第1章
4
その日、試験艦NS955B・通称ナデシコb艦長ホシノルリ少佐は、連合宇宙軍本部ビルに呼び出された。それは、コロニー「シラヒメ」の爆発「事故」がマスコミに公表される3日前のことである。
その情報を既に入手していたルリは、自分がムネタケ参謀長に呼ばれた理由について、おおよその見当をつけていた。
そして、予定通り、ヒサゴプラン最後のコロニー『アマテラス』へのナデシコbの出撃任務が言い渡された後、いつものように、テンカワユリカ准将の執務室へと向かった。
連合宇宙軍大佐としてナデシコaの艦長をつとめていたユリカは、ナデシコaの退役に合わせ准将に昇進したが、同時にその所属は参謀本部付とされ、具体的な職責は与えられなかった。木連との大戦以降に創設された軍組織である地球連合統合平和維持軍、略称・統合軍に、連合宇宙軍の人材と仕事はことごとく流出してしまい、いずれは廃止の運命にある連合宇宙軍に任官そのものがなかったのである。おかげで、准将クラスの将官であっても、その身分にそぐわない広さの個室を得ることができたのだが。
ただそうは言っても、木連との戦争を終結に導いたナデシコの艦長を無任所准将に任じるという人事は、周囲からは不可解で不自然なものとしてとられた。それはさまざまな憶測を呼んだが、一人娘をもはや前線に立たせたくないというミスマル総司令の私人としての思惑と、将来の参謀長にと当て込んでいるムネタケ参謀長の公人としての思惑が一致したからであるというのが、その定説になっていた。
ユリカの執務室の前に立ち、インターホン越しに自分の名前を告げる。
”あ、ルリちゃん。どうぞどうぞ”
いつもと変わらぬ明るいユリカの声が聞こえると同時にドアが開いた。
ユリカはルリの姿を見つけると、持っていた書類を無造作に机の上に放り投げて立ち上がった。
「いらっしゃい、ルリちゃん」
「こんにちは、ユリカさん」
あいさつを返し、ルリは机の前にある一対のソファに腰掛けた。そして、閉じた膝の上に両手をおいて、じっとユリカを見つめた。
ユリカは机の脇の小さな冷蔵庫の前にしゃがみこんでいた。
「……ルリちゃん、今日は何にする?」
「では、オレンジジュースをお願いします」
オッケーと陽気に答えてユリカは冷蔵庫の中をまさぐり、オレンジジュースと紅茶の缶をとって立ち上がった。
対面のソファに座り、オレンジジュースをルリの前に差し出す。
ユリカが紅茶の缶を空けて口をつける。それを見て、ルリもオレンジジュースのふたを開けた。
ふと、先程までユリカが読んでいた書類のことを思い出す。
「……あの、おいそがしいところじゃなかったんですか?」
「あ、いいよ。ぜんぜんやることなかったし」
ユリカは缶を口から離し、明るく答えた。
ルリはオレンジジュースに口をつけ、そして、切り出した。
「……ナデシコbで、『アマテラス』へ向かうことになりました」
「うん、聞いたよ。『シラヒメ』の事件をうけて、っていう話だよね」
聞き逃してしまうくらいに平然とした口調でユリカは言った。
ルリははっとする
「そうです……あの、どうしてそれを?」
「ムネタケ参謀長が教えてくれたんだよ」
「参謀長が……?」
「うん。テンカワ准将、これはまだ公表されていない極秘情報なのだが、って前置きして……」
紅茶を一口飲み、ユリカはルリに思わせぶりな顔でウィンクしてみせる。
「たぶん、みんな知っているよ、きっと」
それにつられて、ルリも微笑んだ。
「……そうそう、さっきの書類ね、ジュンくんからの報告書なんだよ」
ユリカは立ち上がって机の上に投げ出した書類を取り上げ、ソファに戻ってルリに手渡した。
「よろしいのですか?」
とまどうルリに、ユリカは缶を口につけながらうなずいた。
表紙は白紙だった。それが、その報告書が草稿であることを意味していた。
パラパラと紙をめくっているうちに、ふとルリはその手を止めた。
「……ボソンジャンプ……」
「そ、ボソンジャンプ。エステバリスの2倍ぐらいの大きさの黒いマシンが、ボソンジャンプして『シラヒメ』を破壊したって……統合軍はぜんぜん信用していないみたいだけどね。でも、ジュンくんが嘘つくわけない。ユリカは信じてるよ」
ルリは報告書をテーブルの上に置いた。
「しかし、そんな大きな物体が、ボソンジャンプできるものなのでしょうか?」
「ルリちゃん……A級ジャンパーが3人、それでナデシコだってとばせちゃうんだよ」
あっ、とルリは声を出した。
3年前、火星極冠で木連軍に包囲されたナデシコが、ユリカたちA級ジャンパー3人で、火星極冠の遺跡とともにボソンジャンプさせたという事実を思い出したのだった。だが、その時の3人のうち、すでに2人はこの世にはいない。そのうちの一人であるイネス=フレサンジュ博士は、次世代型新造戦艦の実験中の事故によって。そして、もう一人は……ルリの目の前にいる人と生涯をともにするはずだった人は……。
……ユリカが愛おしそうに紅茶の缶を振っている。すでに飲み干して空になってしまったようだ。
ユリカは缶を前のテーブルの前に置いた。
「気をつけていってきてね」
その言葉を聞き、ルリはうつむいた。
右手で持っていた缶を両手に持ち直し、意を決して顔を上げた。
「ユリカさんにお願いがあります」
「なにかな?」
「ナデシコbに、提督として乗ってください」
「ええっ!」
気楽な笑みを浮かべていたユリカの顔が、急に困惑に変わった。
「私が行っても何もできないよぉ」
「そんなことはありません。ユリカさんに、艦長としての的確な判断を教えていただきたいんです」
ユリカは照れ隠しをするように笑った。
「そんなぁ、教えることはないよぉ。艦長としてはルリちゃんの方がよくできてるし……」
「そんなことはありません!」
ルリは思わず感情的に言葉を荒らげてしまった。それに気づいて口を手で抑え、心から恐縮した。
「すいません……でも、どうしてもナデシコに乗っていただきたいんです」
ユリカの表情が、真剣なそれに変わった。ルリは続けた。
「今までは、言われたことをそのまま実行してきただけです」
「それだけでもすごいことだよ」
「ありがとうございます。でも、今回は違います」
ユリカは黙ってルリを見つめていた。無言でその先を促していた。
「アマテラスへ向かうこと以外、今回は何も指示がありません。すべて私に任されました。”期待された以上、それに応えられる存在でありたい”と、私の尊敬する人は言っています。私もそうありたいと思います。ですが、今の私にはそれは無理です」
そこで一旦切り、ルリはジュースに口をつけた。
「……不安なんです。何もかも、すべて自分ひとりで決定するのが。私の言葉が正しいのかどうか……恐いんです。ですから、私は、ユリカさんにそばにいて欲しいんです」
真摯な瞳で、ルリはユリカを見つめる。
遠い瞳をしていたユリカは、やがて苦笑して、つぶやいた。
「……ユリカはナデシコの提督さんなんだぞ、えっへん、か」
その言葉に、ルリは目を輝かせ、頬を紅潮させた。
「ありがとうございます!」
ユリカは顔をあげ、またいたずらっぽく言った。
「でも、その前にお父さまの許可をもらわないといけないよね。実は、こっちの方が大変かも知れないけど。あははは……」
☆
コロニー「アマテラス」でナデシコbのとる行動。それは、ナデシコbで待機しているハーリーをオペレータとする、アマテラスのメインコンピュータのハッキングであった。
コロニーをつぶすのが趣味でもない限り、ヒサゴプランに関わるコロニーが狙われるのには、ヒサゴプラン自身にその理由があるはずというのが、本作戦におけるユリカの判断だった。したがって、ヒサゴプランの中枢であり、攻撃から唯一残っている最後のコロニー「アマテラス」のメインコンピュータに狙いをつけたのだった。
しかし、この時期にナデシコb……《電子の妖精》という愛称を持つ艦長の艦が入港すれば、怪しまれるのは確実である。そこで、「敵」の目をそらすためにルリとユリカはナデシコbを敢えて離れたのである。
……ナデシコbの停泊する”港”へは、ライオンズシックル隊のドックからおよそ1kmほどある。行きは自動運転のエアカーに乗ることができたが、帰りとなる現在はエアカー自体が動いていなかった。戦闘中であっても軍人による軍事施設の使用が制限されるはずはない。となれば、メインコンピュータに何らかの異常をきたしていると見るのが自然である。ハーリーが何か失敗したのか……?
だが、その推論は今のユリカにまったく関係がなかった。
走る、走っている、走るしかないのだ、ナデシコbまで。全力で、息を切らせて……バイザーで隠れない口許、そこが常に半開きになり、荒れた呼吸で空気が出入りする。
ようやく港湾部に入り、ナデシコbの姿が目に入った。
口許に浮かぶ緊張の色が褪せる。
そして、速度を落としたその時、前方の隔壁の陰から、5つの人影がユリカの目の前に現れた。