[ index ] - [ 第2章 4 ]

第2章


 

 

 深夜になって、秋山ゲンパチロウ夫婦との夕食を終えたユリカが、タクシーで士官宿舎に帰宅した。

 入口でバイザーを外し、光彩認証によるセキュリティチェックを受けて中に入る。

 エレベータで12階に上がる。

『テンカワアキト ユリカ』という表札のついた部屋の前で足を止め、IDカードをドア脇のスリットに滑らせて、ドアを開ける。

「……ただいま」

 誰もいない暗闇の向こうに声をかけ、ユリカは灯りをつけた。

 そして、リビングへ向かう。

 電話のボタンが点灯していた。見ると、留守電が3件入っていた。

 再生ボタンを押し、聞こえてくる声を適当に聞き流しながら、ユリカはシャワーを浴びる準備をはじめた。

……シャワーを浴び終わった後、ユリカは寝室で着替えをしていた。

 ユリカの身体よりも一回り大きいカーキ色のパジャマに腕を通し、ボタンをかけようと両手を胸の前に伸ばす。

 だが、ボタンがうまくかからない。

 おかしいなと感じて手許を見る。そして、そのことに気づいて、左前にボタンをかけていった。

 ユリカはその姿……下着一枚と上にパジャマを着ただけの姿で布団に潜り込む。

 ベッドではなく、絨毯の上にしかれている布団。

 布団に入り、ユリカは窓際の方を見やった。

 そこには、古ぼけた木製の長机と、くたびれた座椅子があった。

 

  ☆

 

「ただいまぁ」

 両手に紙袋を提げたユリカが、満面の笑顔で障子を開ける。

 彼は、座椅子に座って机に向かっていた。

「ただいま、アキトぉ」

「ただいまって、ここはお前の部屋じゃないだろ」

 呆れた顔をして彼が振り返る。

「まあまあ……って、アキトぉ、今日どこにも出かけてないの?」

「ああ」

 再び机に向かい、ぶっきらぼうに彼が答える。

 ユリカはきょとんとした顔で尋ねた。

「雪谷のおじさまのお店、今日はお休みだよねぇ」

「ああ」

「なんで?」

「休みだからって……俺にはやることがあるの」

 ふうんとユリカはつぶやき、そして、そっと背後に近づいて、彼の肩越しから興味津々な様子でのぞき込んだ。

 彼は料理のレシピをノートにまとめていた。

「もしかして、それをずうっとまとめてたの?」

「そうだよ……あっちに行っててくれ。気が……散るから」

 迷惑そうな顔をユリカに向ける。

 ユリカはむっとした顔で彼のそばを離れると、部屋の中央にある丸いちゃぶ台のそばに座布団を敷いて座った。

「ねえ、アキトぉ」

「なんだ?」

「ご飯、まだ?」

「……食堂で食べてくればいいだろう」

「ええっ、だぁってぇ……アキトのご飯、おいしいから」

 彼は耳を赤くして、そのまま沈黙してしまった。

 サクサクという鉛筆が紙をこする音が続く。

「そうそう、アキトぉ、今日はお買い物行ってきたんだよ」

 ガザガザと音を立て、ユリカは大手百貨店の商標がついた紙袋をあさりはじめた。

「……せっかくの外出許可日だから、服とか買ってきたんだぁ……」

 やがて中から紙包みをとりだし、それを開けて、白いワンピースを取り出した。

「ほらほら、見て、アキトぉ。もうすぐ夏になるから、夏の服を買ってきたんだよ」

 そう言って、ユリカは服の肩の部分をもって広げてみせた。

 だが、彼は振り向こうとすらしなかった。

 頬をふくらませるユリカ。しかしすぐに気を取り直して再び紙袋をあさり、別の紙包みを取り出した。

「そうそう、新しい水着まで買ってきちゃった。セパレートでね、パレオもついててかわいいんだから……」

 そう言ってユリカは水着の胸のパーツをとりだし、彼の背後にひざ立ちで迫った。

「ねえ、アキトぉ、見てよ。ほらほら……」

「もう! 気が散るって言っただろう!」

 振り向きざま、彼はユリカに怒鳴った。

 途端に、ユリカの瞳に涙が浮かんだ。

「そんなぁ……アキトがきっと気に入ってくれると思って買ってきたのに……ひどいよぉ……」

 しゅんとして肩をおとし、うつむいてしゃくり上げる。

 あ……と彼は声にならない声をあげ、そして身体の向きをかえて、そっとユリカの肩に手をやった。

「あ……その……ごめんな」

 ユリカが顔を上げる。

 そこには困惑した顔の彼がいた。

「アキト……」

「その……おれ、他のことに頭、回らなくてさ……その……もうちょっと待っててくれ。そうしたら、ご飯つくるから、さ」

 うん、とユリカは泣き顔に笑顔を作って大きく頷いた。

……小さなちゃぶ台に二人分の晩御飯が並んだ。

 いただきまーす、とユリカが胸の前で手を合わせ、みそ汁の椀を取ってすすった。

「……おだし変えたの?」

「お、よくわかったな。ちょっと煮干しの量を減らしてみた」

 ふうんとユリカはつぶやいて椀をすすり、ぽつりと言った

「……前の方がいいかな」

 ぐっと、彼は、その容赦ないユリカの言葉に絶句した。ユリカは笑った。

 しばらく黙々と二人は食事をすすめた。

「……おかわり」

 ユリカが開いた茶碗を差し出す。彼は呆れた顔をした。

「太るぞ、お前……」

「だって、すごくおいしいから……あ、おみそ汁もおかわりね」

「はいはい」

 茶碗をユリカに渡し、それと引き替えに汁椀を受け取る。

「でもね、アキトぉ。最近、アキト、料理の腕、すごく上がってる気がする」

「ああ……ここにいると、料理の修行がはかどるからな。はい」

 ユリカに汁椀を返す。それをすすって、ユリカは尋ねた。

「ここを出たら、アキトはどうするの?」

 すると、彼は茶碗を片手に思案顔になった。

「そうだな……どこかで修行させてもらうか、それとも……ラーメンの屋台でも曳くかな」

「ラーメン屋さんになるんだね」

 いつもの笑顔でユリカは頷いた。

「お前はどうするんだよ……」

「わたし? わたしはもちろんアキトについていくよ」

「バカ」

「バカじゃないよ」

「お前は、軍に残るんじゃないのか?」

 ユリカは首を傾げる。

「うーんと……じゃあ」

 彼に向き直ってユリカは言う。

「軍に残って、アキトを手伝うよ」

 はあ、とため息をつく。

「そんなことできるかよ」

「できるよ」

「できない」

「できるぅ」

 ユリカが彼をじいっとにらむ。

 やがて、彼はふっと笑った。

「……戦争、はやく終わるといいな」

「うん! そうだね、早く終わるといいね」

 ユリカはまた、澄んだ笑みを彼に向けた。

 

  ☆

 

「もう寝ようよぉ、アキト」

 カーキ色の男物のパジャマを着て、ユリカは布団にくるまっている。そして、ひとり分を隔てたその向こうには、ルリが静かな寝息を立てていた。

 彼は、貧弱な電気スタンドの黄色い灯りの許、机に向かってラーメンのレシピをまとめていた。

「先に寝てろよ」

「ううん、起きてるよ」

「……ったく、明日も、寝坊したらどうするんだよ」

「またタクシーで行くから、大丈夫」

 ユリカは呑気な口調で答えた。彼は呆れたのか、それ以上なにも言わなかった。

「今日は、お客さん、来た?」

 ユリカが尋ねる。

「雨だったからな……二人だけ」

 その口調の端に、ユリカは彼の強がりを感じた。

「……明日は、きっとたくさん来るよ」

「……ありがとう」

 ざあっという強い雨の音が窓の外から聞こえてくる。

 ユリカはじいっと彼の背中を見つめた。

「……ユリカ」

 不意に彼が言った。

「ルリちゃん、やっぱり『家』に帰そう」

 それを聞いて、ユリカはむくれた。

「だめだよ。あんな『家』にいたら、ルリちゃん、おかしくなっちゃうよ」

 彼は真剣な顔で振り返った。

「落ち着いて考えてみろよ。こんな貧乏なところにいて、ほんとうにルリちゃんは幸せなのか?」

 ユリカは答えに困り、視線を彼からそらせた。

「お前の家にいれば、きちんといいものは食える、いい服は着れる、広い部屋にベッド。いうことないじゃないか」

「でも……」

 何かを言い返そうと顔を上げる。

 すると、彼はふっと微笑んだ。

「別に、俺、怒鳴られるのとか、殴られるのとか、そんなの、ぜんぜん慣れてるからさ……明日、一緒に行こう」

「……いやです」

 それは意外な声だった。

「ルリちゃん……」

 彼はルリを見る。ユリカもその視線を追う。

 ルリは半身を起こして二人の方を向いていた。

「確かに生活水準は艦長の家の方が上です。ですが、艦長が家に戻らなければ、私はひとりです。そんなのは、いやです」

 ルリが真摯な口調で言う。

「三日間、テンカワさん、艦長、お二人と一緒に生活して、わかりました。……家族ってこういうものなんですね」

 ルリが笑顔を見せる。

「家族というのは、たとえ貧しくても、それをお互いに助け合うことで生活するものだと、思兼に聞きました。ですから……私も、家族に入れてください。お願いします」

「……ルリちゃん……」

 彼は立ち上がってルリと向かい合わせに座り、そっとルリの頭を撫でた。

「家族は、テンカワさんとか艦長とか、そんな他人行儀な呼び方をしないよ」

「じゃあ、何と呼べばいいのですか?」

「アキト」

「アキト……さん」

 じゃあ、とユリカは彼の脇に寄る。

「私のことは、ユリカね」

「ユリカさん」

 ユリカはその言葉に頷いた。

「ありがとうございます」

「ごめんね、起こしちゃって……おやすみ、ルリちゃん」

「はい……アキトさんも、早くお休みになってください。ユリカさん、心配してます」

 バツの悪い顔をして、彼は頭をかいた。隣でユリカはくすっと笑った。

「わかったよ。あとちょっとで終わるから、もう少しだけね」

 ルリはうなずき、そして、おやすみなさい、と言って、再び背を向けた。

 ややあって、安らかな寝息が聞こえてくる。

「……アキト」

 んんっと、彼が問い返す間もなく、ユリカの唇が彼の唇をふさいだ。

「……アキト、すごく頼もしく見えたよ」

「あっ……まあ、ルリちゃん、ここにいたいって言ってくれて、本当はすごく嬉しいんだよな、俺」

 顔を真っ赤にして言う。ユリカは微笑んだ。

「家族は多い方がいいよ、うん」

「そうだな……」

 はは、と彼は笑い、立ち上がって再び机に向かった。

「それじゃ、私も寝るよ」

「ああ、おやすみ」

「おやすみ」

 ユリカは、机に向かう彼の背中をじっとみつめ、そして襲ってきた睡魔に身を委ねた。

 

  ☆

 

「もう大丈夫だよ、アキト」

 お茶を持ってきたユリカが、心配そうに彼を気遣う。

 彼は、かなり焦った様子で机に向かい、ラーメンのレシピを見ていた。

「……だめだ」

「アキトなら、いつも通りやれば、きっと勝てるよ」

 そっとお茶を彼の邪魔にならないように置く。

「いや……なにか、なにかが足りないんだ……これじゃ、お前の親父さん、納得させられない……」

「そんなことないよ、大丈夫だよ。それよりも、早く寝ないと。そっちのほうが心配だよ」

「だめなんだよ。どうしても負けられないんだ。ここで負けたら……俺は……」

 その時、ユリカは彼の頭をその胸にそっと優しく抱いた。

「ユリカ……」

「アキトならできるよ。私はアキトのこと、信じてる」

 そう言って、彼の頭を少し強く抱きしめた。

「アキトは私の王子様……だから、今度もきっと大丈夫……アキトはアキトらしく、それでいいと思うよ」

「ユリカ……」

 彼はユリカの胸に顔を埋めた。ユリカはそれを愛おしげに見つめ、その頭を優しく撫でた。

「俺……きっと、恐いんだな」

「お父さまが?」

「ちがう……自分に負けるのが」

 ユリカは答えるかわりに、彼の頭を撫で続けた。

「本当にこれでいいのか、って考えたら……いいのかどうか、わからない。だから……やっぱり恐いよ。勝負とか結婚とか、そういうことじゃなく、俺自身、これでいいのかって考えたら……」

「私は、今のアキトが好きだよ」

「ありがとう……でも……俺……」

 ユリカは彼から身体をはなし、そして顔に顔を近づけて、そっとキスをした。

「……おまじない」

 彼は当惑した顔でそこにいた。

 ユリカは満面の笑顔を彼に見せる。

「これでアキトは勝てるよ。ユリカが勝てるって言ったら、勝てるよ。」

 彼の身体に腕をまわす。

「信じてるから。きっと……きっと……」

……彼はユリカの身体を抱きしめた。

「……落ち着いたよ。ありがとう。俺、明日、絶対に勝つよ」

「うん……」

 そのまま、ユリカはもたれてくる彼に身体を預けた。

 

  ☆

 

「寒いな……」

 テンカワユリカはじっと座椅子を見つめていた。

 彼は、もう、そこにはいない。

「……おやすみ」

 ユリカはおもむろにリモコンのスイッチに手を伸ばし、部屋の灯りを消した。