第三章
7
ユリカは鏡台の前に座っていた。
淡い色のルージュをひき、唇を閉じて数回それをのばすと、鏡の向こうの自分に微笑みかける。
ふう、とため息をつく。
上のまぶたが、はれぼったく見えた。
ファンデーションをさらに上塗りしようかと手を伸ばし、もう一度、じっと自分の顔を見る。
「……バイザーつければ、わからないよね」
ユリカは手を元に戻した。
椅子から立ち上がる。
そして、いつものように鏡台の上に手をのばして、それをつまみ上げた。
ccの青く妖しい光を放つペンダント。
だが、それを目の前に掲げたとき、ユリカは再び顔を曇らせた。
顔に迷いを見せながらそれを見つめ、ややあって、ユリカはそれを首にかけた。
ポケットからバイザーを取り出して装着し、左手でアタッシュケースを取り上げ、部屋を一瞥して廊下に出た。
廊下ではハーリーが大きなスーツケースに腰掛けていた。
「ごめん、ハーリー君、お待たせ」
ユリカがバイザーの下に笑顔を見せて言う。
ハーリーはスーツケースから飛び降りる形で立ち上がると、ユリカの顔を見て驚きの表情を見せた。
「ん?どうしたの、ハーリー君?」
「あの、もうバイザー、つけているんですね……」
あ、と言ってユリカはバイザーに手を伸ばした。
「うん……ナデシコに乗るのが待ちきれないんだよ」
「でも、あと4時間もありますよ」
「ふふ、4時間しかないって言おうよ」
ユリカは笑いながら優しい口調で言った。
ハーリーもつられて微笑み、ユリカのアタッシュに気づいた。
「持ちますよ」
ハーリーはユリカの左側にまわってアタッシュケースを受け取ろうとした。
「ううん、大丈夫。ほら、こんなに軽いから」
おどけてユリカは左手で持つアタッシュケースをハーリーの目の前に掲げた。
すると、ハーリーは顔を強ばらせた。
「ん? どうしたの、ハーリー君」
「あの……あの、昨日、何があったんですか?」
「えっ……」
そうつぶやいたきり、ユリカは口許に迷いを見せた。
”ユリカさんのおっしゃるとおり、この研究所には非公開のブロックがありました。これがその暗号です。それと……この部屋とこの部屋だけ、セキュリティレベルが他と比べて低いです。おそらく……人が生活していると思います”
「あの……やっぱり……」
「ううん、違うよ……物置だった」
ユリカは大きく首を横に振り、つとめて明るく言った。
「あ……そうだったんですか……」
ハーリーは安堵と失望の入り交じった複雑な表情を作った。
「うん……ほら、行こうよ」
ユリカが歩き出す。
ハーリーはあわててスーツケースを起こし、そしてユリカを先導する形でその前についた。
「……なんか、ほっとした気がします」
スーツケースを転がしながらハーリーが話しかけてくる。
「どうして?」
呑気にユリカは尋ねる。
「だって……もし、もしですよ、そこがブラックサレナのパイロットの部屋だったら……エリナさん、知ってて隠してたことになります」
ユリカは絶句した。
「ハーリー君……」
「……そんなの、許せません」
ハーリーは足を止め、怒りの顔をユリカに向けた。
「……だめだよ、そんなこと言っちゃ。エリナさん、いい人なんだから」
優しくユリカはハーリーの肩を叩き、歩きをうながした。
すいません、とハーリーは謝って、また無邪気な顔に戻った。
「それでですね、一つどうしようか迷っていることがあるんですが……」
「な、何?」
「ナデシコcの艦長はユリカさんですよね……でも、僕、艦長っていうと……ホシノ少佐のことを考えてしまって……みんなの前でユリカさんとは呼べないし……」
やや警戒していたユリカは、たわいないハーリーの悩みにくすっと笑った。
「そうだね……提督でもいいし、准将でもいいし。あ、もちろん艦長でもいいけど」
「そうですか?……でも、今回の作戦では、昔のナデシコのクルーが多いから、艦長っていうと、やっぱりユリカさんのことをさすのかな……」
「おもしろいこと考えるね、ハーリー君……高杉さんも、同じように悩んでいるのかな」
「あの人は、『ユリカさん』って呼んでいいって言ったら、そのうち馴れ馴れしく、呼び捨てで呼ぶと思います」
ハーリーの毒舌ぶりに、ユリカは苦笑いをするしかなかった。
「じゃ、ハーリー君も『ルリちゃん』って呼んでみれば?」
「そ、そんなのダメです!」
ハーリーはムキになって反対する。
「あはは……、じゃ、ハーリー君が艦長って言ったら、ルリちゃんのことを指すことにすればいいよね……ホント、高杉さん、どうするんだろう」
「あの人は多分、そういうことは悩まないと思います」
「……そういうとこ、昔のルリちゃんと似てるね」
ハーリーが顔を赤くしてそっぽを向く。ユリカは声をあげて笑った。
そこへ、コミュニケの呼び出しが入った。
エリナの顔がコミュニケの画面に映る。
その顔にはいつもの余裕が浮かんでいた。
だがその背後は、まるで敵襲のような慌ただしさを見せていた。
「緊急事態よ。急いでドックのオペレーティングルームへ来てくれる?」
☆
「失礼します」
ユリカはそう言いながらその部屋に足を踏み入れると、アタッシュケースをハーリーに放り投げて、メインスクリーンに走り寄った。
アララギ中佐の指揮する分艦隊を表す水色の三角記号、その中心に民間船籍のシャトルを意味する白い点、そして、それと対峙する形となって、敵艦隊がオレンジ色で示されていた。
「……ご覧の有様よ」
そのわきで、エリナが腕組みをして言う。
ユリカがバイザーを外し、スクリーンを見つめたまま眉を寄せる。
「……敵艦隊は、ボソンジャンプで現れたんですか?」
「そうよ」
エリナが素っ気なく応える。
「……どうしてバレちゃったんでしょうか」
ハーリーがユリカの鞄を持ってユリカの横についた。
「それは後で考えようよ、ハーリー君」
そして、スクリーンを見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「……ルリちゃん、優しいからな……」
……シャトルが、アララギ艦隊から突出し、単独で先頭に立った。
えっ、とハーリーが声をあげる。
そして最大船速で敵艦隊に突入し、敵艦隊の中央の突破をはじめた。
さらに、それにそれに続けとばかり、アララギ艦隊が紡績型の布陣で、敵艦隊中央を突破していく。
「……迎撃のために回頭すれば、後ろから来る艦に攻撃されるから、敵は攻撃できない……最年少艦長は伊達じゃないってことね」
エリナがつぶやく。
「……すごいや……さすが艦長」
ハーリーがスクリーンに向かって賞賛の声を挙げる。
だが、隣にいるユリカは表情を依然と強ばらせたままだった。
「……ナデシコc、発進します!」
えっというハーリーを無視して、ユリカはバイザーを再び装着した。
その言葉に、さすがにエリナも腕組みを解いて驚く。
「説明は後で。エリナさん、ナデシコ発進の準備とボソンジャンプの用意、お願いします!」
それだけ言うと、ユリカはなかば強引にハーリーの手を引き、部屋を出ていった。
その時、スクリーンは、新たな敵艦隊がシャトルの前にボソンジャンプしてきたことを示していた。
☆
ナデシコaがオーバーテクノロジーの表面的な利用、すなわち比喩的な意味において”手探り”で造られた戦艦と言えるならば、ナデシコcはその技術を自分のものとして建造された、いわば第二世代の戦艦である。その特徴は、ナデシコaに搭載されていたよりも遙かに大規模のYユニットを搭載していることによる兵器の充実、ワンマンオペレーションシステム、そしてA級ジャンパーのナビゲートによる単独でのボソンジャンプが可能なことである。
ユリカはブリッジ前方のナビゲーターズシートに腰を下ろした。
艦長なのだから艦長席にと言われたが、ナビゲートの必要があるためということと、艦長席は今後ホシノルリが占めることになることになるのだから、ここでいいとユリカはいい、そして付け加えた。
「もし私がナデシコcの提督になったら、ここを提督の席とします」
おそらく、その言は、仮にユリカ以外の人間が提督になっても守られることだろう。
ハーリーがその後方の席で最終確認作業を行っている。
「……発進準備、完了しました!」
ハーリーが叫ぶ。ブリッジ内を、思兼による極彩色の確認画面が埋め尽くす。
「了解。ボソンジャンプ後、直ちにディストーションフィールドを解除し、グラビティーブラストの充填。攻撃のタイミングは私が指示します」
ユリカが凛とした声で言う。
了解、とハーリーが返事する。
続いて、オペレーションルームにいるエリナへのコミュニケを開く。
「エリナさん、ナデシコcの準備、できました」
「こっちも完了したわよ。あなたが言ったとおりの座標計算、出しておいたわ。ナビゲートよろしく」
ユリカの前方のコンソールに宇宙空間の相対座標軸が浮かぶ。
「造ったばっかりなんだから、大事に扱ってよ」
エリナが冗談めかしていう。
その真意をくみ取ったユリカはバイザーを今一度外して凛とした笑顔を見せた。
「……色々とありがとうございました」
「私は何もしてないわよ」
エリナが笑顔でうそぶく。
「あ、それでですね……実は、ひとつ謝らないといけないことがあります」
そう言って、ユリカはごそごそとポケットをさぐり、そしてそれを取り出して頭にかぶった。
エリナはあっけにとられた顔を見せる。
「これ、博物館から勝手に借りてきちゃいました。あはは……」
ユリカの頭には、ナデシコの艦長帽が載っていた。
ふふっとエリナが明るく笑い出す。
「わかったわよ……あなた、艦長ですものね。いいわよ、持って行きなさいよ」
ユリカは笑顔でブイサインをだした。
「行ってらっしゃい、ミスマルユリカ」
「行って来ます……ハーリー君、ジャンプフィールド形成開始」
……通信が切れる。
ナデシコが淡いマリンブルーの光に包まれ、そして、あっけなくその空間から消え去った。
「……さてと。今度は、黒い馬車の支度でもはじめましょうかね」
エリナは腕組みを解くと、誰に言うともなく、そう軽口をたたいた。
(第3章・完。ただし第3章8’に続く)