エピローグ

　７月７日、「日々平穏」にて。

　日はまだ高く、これからはじまる宴には、まだ１時間ほどの猶予がある。

　ルリはただひとり、一階のカウンターに座っていた。

　ふつふつと小気味のいい音が繰り返し聞こえる。

　大きな中華鍋が火にかけられ、それは心なしか懐かしいような錯覚を抱かせる匂いを放っていた。

　ルリの誕生日のお祝い、そして、火星戦役の祝勝会。これからはじまる今年の宴はいささか欲張りなものであった。

　しかし、いくら２階を提供してくれるという店主・ホウメイの厚意があったとしても、この店の収容能力にはおのずと限界がある。そのために、この宴がごく内輪なものになってしまうのは、やむを得ないこととはいえ、ルリにとっては残念なことだった。

　それが、思いがけないことで解決した。

　ネルガルの予算で、後日あらためて大規模なものを行うというのである。

　よろしいのですか、というルリの問いに、プロスペクターはいつものような当たり障りない言葉を使って答え、そして付け加えた。

「まあ、お祝いということもありますしね。もちろん、ルリさんのためだけでなく」

……ルリは頬杖をついてカウンターの中を何の気なしに見ていた。

　ちょっと店番をしていてくれと言い残し、ホウメイは数分前に店を出ていた。

　時折、チラッチラッとドアの方に視線を投げる。

　平素のルリが見せないような、そわそわした素振りを見せていた。

　その顔には、喜びを隠しながら、それでもあふれ出てしまう喜びの色が浮かんでいた。

　　☆

　ナデシコｃによる火星制圧により、コロニー「アマテラス」占拠・爆破に端を発する”火星の後継者”事件はひとまずの終結を見た。

”火星の後継者”の首領・草壁ハルキ以下幹部は全員逮捕され、荷担していた部隊も素直に投降。理想的ともいえるほどに事態は展開し、そして収束した。

　混乱を見せていた社会も、急速にその落ち着きを取り戻し、再び静かな日常が続くと思われた。

　それを、一つの話題が取って代わった。

　テンカワアキトの救出、である。

　２年前のシャトル事故により誘拐、”火星の後継者”によって研究に供用され、その後は行方不明とされていたテンカワアキトが、火星極冠遺跡の研究所の地下で発見され、保護されたという報告が、ナデシコｃ艦長・テンカワユリカ准将によって宇宙軍になされた。

　その報告をマスコミがつかみ、それは一つの騒動になった。

　テンカワアキトの奇跡的な生還……もちろん、それもその要因のひとつではある。

　問題は、テンカワユリカがテンカワアキトを救い出したということにあった。

　愛する夫を賊の手から救い出すために、その身の危険をかえりみず戦った妻……。

　そのような陳腐な言葉がマスコミを飾り、世紀の美談としてドラマ化や映画化の噂が流布されていた中、ヨコスカシティーの宇宙港にナデシコｃが帰還した。

　当然のごとく、報道各社は港に殺到した。

　だが、ナデシコｃには、マスコミの玩具となりかけた若夫婦の姿はなかった。

　艦長代理のホシノルリ少佐の言によれば、月に寄港した際、テンカワアキトは病院に収容され、その付き添いとして、テンカワユリカ准将も同行して艦をおりたとのこと。もちろん宇宙軍の指示をあおいでのことです、とルリは付け加えるのを忘れなかった。

　直ちにマスコミは月に殺到しようとしたが、それは不可能だった。戦役直後ということで航空管制が敷かれ、月への民間人の渡航は厳しく制限されていた。

　結局、自身にもニュースバリューのある、ホシノルリ少佐に取材の対象としての白羽の矢が立てられた。その結果、その後しばらくの間、ルリの姿を見ない日はないという状況が続いた……これを喜ぶ勢力がいることも、また事実だが。

　そして、その取材攻勢にもようやく一段落がつき、今日、すなわち７月７日を迎えたのだった。

　　☆

　キィっというブレーキの音。それに、ルリは敏感に反応した。

”ああぁ、ここだここだぁ！”

　ドアの向こうに人影が浮かぶ。

　ルリは、心の高鳴りを感じながら、それをじっと待っている。

”払っとくから、先に店に入ってろ”

「あ……」

　言葉にならない声が、ルリののどをくぐる。

　やがてドアが開く。

　白いワンピースのユリカ。

　そして、白い帽子をかぶった薄桃色の髪の少女が、ユリカに寄り添うように立っていた。

「ユリカさん……」

「ルリちゃん、ひさしぶり」

　凛とした笑顔を見せるユリカ。

「ごめんね、面倒なこと全部押しつけちゃって」

「いいえ、お気になさらないでください。いつ地球に戻られたんですか？」

「ええっと、ついさっき。アカツキさんが特別便チャーターしてくれたから、助かっちゃったよ」

　その時、ルリは視線を感じた。それは薄桃色の髪の少女のものだった。伏せ目がちにルリのことをじっと見つめている。

「あの、ところで、この子は……？」

　すると、ユリカは、薄桃色の少女の肩に手をやって応えた。

「この子はラピスちゃん」

「ラピス……」

「そ、本当はラピスラズリっていう名前なんだよ。ねっ」

　そう言ってユリカはラピスを見て同意を促す。

　ラピスはにっこり笑って、うん、とうなずいた。

　それを見て、ルリもつられて微笑んだ。

「……それで、、ホウメイさんは？」

　ユリカが思いだしたように尋ねる。

「いまちょっと買い出しに行ってますが」

「そっかぁ。いやぁ、タクシーが道に迷っちゃって……」

「……迷ったのは、タクシーじゃなくて、お前だろ」

……ドアが開く。

　濃紺のポロシャツに白のパンツ、サングラスをかけたアキト。

　ユリカがアキトに振り向き、すねた顔をした。

「だぁってぇ、『この町で一番有名なラーメン屋さん』って行って通じないんだもん」

　あのなぁ、とアキトは呆れ返った顔を見せる

　その姿は、あの時に時を戻したかのようなテンカワアキトそのもの。

　ルリは言葉を詰まらせていた。感情の高ぶりがこんなにも自分を不自由にすることに初めて気づいた。

「アキトさん……」

　ようやく言葉を発し、アキトの前へと歩み寄った。

　それに気づいて、アキトはルリに向き直り、口許を引き締めた。

「ルリちゃん……」

「おかえりなさい、アキトさん」

「ただいま……」

　ルリは言葉を探した。だが、見つからない。

「あ……あの、何て言っていいのか……」

　ルリの視線がアキトを視界に入れたまま彷徨う。

　するとその時、アキトの背後にユリカが回り込み、その手が後ろからサングラスに伸びたのが見えた。

　そのままひょいっと持ち上げる。

「ばっ……おい、ユリカ！」

　慌てて後ろを振り返ろうとするアキト。

　だが、ユリカはサングラスをラピスに渡し、そのまま彼の頭を両手でつかんで、顔をルリにつきだした。

「ほら、見てみてみてみてみてみて、ルリちゃん」

　ルリはアキトの顔をのぞき込む。

　そして、気づいた。

　バツの悪そうな表情で視線を反らすアキトの顔の奥、かつて緑に輝いていた線が、ほどんと見えないくらいに消えていたのを。

「元に戻ったんですか？！」

　驚きに大きな声をあげるルリ。

　ユリカは、まるで自分の手柄のように大きくうなずいて応えた。

「完全にじゃないけど、ほとんど元に戻ったみたいだよ。ねぇ、アキトぉ」

「ああ……色の区別が、まだちょっと具合悪いんだけどね……はは」

　照れ隠しのようにアキトが笑う。

　ややあって、ユリカが言う。

「あ、立ってないで座ろうよ……」

「……アキトさんに、お願いがあります！」

　えっ、という素っ頓狂なユリカの声と共に、視線がルリに集まる。

　ルリは、その金色の瞳に強い意志を宿していた。

「私に……ラーメン、つくってください」

「ルリちゃん……」

　アキトがつぶやく。

　眼に微かな迷いが浮ぶ。

　そこに、ルリの懇願の視線が交錯する。

「……つくろ、アキト」

　アキトの腕を取って、ユリカは笑顔でそう言った。

「って、材料もないし、仕込みもしてないのに、どうやって……」

「アキトなら作れるよ」

　ぐっという顔をして、アキトは抗弁を続けようとしたその時、店の奥から声が響いた。

「テンカワ！」

　アキトの顔が引き締まる。

　ホウメイが豪快な笑顔を見せて厨房に現れた。

「ホウメイさん……」

「……おかえり、テンカワ。お前なら出来るよ。仕込みも材料も、ぜんぶ用意してある……だれが料理を教えたと思ってるんだい」

「ホウメイさん……」

「ホウメイさん……」

　アキトに続いて、ルリもなぞるようにつぶやく。どこか懐かしい匂いがするのは、そういうことだったのか……。

「作っておやりよ。２年も待たせた罪滅ぼしさね」

「……はい！」

　アキトは力強く言った。

　ホウメイは腕を組んで何度もうなずくと、彼を促すように、また奥へと消えていった。

　アキトはルリに向き直る。

「久しぶりだから、前ほど美味くないと思うよ……」

「私もそう思います」

　ルリは微笑した。

　そして、苦笑するアキトに対し、言葉を続けた。

「でも、アキトさん、少しも変わっていません」

「ん？」

「そういうところ……前と同じです。やっぱり、アキトさんはアキトさんです」

「ありがとう。……じゃ、作るか」

　アキトは厨房へと足を運ぼうとした。

　その時、ひょいと、彼の前に手が伸びてきた。

　ラピスの手、その手には白い紙切れが握られている。

「アキト、レシピ」

　その手の反対には、赤いポシェットが握られている。常にラピスはレシピを持って歩いているのだろうか……。

　そんなことを考え、ルリは思わずくすっと笑った。

　アキトは頭を掻きながら、ご満悦の表情のラピスからレシピを受け取ると、再び厨房へと向けた足を進めた。

「私も手伝うよ」

　ユリカもその後を追う。

　それを見届けて、ルリは薄桃色の髪の少女の前に立ち、かがんで視線を下げた。

「……アナタハ誰？」

　一人取り残される形になったためか、少し怯えた顔をしてラピスが尋ねてくる。

「私はルリ。ホシノルリ」

　柔らかい口調でルリがそう答えると、安心したのか、ラピスの顔は柔らかくなった。

「ホシノルリ……アナタハ、アキトノ大事ナ人」

　無機質の、しかし、それでも必死に感情をこめようという気持ちのこもった声。

　ルリは少し首を傾げた。

「大事な人？」

「守ラナケレバイケナイ人。アキトハ、ソウ言ッテタ」

「そうですか……」

　ルリは心の奥がじーんとして、何か暖かいものがあふれてくるように感じた。

「あなたが、アキトさんと一緒にいてくれたのね」

「ウン……ワタシハ、アキトノ眼、アキトノ手」

　ラピスが歌うようにしゃべりはじめた。

　軽い驚きを見せ、ルリはラピスの言葉を待つ。

「……アキトトユリカノ家族」

「……私も、アキトさんとユリカさんの家族です」

「家族……ルリモ、ワタシタチノ家族……」

　ルリはうなずく。

「……家族は多い方がいいと思います」

「ウン、ユリカモソウ言ッテタ……」

　こくんとラピスは頷いた。

　ルリはラピスの手を取って、優しく握った。

「ありがとう、ラピスラズリ……」

「ルリ……ドウシテ泣クノ？」

「うれしいから……」

　頬に涙をつたわせたまま、ルリが答えた。

　ラピスがルリの頬に手をやり、そして、慣れない手つきでそれを拭おうとする。

”ちょ、ちょっとアキトぉ！　そんなのいれちゃダメだよぉ！”

”え、これネギじゃないのか？”

”それ、ウドだよぉ”

”うえぇえっって、ウドってなんに使うんだ？”

”ええええっっと、とっ、とりあえずラーメンに入れちゃダメだよ、うんうん”

　厨房から二人の弾む声が聞こえてくる。

　くすくすとラピスが笑う。

　くすっとルリも笑う。

　たしかにルリは笑顔だった。

　幸せに包まれた、キラキラと輝くような笑顔を見せていた。

　　　　　　　　　　　　　NADESICO the MOVIE REMIXED featuring Yurica 「完」