第２章

９'

　ルリは空を見上げた。

　透明度の高い青い空に、雲の大きな塊が天上に向かうかのように浮かんでいた。それが夏の訪れを告げていた。

「……どうしたの、ルリルリ」

　喪服を着たミナトが尋ね、同じように空を見上げた。

　そこには飛行機雲が一筋……それは何も関係のないものなのに、ルリはそれをじっと見つめていた。

「……お見送りに行かなくて、本当によかったの？」

「はい……ユリカさんがいるから、大丈夫です」

　ルリは視線をミナトに移した。

「でも、なんで急に月に行くって言いだしたんだろうね……」

　ミナトが、ルリの後について歩き始める。

「ユリカさんは、ハーリーくんのお守りにいくっておっしゃってました」

「だって、今年は来れそうだって言ってたんでしょ」

　ルリは確信に満ちた表情を見せた。

「……きっと、ユリカさんなりの考えがあると思います」

「ま、昔から、突拍子もないことをする人だったから、驚かないけどね」

　ルリはくすっと笑った。

　視線をイネスフレサンジュの墓に移す。

　そして、そこで足を止めた。

　そこには、黒いマントに身を包み、バイザーをつけた男が立っていた。

「アキトさん……」

　アキトと呼ばれた男はわずかに首をルリに向け、またイネスの墓へ向き直った。皮の手袋をしたその手には、早咲きの白いマーガレットの花束が握られていた。

　男は花束を無造作にイネスの墓に投げた。懐に手をいれ、オレンジグミのお菓子をとりだし、それをちらりと確認すると、それも墓に向かって投げた。

　その一連の動作が済むと、一歩下がって墓の前を空けた。ルリはその前に入り、しゃがんで、線香の束をろうそくの火にかざし、線香を供えた。

　合掌して目を閉じる。

　やがて、目を開けると、ルリは静かに言った。

「去年もここに花がありました……アキトさんだったのですね」

　その言葉に返事はなかった。ルリは立ち上がって男と向かい合った。

「生きている。それだけで嬉しいと、私は言いたいです。ですが……一つだけお聞きしたいことがあります」

　ルリは感情の高ぶりを抑えながら、じっと男の顔を凝視した。

　男は口を開いた。

「……なんだ」

「どうして、私たちに、生きているって、教えてくれなかったのですか？」

　長い時の空白が過ぎていく。

「……教える必要が、なかったから」

「……ユリカさんにも、同じ言葉、言えますか？」

　ルリは微動だにせず、男を見据えていた。その金色の瞳には、強い意志が宿っていた。

「……君は」

　再び男は言葉を発した。

「君は、誤解している。俺は……テンカワアキトなんかじゃ、ない……」

「そうですか……」

　ルリは視線を落とした。小さな肩を震わせる。

　そして、ルリはきっと顔を上げた。

「そうですね。あなたは、アキトさんじゃない……私の好きなアキトさんは、そんな人ではありませんから……」

　男は何もこたえなかった。

　答えずに、ルリに背を向けた。

　ルリの顔に失望の色が過ぎる。

　だが次の瞬間、男はマントの下からブラスターを取り出すと、いきなり在らぬ方向へ発砲をはじめた。

　ルリは唖然としてその光景を見つめた。ブラスターを撃った方向には何もいない。だが、男は、六連弾倉のすべてを撃ち尽くすと、慣れた手つきで弾丸を交換し、なおも撃ち続けた。

　すると、その向こうにぼんやりと７体の人影が映った。それは、藁で編んだ笠をかぶり枯れた色の外套をまとった異様な姿へと変わった。

「……迂闊なり、テンカワアキト」

　中央にたつ首領は、低い声でその名前を呼んだ。

　男はブラスターを撃つのをやめると、かばう形でルリたちの前に立ちはだかった。

　首領は笠を上げ、その下に潜む狂気の顔をあらわにする。

「テンカワアキト、我らとともに来てもらおう」

　奇妙なまでに口許を歪める。

”女は”

”殺せ”

”娘は”

”捕らえよ……昨夜の不手際、償わなければならん”

　その最後の言葉を耳にして、ルリはあることに思いあたった。

「昨夜……まさか、ユリカさんを襲ったのは……」

　ルリの前に立つ黒いマントの男は、ぴくりと肩を震わせた。

「……逃げろ」

「こういう場合、普通、逃げられません」

　ルリは冷静に指摘する。

　その瞬間、賊の一人がブラスターを構えた。

「ルリちゃん、下がって……！」

……銃声がルリのすぐそばで響いた。

　反射的に閉じてしまった目を開ける。

　そこには、自分をかばう男の左腕があった。

　銃創を負った箇所から、鮮血が吹き出す。

「アキトさん！」

　ルリが思わず悲鳴を上げる。

「……痛くないな……そうだろう、何も感じないようにしたんだからな」

　しかし、男は平然と首領に言い放った。

　ルリは呆然と男を見上げる。

「何も感じないって……」

「笑止……いつまでかばっていられると思っているのか」

　首領が嘲り笑う。だが、男はひるむことなく言った。

「やってみるか、北辰……俺が死ぬまで」

「戯れ言を……」

　その言葉を合図にして七人衆がにじり寄る。

「……そこまでだ、北辰！」

　その時、賊を取り囲む形で、墓石に身を潜めていたネルガルの極秘部隊が現れた。

　　☆

　墓場を一望できる丘、そこにルリとアキトは立っていた。

「……君に、託したい物がある」

　アキトはそう言って懐に手を入れ、一片の紙切れをルリの前に差し出した。

　受け取ってそれを開き、ルリは息をのんだ。

「こんな……こんなもの、受け取れません」

　それは、３人で一緒に暮らしたときにアキトが作った、ラーメンのレシピの記された紙。

「もう必要ないんだ……」

　アキトは静かに言った。

「君の知っている、テンカワアキトは、死んだ。彼の生きた証……受け取ってほしい」

　ルリは怒りに満ちた顔をアキトに見せた。

「いやです。アキトさん、ふざけてます。からかってます」

「ちがう……ちがうんだよ」

　すると、アキトは包帯を巻いた腕でそのバイザーを外した。

「……奴らに頭の中、いじられちゃってさ。何も感じないんだ。それに興奮すると、こんなふうに、ぼおっと光るんだ。マンガみたいだろ」

　苦笑いをするアキト……ルリのよく知っているその顔には、緑色の発色する幾何学模様が浮かんでいた。

「特に、味覚がね……だめなんだ」

　ルリは、自分のひざが震えているのに気づいた。身体から力が抜けていく気がした。

「もう君に、ラーメン、つくってあげることは……できない」

　アキトが寂しげにつぶやく。

　ルリは、拳を握って、必死で自分をこらえた。

「……君だなんて、そんな呼び方、やめてください。昔みたいに……昔みたいに、ルリちゃんって、優しい声で呼んでください！」

　アキトは、ルリの視線を避けた。

「さっきだって、ルリちゃんって、呼んでくださいました。私のことを命がけでかばってくれました。あなたは……あなたは、やっぱり、私の知っている、私の好きなテンカワアキトさんです！」

　アキトは、また、何もこたえなかった。

「アキトさん！」

「……すまない、時間だ」

　アキトはバイザーを装着し、ルリの横を抜けようとする。

　ルリは力の限りアキトの身体を抱きしめた。

「行かないでください！　アキトさんが行く必要はないんです。ナデシコｃも、もうすぐ完成します。この船があれば、”火星の後継者”を倒すことはできます。だから、もう……もう、行かないでください」

「……これは、俺自身の……」

「ユリカさん……ユリカさんだって……」

　その言葉に、アキトはルリに向き直った。

「ユリカに伝えてくれ。いや、言う必要もないか……俺はもう、ユリカにとっての王子さまじゃない。シャトルが爆発した瞬間、テンカワアキトは確かに死んだんだ……もう、この世のどこにも、いないんだ、と」

「そんな嘘、つけません！」

「ルリちゃん……」

　アキトがバイザー越しに迷いを見せた。

「お願いします、アキトさん。そばにいてください！」

　ルリがアキトの身体を抱きしめ、すがるようなまなざしで見つめた。

　やがて、アキトは言った。

「ごめん……やっぱり、俺は、ルリちゃんの知っているテンカワアキトには、戻れない……」

　アキトはルリの身体を少し力を入れて突き飛ばした。

「アキトさん！」

　後ろに倒れて地面に腰を打ったルリが、すぐさま立ち上がり、駈けていくアキトの後ろ姿を追おうとする。

　だが、アキトはその胸に手を当てると、身体に緑の幾何学模様が浮かせて、その場から姿を消した。

　愕然として、その場でルリは立ちつくした。

　ついさっきまでそこにいた、その残像を求めて……。

「ルリルリ……」

　二人の様子を遠くから見ていたミナトが、見かねてルリに近寄ってきた。

「ミナトさん……」

　ルリは大粒の涙を浮かべて振り向き、そして、ミナトの胸に顔を埋めて号泣した。

「……とめられなかった……わたしは、あの人を……あの人を、とめることが、できなかった……」