは、初めてだよ」

「そっか……」

 彼は納得したように、またじっと海を眺めた。

 水面(みなも)がきらきら輝いていた。

  ☆

「アキト、待って!」

 ユリカが彼を追いすがる。

 彼はむすっとした顔をしていた。

「一体、どうしたの、ねえ」

 だが、彼はユリカを無視するように歩き続けた。

「なんかおかしいよ、アキト……ねえ、アキト」

 すると、彼は苛立った顔で、吐き捨てるように言った。

「……自分の胸に聞いてみろ」

 そして、すたすたと自転車置き場から自転車を出すと、ユリカに振り返らずにそのまま行ってしまった。

 立ちつくすユリカ。

「……どうして……なんで……」

 その時、ユリカの周りの風景が、にじんだ。

  ☆

 冷たい雨がしっとりとユリカに染みる。

 校門の前で、ユリカは待っていた。

 かさもささないで、じっと立っている。

 やがて、彼が出てきた。

 彼はユリカを見て一瞬たじろいだが、無視して目の前を過ぎようとする。

「待って!」

「イヤだ」

「待って。私の話を聞いて欲しいの……」

 アキトがユリカを見る。

 その目には、どこかやりきれなさが見えた。

「先輩とは、本当に何にもなかったのよ」

「……あいつは、おまえと……き、キスまでしたって言ってたぞっ」

「嘘よ、そんなの。アキト……信じて。そんなこと、私してないよ」

 涙目でユリカはアキトに訴えた。

「だって……だって、私が……私が好きなのは……」

「言うな!……言わないでくれ、お願いだから」

「ううん、言う。私が好きなのは……」

「……ユリカ」

 彼はさしていた傘を放り出して、ユリカの両肩をつかんだ。

「俺はユリカを信じる。だから、その後は……言わないでくれ」

「アキト……」

 ユリカの目から涙がこぼれはじめる。それを見て、彼はあわてた。

「泣くなって……」

「うん、泣かないよ」

 ユリカが無理に笑顔をつくる。涙をこらえて、笑顔を見せた。

  ☆

 ユリカは彼の部屋にいた。

 彼と一つの毛布にくるまっている。

 それだけなのに、ユリカはかぎりなく暖かい気がしていた。

「……おれさ、コックになりたいんだ」

 希望に満ちた目で、彼はそうそう言った。

 まぶしそうにユリカは彼を見つめた。

「コックさん?いいね、アキトならきっとなれるよ」

「そうかな」

「そうしたら、二人でお店つくろうよ」

「……そうだな。そうしたら、一緒に……生きてくれるか?」

「……もちろん。それ、プロポーズだよね」

 アキトは顔を真っ赤にして、顔を背ける。

「ま、まだ先のことだけど……」

「いいよ……ユリカは待ってる。ずっと待ってるからね……」

  ☆

「……待ってるから、か」

 じっとユリカは左手を見つめていた。

 やがて、その目が潤む。

「どうして……今頃になって……夢をみるの……」

 ぽたりと、滴が左手にこぼれる。

 それをユリカはぎゅっと握った。

「誰を待っているの……。王子さまは……もう、来てくれないよ……」


前を読む次を読む