第1章
8
カランという音……床とぶつかって響くその音が、放物線を描いてまた落下するのがはっきりとわかるくらいに、何度も何度も床とはじけあう。
「……提督?」
ユリカは右腕をだらんとさせて、愕然としてその場に立ちつくしていた。
その足許には、先程までその腕に握られていたバイザーが落ちていた。
その光景に、ルリは一瞬言葉を失ったが、すぐに冷静さをとりもどし、ルリはユリカに声をかけた。
「提督!」
その声にはっとして我を取り戻し、ユリカはバツの悪そうな顔をルリに見せた。
「あ、ごめんごめん……と、あはは、何でもないよ。大丈夫」
そう笑ってごまかしながら、しゃがんでバイザーを拾い上げ、ポケットにしまいこんだ。
リョーコのエステバリスから中継させる映像が、ひどく揺れていた。
それは、リョーコが敵の動きに翻弄されていることを示していた。
右からすっと敵機の姿が入り込む。
リョーコがそれに反応しようと右へ旋回する。
だが、次の瞬間には敵影は下方へと消え、直後に、同じ方向からミサイル砲がスクリーンを通過する。
画面が乱雑に振動を起こした。
「……くそ!」
リョーコの叫び声。エステバリスの左腕が黒煙を上げ、爆発を起こした。
「まだまだぁ!」
体勢を立て直そうと、リョーコは上方を向く。
そこには、錫杖を振りかぶった別の敵機がいた。
錫杖がまっすぐコックピットへと振り下ろされる。
刹那の空白。エステバリスはぎりぎりのところで身体をひねり、コックピット直撃を回避した。
錫杖はそのままリョーコのエステバリスの両脚部をぶったぎった。
反動で機体が落下する。
やがて、ずぅぅんという重低音と共に、数秒前まではエステバリスであった金属の塊が地面にたたきつけられた。
「リョーコさん!」
ユリカが身を乗り出して叫ぶ。
「いてて……かなりやばいな、こりゃ」
自嘲的にリョーコは軽口を叩く。
スクリーン上には、錫杖の先端をリョーコに向けて突進してくる敵機が迫っていた。
その時、極彩色の煙幕が一瞬にしてその視界を埋めた。
突然の展開に唖然としていると、煙の向こうから青い影があらわれた。そして、それはリョーコのエステバリスを抱えると、そのまま上昇をはじめた。
「遅れてすいません、艦長」
高杉のコミュニケ画面が、艦長席に浮かんだ。
ふう、と安堵のため息がもれる。
冷静な中にも、どこか安堵の色を感じさせる口調でルリが指示を出した。
「ただちにその宙域を撤退。ナデシコbに帰投してください」
了解、と手早く応える高杉。
そこにリョーコのコミュニケが割り込んできた。
「……ちょっと待て!」
「なんです、リョーコさん」
「あいつ、ほっといていいのかよ! 」
その言葉に、ルリは無言で応えた。
「応答しろ! 聞こえてんだろ!」
そして、リョーコの矛先は、ユリカへと向かってきた。
「ユリカ! おまえならわかってるんだろ! おい!」
「……撤退してください、高杉さん」
一呼吸置き、抑揚のない口調でユリカは言った。
「了解しました」
高杉が振り向きざま、数発の煙幕弾を放つ。
そのまま高杉のエステバリスは上昇し、もと来た通路へとその身を滑り込ませた。
リョーコの糾弾はまだ続いた。
「ばかやろぉ! 引き返せよ! 仲間なんだぞ! こらぁ!」
「悪いな、命令だ」
「ちくしょう……ユリカ! 聞こえてんだろ! あいつは……テンカワは、生きてたんだよ!」
……びくっとユリカの身体がはねた。
「テンカワ! おまえも聞こえているんだろう! 応答しろ! テンカワ!」
その言葉が聞こえるたび、視線を落としたユリカの肩が小刻みに揺れる。
「リョーコさん、落ち着いてください!」
ルリが、ユリカの様子を察して、厳しい口調でリョーコに迫った。
だが、リョーコの悲痛な叫びは続いた。
「テンカワ、返事しろ! ここにはルリもユリカもいるんだぞ!」
「リョーコさん!」
「ちっきしょう。生きてたのに……見殺しかよぉお!」
バンバンと、リョーコがコンソールに力任せに両腕を打ち付ける。
「リョーコさん!」
「テンカワ! 返事してくれよ、テンカワ……!!」
……ドサ、と崩れる音。
「ユリカさん!」
ルリが、クルーの手前をはばかることなく叫んで振り返る。
両ひざを床につき、腕を床に突っ張って、ユリカは肩で息をしていた。
「いや……」
弱々しい声が喉を抜けていく。
すぐにルリは立ち上がろうとしたが、すぐにあることに気づいた。
艦橋全体が動揺に包まれている。
ルリは毅然と顔を上げ、艦長席から艦橋全体を見回した。
「ハーリーくん、データ解析続行! みなさんも持ち場をそのまま維持。いいですね」
そして、リョーコとのコミュニケの接続設定を拒否モードに切り替え、シートをユリカの視線まで落とした。
荒い呼吸を繰り返しながらも、ユリカはルリの指揮卓に手をのばし、無理をおして立ち上がった。
心配そうにユリカの顔をのぞくルリ。
蒼白な顔で、ユリカは言った。
「……ナデシコbは高杉機回収後ただちに本宙域から離脱。負傷者の捜索を続行しながら、地球に……うっ」
ユリカが自分の口に手を当てる。
「提督!」
立ち上がろうとするルリの肩を軽く押さえ、ユリカはそのまま背を向け、歩き出した。
「……了解、しました」
ルリの悲しげな貌に見送られながら、ユリカが艦橋を退出した。
☆
洗面台の前で、ユリカは顔を洗っていた。
手探りで水を止め、顔を右に少し上げると、そこに白いタオルが目に入った。
視線をその方向に移すと、タオルを持ったルリがそこに立っていた。
「どうぞ」
「ありがとう……」
ユリカがそれを受け取って顔をふきはじめる。
「ナデシコbは『アマテラス』を離脱し、現在、地球に向かって航行中です」
「『アマテラス』は?」
「さきほど爆発が確認されました……黒い正体不明機は、行方不明です」
ユリカが顔をふき終わる。それが終わるのを見計らって、ルリがタオルを受け取った。
ありがとう、とユリカがまた言った。
「リョーコさんは?」
「高杉さんと一緒に帰投しました。無事です」
その時、ルリの表情が曇った。
「それで、いま、どうしてるの?」
ユリカの言葉に、ルリは視線を落とした。
「部屋に閉じこもって、でてきてくれません。……高杉さんが帰還したとき、格納庫に行ってお話をしようとしたのですが、目を合わせないで、そのまま過ぎていってしまいました」
ルリが顔を上げる。無理に笑顔をつくっているのが、はっきりと見て取れた。
「わたし、嫌われてしまったようです」
……ユリカは、ルリをぎゅっと抱きしめた。
「ユリカさん……」
「ごめんね、ごめんね……ルリちゃんにつらい思い、させちゃったね」
「そんなことありません。ユリカさんの指示がなかったら、高杉さんも、リョーコさんも……」
ありがとう、とまた言って、ユリカはルリの身体をはなした。
「きっと、これからの方が大変だよ。がんばっていこうね」
ユリカが明るい笑顔で言う。
ルリも笑顔でうなずいた。
「はい。がんばりましょう」
「うんうん。それじゃ、わたしは部屋に戻るから」
「はい、お疲れさまでした」
ユリカはルリの横を抜けて廊下の向こうへと去っていった。
☆
艦内の自室に戻って、ユリカは姿見の前に立った。
ケープを脱いでハンガーに掛け、喉許に手を当ててファスナーをつまみ、そのまま下に引っ張る。
ファスナーが胸元までおりたところでユリカは手をとめ、鏡に自分の首を近づけた。
首にはペンダントのチェーンがかかっている。だが、肝心の台座には何もついていなかった。
「やっぱり……」
自らを責める表情でつぶやく。念のため床をみてみるが、そこには何もおちていなかった。
ファスナーを全部おろしてスーツを脱ぎ、下着姿になってスーツを振る。
しかし、そこからは何も落ちてはこなかった。
ため息をつく。
身体を反転させて壁に寄りかかり、そのまま壁を背にしてうずくまる。そして、腕を首の後ろにのばしてペンダントを外し、そのまま前に持ってきて右の掌に載せた。
かつて蒼い貴石のついていた台座を見つめる。
「やっぱり、これを使わないと、ボソンジャンプできないんだよね……」
その言葉が、やがて自分の中で確信に変わると、ユリカは膝を抱え、その膝に顔を埋めた。
「……アキト……」
その声が泣き声にかわる。
「アキト……アキト……ごめんね……」
ぎゅっとペンダントを握る右手に力がこもる。
「……アキトの大事な……大事な形身……なくしちゃったよ……」
顔を埋めたまま、頭を振る。
「アキト……アキト……ごめんね、アキト……」
さらにぎゅっと膝を抱きしめる。
「アキト……もう、いやなの……信じて……信じて……もう、いやだよ……」
左手の薬指にはめられた銀色の指輪に雫が落ち、キラキラとそれは輝いた。
「……アキト!……アキト……アキト……アキト!……ううぅ……アキトぉ……」
ユリカはまたひざを抱え、そして何度も何度も、その名前を呼び続けた。