第2章
1
梅雨特有の鈍い雨が降り続いていた。
鉛色の重くたれ込めた雨雲が空をおおい、地を濡らす。
その雨音を物憂げな表情で聞きながら、ユリカはひとり執務室のソファに座り、だらしなく足をテーブルへと投げ出して新聞を読んでいた。
ナデシコbの地球帰還後、ユリカには執務室で待機という指示が下った。そもそもナデシコbの提督という職はコロニー「アマテラス」の調査におけるいわば臨時の職であり、その作戦が終了した以上、もとの職に復帰せざるをえなかった。
したがって、無任所准将であるユリカにとって、出勤しては執務室で怠惰な時を過ごすという日々がここ数日続いていた。
テーブルに置かれたコーヒーの缶を取り上げる。
新聞には、”火星の後継者”を名乗るグループの戦果が華々しく書かれていた。
コロニー「アマテラス」爆破後、政府は賊に対して何ら有効な手だてをうつことが出来ないでいた。最重要政策であったヒサゴプランが実は”火星の後継者”の隠れ蓑であったという事実は政府の威信を著しく傷つけたが、それにもまして、政官界内部にも内通者がいたことが混乱に拍車をかけ、政府としての統一した意思決定を不可能なものにしていた。
そこに、決定的な事件が起きた。
”火星の後継者”による火星の占拠である。
もともと火星は大戦後も捨て置かれた地であり、その占領は軍事的には大した意義はない。しかしながら、その示威行動は、”火星の後継者”に対する視線を羨望のそれに変えるのに充分すぎるほどであった。特に、地球との講和後、みずからの自己同一性に疑問と閉塞感を抱いていた木連出身の将校にとって、その存在は輝かしいものだった。
統合軍からは三割の人員が火星へとはせ参じた。それによって、統合軍はその機能を麻痺させる状況に追い込まれた。それは、地球連合政府が”火星の後継者”に対して何ら手を講じる術(すべ)を失ったことを意味していた。
ユリカはくいっとコーヒーをあおった。
そして、ふぅ、とため息をついた。
その時、ピンポーンという執務室のドアのチャイムが鳴った。
”ルリです、ユリカさん”
「ルリちゃん!」
ユリカの顔が急にぱっと明るくなる。
ドアが開き、ルリが3日ぶりの姿を見せた。
「ただいまです、ユリカさん」
微笑むルリ。嬉しさからはしゃぐように、ユリカは立ち上がった。
「おかえり、ルリちゃん。帰ってたんだね」
「はい、つい先ほどです」
ユリカはルリに座るよう勧めた。いつものように飲み物を聞き、それを持ってルリの対面に座って缶ジュースを差し出した。
この3日間、ルリはサセボシティーにあるネルガルのドックへ行っていた。ナデシコbがドックで検査を受けることになり、その付き添いに行っていたのだった。
「……それで、大丈夫だった、思兼?」
ユリカはルリに申し訳なさそうに尋ねた。コロニー「アマテラス」で多方面へのハッキングを行った際、思兼の処理能力の限界値すれすれで連続稼働を行ったため、その後、思兼の処理能力が正常時の六割にまで落ちてしまっていた。ルリの言葉を借りれば「思兼を酷使しすぎたので、完全に切れてしまっています」と。ナデシコbがドック入りしたのは、それが原因であった。
「はい。……ただ、しばらく安静が必要と言うことです。ゆっくり休ませてあげましょう」
「ほんと、ごめんね、ルリちゃん」
ユリカが手を合わせる。ルリは微笑んで、いいえ、と答えた。
そして不意に、ユリカが先程まで読んでいた新聞へと視線を向けた。
「……いつまで続くんでしょう、この騒ぎは」
その瞳には不快感が浮かんでいた。
「そうだね……統合軍はガタガタだし……なんでみんな”火星の後継者”についちゃうんだろう」
「叛乱や革命という言葉に憧れているのではないでしょうか」
その指摘に、ユリカは納得して大きくうなずいた。
ルリはユリカに向き直った。
「宇宙軍は動かないのですか?」
「いまのところはね……」
そう言って、けだるげにユリカは伸びをした。
だがその時、ルリの視線が自分に突き刺さっているのを感じて、ルリを見返した。
金色の瞳が、興味深げに揺れていた。
「ユリカさんは、もう何か考えられているのではないですか……?」
その言葉に、ユリカはふふふっと笑った。
「うーん、ルリちゃんには隠せないなぁ。まだ、ムネタケ参謀長やお父さまには言ってないんだけどね……」
「よろしければ、教えていただけませんか」
「うん、いいよ。あのね……」
……意気揚々と自信のあふれる表情で、ユリカは作戦案を語った。
それを聞き終えると、ルリはぽつりと言った。
「……また思兼を酷使するんですね」
鋭利な刃物を思わせる冷たいルリの意外な言葉に、ユリカは焦りながらも笑って誤魔化そうとした。
「いや、まあ、ね……でも、ほら、損害を少なくして勝てるから、いいかなぁって、あははは……お願い、ルリちゃん」
懇願する視線を送るユリカ。
ルリはくすっと笑った。
「ええ、冗談です。さすがですね、ユリカさん」
「あー、よかったぁ……」
ユリカは胸をなで下ろす。
ルリは、微笑みをそのままに、ジュースの缶を傾けた。
「しかし……草壁ハルキですか……」
新聞の一面には、痩容で鋭い目つきの男の写真が載っていた。”火星の後継者”の首領であり、前の大戦において実質的な指導者であった元木連中将の男である。地球との講和へとつながる木連のクーデターにおいて行方不明となっていたはずだったが……。
「また戦うことになるんですね……」
「そうだね……」
ルリのつぶやきに、ユリカは手を頭の後ろに組んで天井を見上げた。
「草壁ハルキ……あの人と、遺跡をめぐって、また戦うのか……」
はぁ、とため息をつき、遠い目をする。
「私たち……あの時、何のために戦ったんだろう……」
「ユリカさん……」
ルリが切ない視線をユリカに向ける。
ユリカはそっと目を閉じた。