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第3章


 

 

 その時、ふわっという感覚が足許を包んだ。

 肌に触れる空気の比重が、心なしか軽い。

 それは、地球とは違う重力圏、すなわち月に到着したことを示していた。

 ゆっくりと目を開ける。

 先程と少しも変わらず、リラックスして目を閉じているハーリーの姿がそこにある。

 ユリカは安堵のため息をつき、その肩を軽くたたいた。

「ハーリーくん、着いたみたいだよ」

 すると、はっとしてハーリーが目を開ける。

「あ……。えっ、もう着いたんですか?」

 その驚いた顔に、ユリカがうなずく。

 ハーリーは不思議そうに辺りを見回しはじめた。

「……なんか、さっきと全然変わってないような気が……」

”……本当よ”

 突然、マイク越しの女性の声がその場に響いた。

 ユリカは天井付近のオペレーションルームを見上げた。

 そこには、慌てた様子のスタッフ数名を背景にして、エリナ=キンジョウ=ウォンが、意味ありげな笑みを浮かべて二人を見下ろしていた。

 

  ☆

 

「……それで、さっそくだけど、ナデシコcを見てもらえるかしら?」

 型どおりのあいさつを交わした後、ネルガル重工開発部部長・エリナ=キンジョウ=ウォンのその言葉で、ユリカとハーリーは研究所地下にあるドックを訪れた。

 ドックに浮かぶナデシコc……外装の一部が金属の色を剥き出しにしていたが、それは優美な姿をたたえて静かに眠っていた。大きさとしてはナデシコaとほぼ同程度。ただ、それよりも下部が幾分大きく見える。

 ハーリーは手すりから身を乗り出し、好奇心いっぱいのまぶしい目で、興味深くナデシコcを眺めていた。

 それを好意的な視線で横目に見ながら、エリナは腕を組んで余裕の笑みを浮かべた。

「これがナデシコc……現段階で最強の戦艦よ。すでに工程の93%は終了しているわ」

「でも、残っているのはなんですか?」

 その対面に立つユリカは、バイザーの位置を直しながら、素っ気なく問いただした。

「あら、聞いてなかったの? 戦闘能力的には問題ないわ。あとは、外装と、艦内部の居住性が不完全ってところね」

「ですが、その割に、残り7%ってのは、大きすぎると思いますが?」

 その指摘に、エリナはくすっと笑った。

「鋭くなったわね……正確には、戦闘能力の上で2点ほど問題があるわ」

「何です?」

「相転移砲の指向性が不安定なのと、グラビティーブラストの照準がやや甘いことよ」

 ユリカは眉を寄せた。

「相転移砲はいいとしても、グラビティーブラストは何とかなりませんか?」

 すると、エリナは組んでいた腕を解いて腰にあてた。

「そうね、できる限りなんとかするわ……ま、実際は、思兼のご機嫌次第っていうのもあるんだけどね……」

 そして、ハーリーの方を向き、子供向けの優しい口調で言った。

「ハリ君。さっそくだけど、思兼との接続実験、いいかな?」

「あっ、はい、わかりました」

 ハーリーは元気よく答えた。エリナは柔らかい笑顔を作った。

「いい子ね。じゃ、行きましょうか……それで、あなたはどうするの、ミスマルユリカ?」

「テンカワです、エリナさん。私は、ちょっと行くところがありますので。ハーリーくんのこと、よろしくお願いしますね」

 

  ☆

 

 月にある連合宇宙軍第二艦隊司令部、そこをユリカは訪れていた。

 表向きは、総司令・ミスマルコウイチロウの視察の日程の伝達。だが、実際は、ホシノルリと旧ナデシコクルーの乗るシャトルの護衛についての最終的な調整を行うためである。

 ナデシコcによる火星奪還作戦の細部については、第二艦隊の上層部にしか知らされていない。したがって、護衛作戦の名目上の目的は、あくまで民間船の護衛にすぎないことになる。しかし、たかが民間船の護衛とあなどられて任務を疎かにされるわけにはいかない。よって、この作戦の遂行に際しては、忠実にかつ全力で任務をこなす実直な部隊が必要である……と、ユリカはミスマル総司令を通じて第二艦隊に打診してあった。

「……それで、テンカワ准将」

 第二艦隊司令は言った。

「偽装した民間船には、ホシノルリ少佐が乗っているのだったね」

「はい、そのとおりです、閣下」

 すると、司令は顔をほころばせた。

「それは良かった。実は、本作戦に適任の部隊がいてね……まさに、彼らをおいて他にはおらんよ」

「ありがとうございます」

 ユリカも笑顔でうなずく。

 すると、司令は一言だけつけくわえた。

「……もっとも、准将の言っていたのと、ちょっとだけ違うかもしれないがね」

 

……その言葉を受け、ユリカはその部隊の控え室に向かっていた。呼び出そうかという司令の厚意を敢えて断った。司令の色眼鏡でなく、自分の目で確かめたいと思ったからだった。

 ユリカは脚を止めた。

「第七分艦隊……ここだな」

 そうつぶやいてドアをノックしようとしたその時、部屋の中から複数の男の感嘆の声が聞こえてきた。

 一瞬、眉間にしわを寄せたが、それ以上は特に気にしないで、ユリカはドアを普通にノックした。

 しかし、中から反応はなかった。

 小首を傾げ、今度は少し強くドアを叩いた。

 それでもなお、中からは返事がなかった。

 だれかいることは確かなのだ。不審な表情で、今度はドンドンと強くノックした。

「……馬鹿者! とっくに始まってるぞ! 勝手に入ってこい!」

 男の声が返ってくる。

 むっとして、ユリカは思いっきり勢いよくドアを開けた。

「テンカワユリカ准将、入ります!……えっ……ええっ?!」

 そして、その向こうの光景を目の当たりにして、怒りを通り越して呆然とその場に立ちつくした。

 12畳ほどの部屋、その壁一面いっぱいに、ある少女の写真やら軍内報の切り抜きやらが貼ってある。そして、右側面の壁には少女の等身大のポスターがあった。

 部屋の中には大型のプロジェクターがあり、その画面には少女が、かつて最年少艦長に就任した当時に放映された公営放送のインタビューの映像が流れていた。

 それらはまさしく、ホシノルリその人のものだった。

 部屋の中には連合宇宙軍の制服を着た士官が7人。皆スクリーンの前にかぶりつくような体勢でそこに集まっていた。だが、その視線は突然の訪問者であるユリカに向けられていた……驚愕と困惑と非難とが入り交じった複雑な視線が。

「……あ……あはは、あはははは。どうもどうも、失礼しましたっ!」

 ようやくユリカは自分を取り戻して笑ってごまかし、ドアを思いっきり閉めて、壁にもたれかかった。

「はぁはぁ……あー、びっくりしたぁ」

 その時、カチャッとドアが開いた。

「あの……テンカワユリカ准将でいらっしゃますか?」

 若い士官がドアから少しだけ顔を出す。

 ユリカはビクッとした身を引いた。

「は、はい、そうです」

 引きつった笑顔で答える。

 すると、男は何事もなかったように爽やかな笑顔で言った。

「こんなところで”星空の女神”と出会えるとは光栄の極み……自分は、第二艦隊所属第七分艦隊隊長、アララギ中佐であります。さ、どうぞお入りください」

 

 ユリカは来賓用のソファに座り、落ち着かないそぶりを見せていた。

 何しろ、壁一面にルリの写真が貼ってあるのだ。その中には、どこから手に入れたのか、”一番星コンテスト”の時の写真まであった。先程までいた士官たちが去ったのがまだ救いであったかもしれない。たしか、去り際に”鑑賞会”とか言っていた気がする……。

 対面に座るアララギ中佐は、自信に満ちた顔と口調で言った。

「ホシノルリ少佐……宇宙(そら)に咲きし白い花、”電子の妖精”の護衛をつとめさせていただくことになり、我が分艦隊一同、光栄の極みであります」

「は、はは……よろしくお願いします」

 ユリカはつとめて笑顔をつくって答えた。

「おまかせください、准将。我が精鋭たちも意気盛んにその日がくるのを心待ちにしております。我らが命にかえても、”妖精”は無事にお迎えいたします。ところで……」

 そう言って、いきなりアララギはずいっとユリカに寄った。

 その勢いにのけぞるユリカ。

「准将はナデシコaの艦長時代、ホシノ少佐と乗艦されていたそうですが……」

 真剣な表情をして、声を潜めて言う。

 とまどいながらも、ユリカはうなずいた。

「実は……本作戦遂行にあたり、非常に重要なお願いがあります。……そう、我が分艦隊の命運を分けるくらいに重要な」

「何でしょう?」

 ユリカは表情を固くして、アララギの言葉を待った。

 そして、アララギは言った。

「……ホシノ少佐の、”一番星コンテスト”のVC、お持ちではありませんか?」

 

  ☆

 

 第二艦隊司令部を辞したユリカは、ネルガル重工の研究所に戻る前に、研究所に併設されているネルガルの博物館を訪れた。

 ネルガル重工の歩みを技術史的な観点で説明したもの……それがその博物館の意義であったが、中でも展示品の目玉は、退役したナデシコaそのものだった。

 他のものに目をくれず、ユリカはナデシコaへと向かう。

 ネルガルのドックを模したそこに係留されている形で、ナデシコは展示されていた。

 ユリカの立つ位置は、ちょうどナデシコの艦橋部の真っ正面にあたった。

 まぶしい視線を艦橋へ向ける。

 その姿勢は、おのずと艦長卓の前で指揮を執っていた時のものと同じくなった。

 不意に視線を脇にずらす。

 そこには展示品としてのナデシコの説明があった。

”ND-001 ネルガル重工1番艦 ナデシコ”

 その後に技術的な説明が入っている。それをとばして先を読み進める。

”……木連軍を撃破し、火星の極冠遺跡を奪還、戦争を終結させるに至る”

 ユリカはくすっと笑った。

 それが嘘であることを、ユリカは知っている。結果として戦争は終わったのだ。終わらせたのではない。

 次の文言に目を移す。

”艦長は御統(ミスマル)ユリカ(当時20歳)”

 それを見て、ユリカは切ない笑顔を浮かべ、ナデシコに向き直った。

「……ただいま、ナデシコ。ミスマルユリカは……月に戻ってきたよ」